――場所は自宅。
 私は日付をまたぐ直前くらいにお風呂から上がって洗面所でドライヤーをあてて髪を乾かしていた。
 ふと目線を下ろすと、洗面台の上には見覚えのない丸い手鏡が置いてある。
 気になってドライヤーを洗面台に置いてから手鏡を持ち上げて眺めると、裏にはピンクベースのラインストーンで装飾が施されていた。

「うっわぁ〜、かわいい〜〜っ!! 萌歌ってクールなイメージがあるけど、こーゆーラインストーンのキラキラ感が好きなんだぁ。へぇ、意外!」

 その手鏡の装飾を見た途端、目がハートに。
 鏡自体は高価そうなものではないけど、フレームの隅までデコレーションされている分、より良く見える。
 1000円……ううん。2000円で販売しててもおかしくないほどの仕上がりに。
 真似したいなぁと思ってマジマジと眺めていると、ガラっと洗面所を開ける音がした。すかさず目を向けると、そこには鬼の形相の萌歌がこっちを見ている。
 彼女は足を一歩前に踏み出すと、私から勢いよく手鏡を奪った。

「なに人のものを勝手に触ってんのよ!」
「洗面台に置いてあったからキレイだなぁと思って眺めてただけなのに、そんなに怖い顔をする必要がある?」
「あんたに私物を触られたくないだけ」
「それはわかるけど、言いかたってもんがあるでしょ。『手鏡を返してくれる?』だけで充分じゃない。なのに、人を泥棒扱いにしてさ」
「あんただって人の気持ちを考えないで失礼じゃないの? 少しは考えてからものを言いなさいよ。だからあんたとはきょうだいになりたくなかったのに」

 私たちの関係は悪化の一途をたどるばかり。
 彼女と顔を合わせばトゲトゲしく突っかかってくるし、肝心なことを伝えようとすると無視される。
 そんな生活がこれから延々と続くと思うだけで正直重い腰が上がらない。

 父が再婚したいと言ったとき、きょうだいが出来ると思って心がボールのように弾んだ。
 友達や恋愛や家族のこと。なんでも話し合える関係になりたいし、親友のように仲良くしていきたいなとも思っていたのに……。
 実際は顔を合わせばケンカ。この時点で理想のきょうだい像からかけ離れている。
 二人で言い争っているうちにカッとなって鏡を持っているほうの腕を掴み上げてから言った。

「私だって萌歌ときょうだいになりたくなかった! きょうだいが出来たら良い関係をつくり上げていきたいと思ってた。なのに、私たちは顔を合わせればケンカ。確かに私も悪いところはあるけど、お互いがお互いを思いやれなくなってる」
「待って! 自分を正当化しないでよ。あんたが関係悪化の原因があることくらい気づいてよ」
「だから謝ってるじゃない。話を聞かないのは萌歌のほうでしょ?」

 私は何度も何度も謝ろうと思っていたのに……。

「皐月と喋ってるとイライラするのよ。裏でなにを言ってるんだかわかんないし。どうせ明日も友達にあたしの悪口を言うんでしょ?」
「いつも悪口を言ってるわけじゃないのに、悪いところだけつまみ出さないでよ」
「あんなに何度も悪口を言われると、全部が全部そう聞こえちゃうのよ。嫌なら嫌でいいんだけど、友達を巻き添えにしてコソコソ悪口を言わないでくれない?」
「悪いと思ったから謝ったんでしょ! 私だって反省してるの。話を聞いてくれないのは萌歌のほうじゃん。あぁ、もうこんな世界は嫌だ! やってらんないよっ!!」

 彼女の腕を引き、揉み合いになりながらそう言った瞬間……。
 ピカッッ!!!!
 手鏡から稲妻のような閃光が走り、辺り一面は一瞬にして眩い光に包み込まれた。
 それによって目の前が画用紙のように真っ白に。

「うわわわわっ……」
「えっ…………」


…………
………………
…………………………


 ――あれから何分経過したのだろうか。
 意識を失っていたと気づいたのは、洗面所の床に倒れたまま目を覚ましたとき。
 床に手をついて上半身を起こすと、隣には萌歌がうつ伏せで倒れていた。
 ところが、本当の異変に気づいたはそこから。

「萌歌……、ねぇ、萌歌!! 起きて!」
「うっ……うーん…………なによ……騒がしいわね……」
「変なの! 全てが……。自分の家なのに、自分の家じゃないみたい!!」
「うっ、うーーん…………? なにおかしなことを言ってるのよ。わかるように説明して」

 萌歌は目をこすりながら体を起こす。状況を把握してないからそんな呑気なことを言ってられるのだろう。
 私の瞳の中は、”いつもの風景”が映し出されていなくて泳ぐように辺りを見渡しているというのに。

「せ、洗面所の扉が……。浴室の場所が……。私たちがここで倒れていた間に景色が左右反転してるの」
「……どーゆーこと?」
「つまり……、洗面所の全ての配置が逆になってるんだよ」

