二十歳の秋、仁くんと野木くんと野木くんの彼女(仮にBちゃんとする)と、夜中に四人でドライブをしていた時のこと。
「この近くに心霊スポットあるんだけど、今からみんなで行かない?」
 助手席に座っているBちゃんが言った。
 高校生の頃は数えきれないくらいにあったこの展開も、この頃はすでに懐かしかった。『肝試しはほどほどに』以降、私だけではなく、鋼のメンタルだったオカルトマニアコンビさえも心霊スポットから足が遠のいていたのだ。あれは私たちにとって、何年経っても恐怖心が薄れないほどの体験だったから。
 野木くんがやんわり断ってもBちゃんが折れなかったので、とりあえず近くまで行ってみる、という嫌な予感しかしない方向に話が傾いてしまった。

 Bちゃんの案内通りに車を走らせると、もはや定番すぎるが林の中へ入っていった。道路には一応申し訳程度にセンターラインが引かれているものの、とても車がすれ違えるとは思えないほど狭い。
「あ、ここ、左に入って」
「ここ!? 入れんの!?」
 野木くんが急ブレーキを踏む。Bちゃんが指さしたのは、存在を知らなければ気づく人はほぼいないだろうと断言できるくらいにひっそりとした脇道だった。野木くんはBちゃんに促されるまま脇道に入り、ぼこぼこの砂利道を慎重に進んでいく。
 やっと広場に出た時、ライトが何かに反射した。
「看板がある」
 野木くんが言いながら、ヘッドライトをハイビームからロービームに切り替える。すると『立ち入り禁止』の文字が浮かび上がった。目を凝らせば、その下に『この先は大変危険なので絶対に入らないでください。何かあっても一切責任は取れません』というようなことが書いてある。『○○市』と記載があるから悪戯ではなさそうだ。
 看板の後ろには、ドラマで観るような黄色のテープが何重にも引いてある。さらに奥には、半壊しているマンションのような建物が息を潜めるように鎮座していた。
 建物が視界に広がった瞬間、いくらなんでも、たとえ看板が立てられていなくとも、さすがにここはだめだろと思った。
「あれ、あたしが前に来た時はこんな看板なかった気がするけどなあ」
 このタイミングで余計な情報を発信しないでほしい。
「まあいっか。とりあえず入ろ!」
「えっ? いやいやいや、前までって言っただろ」
「だってもうここまで来たら入るしかないでしょ。前に一回来たことあるけど、何もなかったよ? 確かに雰囲気はヤバイけど」
 引き返すという選択肢も普通にあるだろと思いながら、横目で元オカルトマニアコンビを見る。
 野木くんとBちゃんは付き合い始めたばかりなので、私も彼女と知り合って日が浅い。だから彼女に対してあまり強く言うことができず、野木くんにすべてを託すことしかできなかったのだ。……もう少し本音を言えば、私は第一印象からなんとなくBちゃんのことが苦手だった。
「……ごめん、俺は無理だ。絶対入りたくない」
 仁くんはとても空気を読む人だから、絶対に場の空気を壊さない。あとになって知ったことだが、アホみたいに心霊スポット巡りをしていた時期も「入りたくない」「帰りたい」と思ったことが何度かあったそうだ。
 そんな仁くんが「入りたくない」と言ったのは初めてで、それはよほどのことだった。
「……悪い、俺もちょっと……無理かも」
 野木くんですら入る前から無理だと言うような場所だ。
 言うまでもなく、私も無理だった。
 恐怖心というべきか警戒心というべきか、とにかく絶対に入れない、入りたくない。そんな思いが突き上げる。
 野木くんと仁くんは、窺うように横目で私を見た。『肝試しはほどほどに』のあと、私は彼らに自分が〝ある側〟だと打ち明けていた。あの体験があったため、ふたりはすんなり信じてくれた。
 つまり、今ふたりは私に判断を委ねたのだ。
 それを理解したうえで、私は首を横に振った。
「雰囲気だけだって。入ってみたら案外なんともないよ。ねえ入ろう? ちょっとだけ!」
 女の子のわがままも度が過ぎるとぶん殴りたくなる。この子やっぱり苦手だなと思いながら、Bちゃんとの仲が険悪になることを覚悟で「私は嫌だ」と率直に伝えた。彼女は予想通り苦い顔をして、おねだりするように野木くんを見る。
 同性だからここまで腹が立つだけなのか、野木くんと仁くんは「うーん……」とかなんとか唸り始めた。まさかほだされかけているというのか。一万歩譲って彼氏である野木くんだけならまだしも、仁くんまで。
 この人たちは馬鹿なのか。あの日のことを忘れたというのだろうか。
「んー……じゃあ……車降りて、建物の前までな。中には入んないからな?」
