――私と桐島くんが元の世界に帰る満月の土曜日の昼前。
 萌歌は大きなスポーツバッグを持ってダンスオーディションに向かう為に玄関に立った。
 愛用しているハート型のヘアクリップはカバンの取っ手に挟まれている。
 私は玄関まで見送り、彼女の後ろから声をかける。

「行ってらっしゃい。頑張ってね! 絶対に夢を掴んで帰って来てね」
「わかってる。終了が18時を予定してるから、家に到着するのは20時過ぎになるかも。多分、表彰式とかあるから時間が多少前後するかも」
「じゃあ、それまでお誕生会の準備して待ってるね! あっ、大変! クラッカー買い忘れちゃった。あとで買いに行かなきゃ」
「小さい子じゃないんだからそこまでしなくていいって。じゃあ、電車の時間がギリギリになっちゃったからもう行くね」

 その背中に向かって心の中で頑張れと応援していたけど、扉が開かれた途端、送り出したい気持ちとは裏腹に伸ばした右手が彼女を引き止めていた。

「本当に元の世界に帰らなくていいの?」

 言うつもりはなかったのに、この瞬間まで繰り返されていた心の葛藤に負けてしまったせいか自然と口から溢れてしまう。
 彼女は振り返ると少し困惑した表情に。

「皐月、その話は何度も……」
「しつこくてごめん。私、やっぱり萌歌に会えなくなるのが辛いの。これまで散々話し合ってきたけど、心が理解してくれなくて……」
「……」
「自分の気持ちを押し付けるのは間違ってると思ってる。でもね、元の世界に存在する萌歌は本当の萌歌じゃないから」

 私、なにやってるんだろ……。
 萌歌はこれから人生を賭けたオーディションに行くのに、伝える言葉は頑張れのひとことで充分なのに、余計な言葉を突きつけて大切な時間を削らせている。
 それが正解じゃないとわかっているのに……。
 感情的になってしまったせいか、じわじわと瞳に溜まっていた雫が頬に滑り落ちた。
 一粒……、そして、また一粒と。
 後を追う準備を始めている雫たちは渋滞するあまり視界を滲ませている。

 すると、彼女は荷物をドサッと手放した後に両手で私をぎゅっと抱きしめた。

「大丈夫だよ。会えなくなってもあんたは大切な家族だし、あたしの永遠の親友だから」
「……っぐ」
「泣かないで……。あんたはあたしの勇姿を応援してくれるんでしょ。あたしもその気持ちをしっかり受け止めてる」

 今日までずっと我慢してたけど、時計の針が進むたびに不安の波に溺れていく。
 後悔するくらいならもっと早く仲直りすればよかったのに……。

「うん。良い報告待ってるから」
「絶対に勝ち取って来る。約束するよ。それまで結果は秘密にしておくね。みんなでわーっと盛り上がりたいし」
「楽しみにしてる。あ! ちなみにどんなケーキが食べたい?」
「ん〜っ、思いっきり甘いやつ。しばらく甘いものを我慢してたから」
「今日の為に体を絞ってたもんね。あ、誕生日だけどまだ”おめでとう”は言わないよ。誕生日とオーディション合格のダブルでお祝いしてあげたいからね」
「うん。”おめでとう”は夜までとっておいてね。約束だよ」

 こうして私たちは、出会ってから初めての約束をする。
 この時は物事が順調に進むと思っていたから、お互い気軽に別れることが出来た。

 ――ところが、これから数時間後。
 萌歌にある事件が起こってしまい、私たち二人の運命に大きく影響していく。