高三の秋のこと。
 先輩トリオと私の四人で、野木くんがネットで発掘したらしい心霊スポットへ行くことになった。
 道中で野木くんから聞いた本日の目的地は、少なくとも私はまったく知らない場所だった。またもや滝らしいが『××の滝』よりやばい場所はそうそうないだろう。──と完全に油断しきっていた私にまずジャブを打ち込んでくれたのは、寄ったコンビニで遭遇した地元民らしきおじさんだ。
「見ない顔だねえ。若者がこんな時間に、まさか○○の滝に行くのかい?」
「そうです。やっぱあそこガチでやばいんですか?」
「そっかそっか。たまによそからあそこ目当てで来るんだけどねえ、本当にお化けいるから、やめといた方がいいよ」
 こんなホラー映画よろしくの展開があるのかと驚愕しながら、缶ビールが入った袋を提げて私たちに手を振るおじさんを見送った。
「……やめとく?」
 ちょっと怖くなったので念のため訊いてみたが、野木くんは「いや行くだろ」と即答した。このやり取りにもさすがに慣れていた私は「ですよね」とすぐさま観念する。忠告されたからといって素直に帰るような連中は、そもそもこんなアホみたいに心霊スポット巡りをしたりしないのだ。私も私で、奇妙な体験をしすぎて感覚が麻痺していたのかもしれない。
 当然のようにそのまま続行され、目的地に到着した。昼間は観光スポットでもあるらしく、設備されていた駐車場に車を停める。徒歩に切り替えて看板に案内されるがまま進み、林の入り口に辿り着いた。
 おじさんの忠告を受けてから警戒心が芽生えていた私に、今度は真正面からストレートが打ち込まれた。漂う雰囲気があまりにも異様でおぞましいとしか言いようがないのだ。
 無数の木に囲まれている、一メートル先すら見えない砂道を前に思わず立ち尽くしてしまった。まるで今にも異世界へ誘われてしまいそうな暗闇に怖気立つ。
「やっぱり帰ろうって言っても……無駄だよね?」
「よくわかってるじゃん」
 無駄だと知りながら一応訊いてみても野木くんに一蹴され、なぜついてきてしまったのかと自分の学習能力のなさに嫌気が差しつつ、懐中電灯で周囲を照らしながら細長い砂道を歩いていく。並びは自然と、前に仁くんと野木くん、後ろに私と颯ちゃんになっていた。
 おそらく五分ほど歩いた頃には、私は拳を握りしめたまま震えていた。
 久しぶりに直感していたのだ。ここは本気でだめなやつだ、と。
 下手をすると『××の滝』よりやばいかも、と。

 前のふたりはけらけら笑いながら話していた。なんだかんだそれなりに不可解な体験もいくつかしてきたはずなのに、はっきり見えたことはないせいかすべて「気のせいだった」で済まされ、まるで懲りていないようだった(私も人のことをとやかく言えないが)。最近は「足音とかじゃなくてガチでやばいのほしい」などとほざく始末だ。
 水の音が聞こえてきてすぐに広場に出ると、道が二手に分かれていた。直進すれば滝、右折すれば今にも崩れ落ちそうな木製の橋。おまけに橋の傍らには『危険なので渡らないでください』と、何年前に書いたのかわからないほど古びた看板がある。
 前のふたりが相談して、まずは滝の方へ向かうことになった。『××の滝』と同様に水面をライトで照らしたりしながらしばらく眺める。「やっぱ何も起きねえじゃん」と野木くんが不満そうに言ったので、来た道を戻ることにした。
 相変わらず楽しそうに喋っている前のふたりに対し、滝を前にした時から颯ちゃんが一言も喋っていないことに気づく。
 颯ちゃんの腕を軽く引くと、大げさに肩を跳ねさせた。
「颯ちゃん? どしたの?」
「いや……」
 明らかに様子がおかしい。
「なんかあった?」
 もう一度訊くと、颯ちゃんは私に耳打ちした。
「……後ろから足音聞こえる」
 できれば冗談だと思いたかったが、とてもできなかった。むしろ足音程度でよかったとさえ思ってしまった。今私たちを何かが囲んでいると言われてもすんなり納得できてしまうほど、悪寒と震えが止まらなかったのだ。
 だけど、もうすぐここを抜けてさっきの分かれ道に着く。野木くんはずいぶん不満そうだったし、拍子抜けしたとか言ってさっさと帰る流れになるだろう。あと少しの辛抱だ。このまま何も起きないことを願う。
 そしてやっと分かれ道に戻ってきたと思いきや、野木くんが立ち止まって煙草を吸い始めた。
「え……ちょっと待って、なにしてんの」
「休憩」
 野木くんがけろっと言った。
「わざわざこんなとこで休憩することないでしょ。早く車戻ろうよ」
「なに言ってんだよ。まだ橋渡ってねえだろ」
「渡る気? 危ないよ、馬鹿じゃないの。もう滝見たんだからいいじゃん」
「いや、滝じゃなくてあっちが本番だから」
 言いながら、野木くんが懐中電灯を向ける。橋の奥にはそれほど大きくない建物があった。どこからどう見ても廃墟だ。
「あんなとこ行きたく──」