 顎の震えが止まらなくて声が揺れたまま説明していると、彼女は異変を感じたのか、同じように洗面所の中をぐるりと見回した。

「ほんとだ……。右側にあったはずの浴室が左に。さっき入ってきた扉が右に。定位置にあったものが全て逆になってる。まるで鏡の向こう側にいるみたい」

 そこでハッと気づいた。
 もしかしたら、佐神先生が授業中に言っていたパラレルワールドに来てしまったのかもしれないと。
 ……いや、そんな簡単に来るはずがない。先生の話といえども信憑性が低いし。それに、パラレルワールドへ来る理由や行きかただってわからないのに。
 と、現実が受け入れがたくて否定したいところだけど、目の前にある景色がそれを覆してくる。
 次第に不安が募っていき弱気になった。

「もしかして、パラレルワールドに来ちゃったかな。私たち……」
「昨日佐神が言ってたやつ?」
「うん……。だって、目覚めた途端に家の中が全て逆になってるなんておかしいでしょ! ねぇ、絶対そうだよ! どうしよう!!」
「夢でも見てるんじゃないの? バカバカしい……」

 同じ景色を見ているはずなのに、彼女は信じようとしない。
 もしかしたら、まだ目が覚めていないのかな。
 それならちゃんと起こしてあげなければならないと思って彼女の左腕を掴んだ。

「まだ寝ぼけてるの? これは夢じゃない。現実なんだよ! 自分の肌をつねってごらん」
「大げさに考えすぎでしょ。一晩寝れば元通りにもどってるよ、きっと」
「なに言ってるの? もし戻らなかったら、私たちは一生パラレルワールドで生きていかなきゃいけなくなるんだよ?」
「はぁっ? そんなの知らないし、しつこいっつーの!!」

 彼女がしかめた顔のまま手を振り払った瞬間、それまで掴んでいた手鏡が飛んでいき、洗面台の下に当たってパリーンと音を立てた。
 目を向けると、手鏡はクモの巣状にヒビが入っていて、ガラスの破片が辺りに散乱している。

「あっ……」
「ちょっ……、何してんのよっ!! あたしのお気に入りの手鏡だったのに」
「ごめん。悪気があったわけじゃ……」
「もういいっ!! 言い訳なんて聞きたくない! あんたが責任持って割れた鏡を片しておいてよね。あたし、もう部屋に戻るから」

 彼女は顔をしかめて拳を握りしめたまま立ち上がって洗面所を出て行った。
 その場に取り残された私は、気持ちが追いつけないまま様変わりしてしまった景色を眺めるだけ。

 夢、だと思いたい。
 でも、どんなにたくさん瞬きしても、何度も辺りを見渡しても、家の中の配置は全て逆になっている。
 いや……、それ以上に深刻なのは、時計の文字盤と動きが逆だということ。 
 この現実をどう受け入れればいいか、どう受け止めたらいいかすらわからないまま、鏡の破片を拾って、左右を確認しながら部屋に向かった。

 部屋の中に入って机の前で積んである教科書に手をかけると、やはり文字が全て逆になっている。
 もしこれが夢じゃないなら、この先どう生きていけばいいかわからない。一瞬にして”通常”が全て奪われてしまったのだから……。


 ――そして、一晩経った。
 ベッドから起き上がって辺りを見回してみるが、眠りについた時となに一つ変わらない。
 カーテン、タンス、机、本棚の位置が全て反対側に設置されている。

 夢であって欲しかった。
 目が覚めたら元通りになっていて欲しかった。いつもどおりの生活がそこに待っているはずだったのに……。
 でも、現実はそこまで甘くない。
 私は布団から起き上がり、萌歌の部屋の前に立って拳で思いっきり扉を叩いた。

 ドンドンドン!! ドンドンドン!!
「萌歌っっ!! 起きてる? ねぇ、萌歌っ! 萌歌!!」

 ドンドンドン!! ドンドンドン!!
「萌歌! ねぇ、萌歌ったら!! 一晩経っても部屋の中が昨日と同じなんだけど! 萌歌! 起きて、萌歌……」

 手が痛くなり顔面蒼白のまま叫んでいると、扉がゆっくり開かれた。薄暗い部屋の中から眠そうに目をこすっている萌歌が現れる。

「なによ、朝っぱらからうるさいわねぇ〜」
「一晩経っても部屋の中の配置が元に戻ってないの。それだけじゃない。文字も全て逆。時計も、教科書も、スマホも、全部全部……。やっぱり夢じゃない! この世界なにかがおかしいの。ねぇ、どうしよう!!」
「そんなの知らないわよ。あんたのせいでこうなっちゃったんだから、あんたが責任持って解決してよね」

 彼女は眉を釣り上げたまま不満を押し付けると、バタンと勢いよく扉を締めた。

 知らない世界に送り込まれて不安な私と、この世界に来た責任を押しつけてくる萌歌。
 まともに取り合ってくれる人がいない状態での未知の世界は、心に暗い影をもたらしていく。