 野木くんが早くも折れて、思わず手が出そうになった。完全なる偏見だが、野木くんみたいなタイプに限って自分の彼女には激弱で激甘である。絶対無理だよね、と助けを求めるように仁くんを見れば、しょうがないなあ……という顔をしていた。
 最悪だ。二度とこんな流れにはならないだろうと油断しきっていた。車にひとりで待っていろというのか。車から降りるのは無理だけど、こんな場所でひとりになるのも嫌だ。
 男はなんで新入りの女の子に優しいんだよなんて、だんだん僻み混じりになってくる。
「よし、行くか……」
 野木くんが自身を奮い立たせるように呟きながら、エンジンを切ってドアを開けた。やったーとはしゃぎながらBちゃんも助手席から降りる。仁くんは私の殺気を感じ取ったのか、ちらりと私に目を向けて「ごめん」とでも言いたそうに歪めた顔の前で手刀をかざした。
 遠慮なく八つ当たりをすることにした私は、仁くんを睨みつけてこれみよがしにため息をつきながら、車から降りて野木くんとBちゃんを追う。Bちゃんはまるでデートみたいに野木くんの腕にくっついてはしゃいでいた。ここが心霊スポットじゃなければなんとも微笑ましい光景である。
 黄色のテープをまたぎ、数歩進む。私は無意識に仁くんの服の袖をつかんでいた。意に反して体が小刻みに震えだす。
 近くで見ると、今にも崩れそうなほどボロボロだ。そういった意味でも危険極まりない。ありとあらゆるすべてのことを含めて、なぜBちゃんたちが入れたのか、どうしてもう一度来ようと思えたのか、私には到底理解できなかった。
「ここ昔は旅館でね。あるカップルが心中したらしいんだけど、それから潰れるまでずっと、何組も何組もカップルが心中していったんだって。もちろん家族連れだって友達同士だって泊まりに来るのに、なぜかカップルだけ。お客さんが記入するために置いてあるノートには楽しそうなコメントが書いてあるのに、みんなその日の夜に自殺していくの」
 私は返事ができなかった。どこかで拾ってきたような話を信じたわけではない。
 体が言うことを聞かない。震えが徐々に大きくなって止まらない。
 まるで首を絞められているみたいに息苦しくて、声を出すことすらできない。
「二階のあの部屋。右から二番目の部屋わかる? 最初に心中あったのがあそこなんだって。前に来た時は部屋の前まで行ったんだけどね、友達がみんな怖がって引き返しちゃったんだあ」
 友達の判断は大正解だ。
 何が怖いとか何がだめとか、入りたいとか入りたくないとか、もはやそういうレベルではなかった。
 建物に入れば──いや、こうして敷地内にいるだけでも。
 とにかく、この場にいればただじゃ済まない。
 そんな気がしてならないのだ。
「野木、帰ろう。早く」
 私の異変に気づいてくれた仁くんが言った。建物の中に入ろうと駄々をこね続ける彼女をやんわり制していた野木くんが、やや大げさに肩を跳ねさせながら振り向く。
「ど、どうした? え……まさか、またなんか……」
「こいつがやばい」
 仁くんの気づきと判断はありがたかったが、少し遅かった。
 ひどい頭痛と耳鳴りに襲われ、勝手に涙が溢れてくる。
 続いて吐き気を催し、堪える間も与えられずにその場で嘔吐してしまう。
「おい! どうした!? 大丈夫か!?」
 大丈夫じゃない、だから嫌だって言ったじゃん──と怒ることなどできるはずもなく、とにかくここから連れ出してくれと訴えかけるように仁くんを見上げ、必死にかぶりを振った。
 立っていられなくなり、くずおれた私を仁くんが抱きかかえる。背中をさすってくれる手さえどうしようもなく不快で、体に触れられる感覚がとにかく気持ち悪くて、思わずその手を振り払った。
 この感覚は知っていた。最後に心霊スポットへ行った日と同じだ。
 そして、二度目にして気づく。
 これは、何かが私に集中的に襲いかかってきているのだと。言い方を変えれば──おそらく、憑かれたのだと。
 最悪なのは、あの時よりもひどいことだった。
 とにかく頭が痛い。割れそうなくらいに痛い。耳鳴りがひどくてみんなの声がよく聞こえない。体の震えも吐き気も涙も、全部が止まらない。
 仁くんと野木くんに抱きかかえられながらなんとか車に戻り、私たちはその場から逃げだした。
 前回は林を抜けてその場から離れると次第に落ち着いたから、今回も離れさえすれば大丈夫だと思っていた。だけど、今回は涙が止まっただけで耳鳴りと頭痛と吐き気は一向に収まらなかった。
 とはいえ、さすがにそのうち落ち着くだろうと、どうか落ち着いてくれと祈っていた。
 だけど、私の地獄はここからだった。

