受験が目前に迫っていた中三の冬、願書の提出期限をすっかり忘れていた私は、必ず放課後持ってくるようにと担任に言われていた。
一度家に帰ってから学校へ戻ってくる頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。校内の電気も消えている。テスト前だから部活も休みだし、おそらく職員室以外はすべて消灯されているのだろう。
昇降口のドアを開けて校内を見渡した時、思わずゾッとした。夜の学校って恐ろしく不気味だ。
さっさと提出して帰ろうと、窓からかすかに差し込んでいる明かりや防災照明を頼りに職員室へと急ぐ。
手前のドアから中を覗くと、奥の方に担任の後ろ姿を見つけた。
「先生」
「あ、ちゃんと来たね。願書持ってきた?」
「うん」
鞄からクリアファイルを取り出し、それに挟めてあった願書を担任に渡す。
すぐに帰ろうとすると、担任は何か言いたげに私の目を見ていた。
「先生? どうしたの?」
「……今来たんだよね?」
「うん」
「まっすぐ職員室まで来た?」
「うん。夜の学校って暗いし不気味だし、ひとりでふらふら歩けないって」
確かに不気味だ、と担任が笑う。
「なんかあったの?」
問うと、担任は少し迷うような素振りを見せてからある出来事を話してくれた。
・・・・・
パタパタパタ……
職員室で私が来るのを待ちながら作業に没頭していた時、廊下から足音が聞こえた。
一旦作業を止めて、窓越しに廊下の方に目を向けても誰もいない。他の先生方を見ても、自分以外は誰も反応していなかった。
気のせいだろうと自分を納得させながら、再び作業に戻る。
パタパタパタ……
気のせいじゃない。今度は確かに、さっきよりもはっきりと聞こえた。
部活動は休みだし、生徒は全員帰らせたはずだ。残業している先生方も、今は全員職員室にいる。
最初は、私が来たのだろうと思ったそうだ。職員室を覗いたけど、自分のデスクは奥の方だから見つけられなくて探し回っているのだろう、と。だとしたら追いかけなければと思い、懐中電灯を手に職員室を出た。
足音は昇降口の方へ向かっていた気がする。まさか提出せずに帰るつもりかと焦って足を速めたが、昇降口に着いても私の姿は見当たらない。
パタパタパタ……
今度は背後から聞こえた。
振り返っても、視線の先には立ち並ぶ教室のドアと廊下があるだけだった。
職員室へ戻ろうと、踵を返そうとした時。
受け持っているクラスのドアから、小柄な影がひょっこりと姿を現した。
思わず懐中電灯を向けると、赤い服を着た小さな女の子が立っていた。彼女はまるで鬼ごっこでもしているみたいに、パタパタと小走りでさらに奥へ向かい角を曲がった。その先にあるのは体育館だ。
本音を言えば、足音が聞こえた瞬間からなんとなく生徒ではない気がしていた。やっぱりな──と思いながら、それでも念のため確認しようとあとを追う。
普通教室以外はすべて施錠されているので、体育館には入れるはずがない。
けれど、そこに彼女の姿はなかった。
ドアハンドルに手をかけたが、施錠されているドアはぴくりとも動かなかった。
「どうしたんですか?」
突然後ろから声をかけられ、肩が跳ねた。
振り返ると、同じく残業していた隣のクラスの先生が立っていた。
「急に職員室から出ていったから、どうしたのかと思って。何かあったんですか?」
「あ、いえ……」
女の子が、体育館の方へ走っていったので──。
とは、さすがに言わなかった。
物音がしたので、とだけ言って、ふたりで職員室へと戻った。
・・・・・
「やっぱりあの子だったか」
担任はこの学校に赴任して以来、度々あの子を見かけているらしい。聞けば、印象は私が見たもの、感じたものと同じ。
黒髪のセミロングで、肌が真っ白で、中学生にしては小柄で──顔が見えない。
おそらくあの子だろうと気づいてはいても確信を持てなかったのは、距離が遠くてはっきりとは見えなかったことと、私も小柄でよく赤いパーカーを着ているからだそうだ。
「変な話聞かせてごめんね。気をつけ──」
「先生」
気をつけて帰りなさいよ、と続いたであろう言葉を遮る。
「どうした?」
「……私もね、何回かその子見たことある」
目を丸くした担任は、そっか、と困ったように笑った。
「霊っていうのは、自分に気づいてる人の前に現れるものだから」
やっぱり、あの子は気づいていたのか。私があの子の存在を知っていることに。
職員室を出て、急いで帰宅した。
後日聞いた話によると、願書に未記入の欄があったためすぐに追いかけたところ、走り去る私の後ろ姿をあの子がじっと見ていたそうだ。
*
それから間もなくして中学校を卒業した私は、もちろん彼女の姿を見ることはなくなった。
ただ、今でもひとつだけ気がかりなことがある。数年前、久しぶりに元担任と会った時にこぼしていた内容だ。
彼女は今でもあの学校にいること。そして、私が在学していた当時よりもどんどん悪戯っこになっているので少し困っていること。
元担任がやけにやつれていた気がするのは、彼女の存在とは関係ないと信じたい。
学校名を書いて注意喚起するわけにもいかないことが悔やまれるが、母校の後輩たちに被害が及ばないことを祈る。