 ザッ

 ザッ

 ザッ

 私と颯ちゃんは同時に後ろを向いた。
 滝への道の奥から、一定のリズムで足音が聞こえる。絶対に、間違いなく、誰もいなかったはずなのに。
 とてもゆっくりではあるが、音がどんどん大きくなってきている。次第に声も聞こえていた。ひとりでぶつぶつと呟いている。
 近づいてきてる──?
「帰ろう……ねえ、帰ろうよ!」
「なんなんだよ。ビビってんなよおまえ」
 聞こえてないの──?
 野木くんに馬鹿にされても仁くんに笑われても、今はどうでもいい。
 とにかく帰りたい。一刻も早くここから出たい。──出なきゃ、本当にやばい気がする。
「ビビってるよ! もうそれでいいから! とにかく帰ろう! あ……足音聞こえるの! どんどん近づいてきてるよっ」
 焦りながらもなるべく声量を抑えて必死に訴える。仁くんは迷うような素振りを見せ始めたが、野木くんは「え、全然聞こえないけど」とまるで相手にしてくれない。いつものように、恐怖のあまり音に過敏になっているだけとしか思われていない。気づくのが遅すぎたが〝わからない〟というのはある意味一番厄介だ。
「ごめん、俺ももう無理かも」
 颯ちゃんも私に加勢すると、仁くんはいよいよ「今日はやめとこうか」と言ってくれた。
 野木くんだって鬼じゃない。帰りたい、怖いと訴えれば、続行を無理強いしたりはしない。
 いつもならそうだった。
「だから帰んねえって」
 あっけらかんと言われて耳を疑った。私たちは戸惑いながら説得を試みたが、まるで聞く耳を持ってくれない。
 ここまで頑なに聞き入れてくれないのはさすがに初めてだった。意地になっているというより、まるで楽しんでいるように見える。
「わかったって。けど見たいもんあるから、もうちょっと付き合ってよ。それ見たらすぐ帰るから、いいよな?」
 なんか妥協案みたいに言ってるけど、全然わかってないし全然よくない。なぜここまで頑なになっているか、この時は全然わからなかった。だけど最悪なことに今日の運転手は野木くんだ。車の所有者が帰りたがらない以上、従うしかなかった。
「……どうなっても知らないから」
 できる限りの抵抗を呟いて、結局橋を渡ることになった。

 いっそのこと橋が崩れてくれれば万々歳だったのだが、足をのせてみると見た目ほど古びておらずそれなりに強度もあり、すんなりと渡ることができてしまった。
 今にも崩れそうなほどボロボロな木造の建物の前に四人で並ぶ。
「教会だったんだ」
 口から小さくこぼれた言葉が、静まり返った林に反響する。
 橋の前にあったのと同じくらい古びた看板には、ところどころ文字が剥げてはいるがぎりぎり『教会』という文字を読み取れた。
「面白い話聞かせてやろうか?」
 にやにやと笑いながら、待ってましたとばかりに野木くんが口を開く。嫌な予感しかせず、「なに?」と聞き返すことすらしたくない。
 だけど野木くんは私の黙れオーラに気づくことなく、
「この教会、女子禁制らしいよ。女が入ると狂うんだって。試しに入ってみろよ」
 本日、というか知り合ってから今日までで一番最低最悪な発言をしたのだった。
 言わずもがな、この中で女は私だけだ。名指しされなくとも私に向けて言っていることは間違いなかった。
「え……ねえ、ちょっと待って。ほんとに。何言ってんの?」
「だから入れって。ひとりで」
「本気で言ってるの……?」
「うん」
 颯ちゃんと仁くんも、さすがに信じられないというように目を見張って野木くんの横顔を見ていた。
 野木くんは悪戯が大好きだ。ずいぶん慣れたつもりだったけど、今回ばかりは滝の上から突き落として川底に埋めてやりたくなった。というか、今日の野木くんはまるで別人みたいだ。さすがに度が過ぎている。いつもは悪戯といってもちょっと驚かせたりからかったりする程度で、誰かを陥れるようなことはしなかったのに。こんな人だと知っていたらしょっちゅう遊んだりしないし、とっくに縁を切っている。
「おい野木、おまえいくらなんでもやりすぎだって! ひとりでなんか入らせるわけねえだろ!」
 私のために怒ってくれた颯ちゃんにキュンとすることなどできるはずもなく、学習能力がなさすぎる自分に対する自己嫌悪とか、野木くんが心霊体験に対する執念のあまりクズになってしまったことにドン引きしたとか、いろいろ混ざって脱力してしまった。
「俺もそんなん聞いてねえよ。なんで言わなかったんだよ……」
「言ったら仁だってさすがに止めるだろ。てかなんでそんなびびってんだよ。ちょっとひとりで入るだけだって」
「止めるに決まってんだろ。いいからもう帰るぞ。見ろって、すげえ震えてる」
 震えているのは今に始まったことじゃないと思ったが、そんなツッコミを入れる余裕など微塵も残っていなかった。
 この日、私は初めて仁くんと野木くんの前で泣いた。