 毎晩悪夢にうなされた。
 場所はあの廃墟だ。私の位置は、おそらく黄色のテープを越えたあたりだろう。
 昔は旅館だったという建物の前に、黒い人影が立っている。ひとりではなく、何人もの人影が。
 完全なる無音の中で、その影は揺れるわけでも手招きをするわけでもなく、ただただこちらを向いて立ち尽くしていた。
 夢というのは次から次へと場面が切り替わるはずなのに、ずっとその光景だけが視界に広がっていた。
 そんな夢を毎日見て、毎日過呼吸みたいになりながら全身汗だくで飛び起きた。
 出かけているはずの私の部屋から物音や話し声が聞こえて、いつの間に帰ってきたのだと部屋を覗いたら、黒い影がふっと消えた。──と家族に言われる日が続いた。
 人と話している時、相手が急に黙ったり小さく悲鳴をあげたりすることがあった。どうしたのかと聞いたら、私の肩に手が乗っていたとか、私の首に手が巻きついていたとか、家族にも友達にも何度も言われた。

 それが二週間くらい続いた頃。結婚して家を出ていった姉と久しぶりに会った時、姉は見たことがない形相で私の肩をつかんだ。
「どこ行った? もう心霊スポット行かないって言ってたよね?」
 あとから聞いた話だが、姉は憔悴しきった私を見た瞬間、この時ばかりは〝嫌な感じ〟どころではなかったそうだ。黒い靄が私を覆っているように見え、はっきり〝まずい〟と──このまま放っておけば私がいなくなるような感覚に襲われて、どうしようもなく恐ろしかったという。
 姉に言われるがまま瑠衣に連絡をして、すぐに瑠衣の家へ向かった。高校生編の『友達の家』に書いたが、瑠衣の祖母はその道専門でお祓いなども請け負っているため、瑠衣の母の車で祖母のところへ連れていってもらうことになった。
 車の中で、瑠衣はずっと私に抱きついて涙を流していた。これもまたあとから聞いた話だが、瑠衣も姉と同様に私を見た瞬間〝ヤバイ〟と感じたそうだ。抱きついていたのは、私が連れていかないでくれと願っていたのだと。祓う力までは持っていない自分は、ああすることしかできなかったのだと。
 瑠衣の祖母の家に着いた時、私を見た祖母は同情するように目を伏せて私を抱きしめた。
「可哀想に……。怖かったでしょう。おばあちゃんが助けてあげるからね」
 瑠衣の叔母にあたる人も駆けつけてくれて、テレビで観るような、仏壇のようなものやロウソクが立てられている部屋に案内された。指示された通り座布団に正座し、胸の前で手を合わせて目を閉じた。
 瑠衣の祖母と叔母がお経を唱え始めると、次第にあの時の感覚が私に襲いかかる。耳鳴りで何も聞こえなくなった時、私は意識を失った。

 *

 その後はまったく覚えていない。
 気がつくと違う部屋で布団に寝かされていて、すぐそばに瑠衣たちがいた。
「もう大丈夫だからね、二度とそういう場所に行っちゃだめだよ」
 瑠衣の祖母にそう言われ、まだ意識が朦朧としていた私は力なく頷いた。
 私に何が憑いていたのか、お祓いの最中に何が起きたのか、詳しくは聞いていない。説明は受けなかったし、知りたくもなかったからだ。
 こうして、地獄の二週間は終わりを告げたのだった。
 それ以来、どんなにしつこく誘われても、たとえその場の空気をぶち壊すことになっても、断固として心霊スポットには行っていない。