 ※

 ここまで、今作を含めると二十話書いてきたわけだが、すべての話を信じてくれとは言わない。そもそも心霊現象を信じない派の方もたくさんいると思う。
 ただ創作物として楽しんでくれたり、夏の風物詩を味わってくれたり、ちょっとゾッとしたりしてくれる程度で構わないのだ。
 私だってすべてが心霊現象だったとは思わない。中には単なる勘違いや気のせいだったこともあっただろう。声や音は聞き間違いだったかもしれないし、人影などは見間違いか私が気づかなかっただけで人がいたのもしれないし、金縛りは夢だったかもしれない。そういった意味も込めてタイトルを『恐怖体験』や『怖い話』などではなく『NIGHT MARE』──〝悪夢〟にしたのだ。
 そう、だから、信じてくれとは決して言わない。
 むしろ、さすがにこれは盛ってるだろと白けてもらうくらいがちょうどいいかもしれない。なんなら笑ってくれたって構わない。
 こればかりは、私自身、書いている今でも信じられないのだから。

 ※

 それは突然だった。
 何かが上から覆い被さってきたような、あるいは全身を圧迫されるような感覚が容赦なく襲いかかってきて、今この瞬間まで感じていた恐怖など非じゃないくらいに〝怖い〟という感情に支配され、勝手に涙が溢れてきた。
「野木!」
 私が泣いていることに気づいた颯ちゃんが、痺れを切らしたように叫ぶ。
 三対一の劣勢になった野木くんは、さすがにばつが悪そうな顔をした──わけではなく、なぜか放心していた。次いで、まるで我に返ったように体を後退させて教会から離れた。
「え……ちょ、ちょっと待って。俺なにやってんだろ」
 まるで何が起きているのかわらないとでも言いたそうに、顔をしかめながら教会と私たちの顔を交互に見る。声のトーンも口調も顔つきも、いつもの野木くんに戻っていた。まるで憑き物が落ちたみたいだ。
 私たち三人は、野木くんの突然の変化に戸惑うばかりだった。
「ただちょっと来てみたかっただけで、ほんとこんなことするつもりなくて…… 俺なんか変になってたかも。まじでごめん。早く帰ろう」
 戸惑いながら、私たち三人は念願の言葉に頷いた。
 やっとここから解放されると安堵しながら、私はそれでも体の異変が収まらなかった。
 涙が勝手に流れ続ける。
 全身が痙攣しているみたいに震えて言うことを聞かない。
 颯ちゃんと仁くんに支えらながら歩きだそうとした瞬間、さるなる悪寒が全身を切り裂くように駆け抜けた。
 反射的に、ほとんど無意識に教会に目を向けた。
 他の三人も私につられたのか、私の視線を追ったのがわかった。
 全員が息を呑む。
 数秒間、静寂が落ちる。
 静寂を裂いたのは、教会の中から放たれたとてつもない悲鳴だった。
 まるでホラー映画みたいに、とても現実世界のものとは思えないほど強烈な、男女の声が複雑に入り交じったような甲高い絶叫だった。
 私たちは時間が止まったかのように凍りつき、やがて小さく悲鳴を上げた。
 教会に背を向け、橋を渡り、砂道をひたすらに全力失踪した。
 私は颯ちゃんに腕をつかまれ、何度も転びそうになりながら必死に走った。
 体は、まるで呪縛が解けたみたいに動くようになっていた。

 帰りの車内で、野木くんは滝を見た直後から記憶が曖昧だと言った。まったく覚えていないわけではないものの、やけに意識が朦朧としていたのだと。さらに、ネットで発掘したのは〝〇〇に滝と教会があるガチでヤバイ心霊スポットがある〟という程度の情報だけで、女子禁制だなんて知らなかったし口から勝手にその言葉が出てきたそうだ。たとえ知っていたとしても、私にひとりで入れなどと言うわけがない、信じてくれと私たちに切実に訴えた。
 それが事実かどうかはわからない。悪ふざけが過ぎたせいで颯ちゃんと仁くんの怒りを買い、私を泣かせてしまった野木くんの言い訳だった可能性はもちろんある。
 だけど私は、どうしても嘘だとは思えないのだ。
 そもそも野木くんが積極的に心霊スポットへ足を運ぶのは、人を怖がらせたいわけでも、ましてや陥れたいからでもない。自分自身が心霊体験をしたいからだ。いくら〝女子禁制〟というワードを知っていたとしても、いつもの野木くんなら私にひとりで入らせるどころか率先して入っていただろう。何より、あの時の野木くんは、言動も人相も纏う雰囲気もすべて、確かに野木くんじゃないみたいだった。
 かつては降霊術を試みるほどのオカルトマニアコンビが「二度と心霊スポットには行かない」と宣言した体験だった。