頭の中で色んな想いが飛び交っていたが、迷ってる暇はないと思って肩にカバンをぶら下げたまま家を出た。
外でスマホを取り出して桐島くんにメッセージを手早く打つ。
『ごめん。萌歌が高熱を出しちゃったからいまからドラッグストアに行ってくる。薬を家に届けた後にそっちに向かうから、到着はギリギリの時間になるかも』
メッセージを送信すると、30秒も待たずに返事が届いた。
『時間に間に合わなかったらどうするんだよ』
『多分大丈夫! ドラッグストアまで5分程度だから往復でも10分で帰れるし。万が一間に合いそうになかったら、また連絡する』
『今日を逃したら次は1年後だぞ?』
『ちゃんとわかってるから心配しないで。じゃあ、また後でね!』
私は返事を待たずにスマホをGパンのポケットにしまって、走ってドラッグストアへ向かった。
しかし、暗闇の中全速力で走っていると、ドラッグストアのすぐ手前のT字路で左側から走行してきた自転車と激しく追突する。
バンッッ!!
「キャッ!!」
ガッシャァァーーーン!! カラカラカラカラ……。
軽い音を立てて回転している車輪のすぐ横には運転者の女性が倒れている。
私はガバっと起き上がってすかさず運転者の女性に声をかけた。
「急に飛び出してごめんなさい。……あのっ、大丈夫ですか?」
「あーー……はい。軽く当たっただけなので……。あなたこそ大丈夫ですか?」
「はい。前方不注意のまま道路に突っ込んでしまってすみませんでした」
「いえ、こちらもスピードが出ていたから……。あら、大変。お嬢さん、右手を怪我してるじゃない」
気が焦っていたせいか、指摘されてから初めて怪我に気づいた。
だが、幸いすり傷程度に。
「大したことないので大丈夫です。気にしないで下さい」
「ダメよ。病院で手当てしないと。とりあえず事故を起こしてしまったから先に警察を呼びましょう」
警察なんて呼ばれたら約束の時間に間に合わなくなっちゃう。
大した怪我じゃないし、この時間ですら煩わしいと思っているのに……。
「いえっ!! 本当になんともないんで失礼します!!」
「えっ、えっ、ちょっと……。お嬢さん……」
「すみませんでした!」
私は彼女に頭を下げると、そのままドラッグストアへ飛び込んだ。
どうしよう。
予想外のアクシデントによってタイムロスを起こしてしまった。
早く買い物して帰らないと電車に乗り遅れちゃうよ。
気持ちが落ち着かないまま商品棚からそれぞれの商品を掴み取って、血がにじみ出たままの手に財布と商品を持ってレジの列に並ぶ。
しかし、前に並んでいる会計中のおばあさんが目の前で財布から小銭を床にばらまいてしまった。
「あらやだ。レジの下に小銭がいくつか転がっちゃったみたい」
「一緒に探しますね。どの辺ですか?」
「えっと、そっちの方へ……」
従業員はレジから一旦離れておばあさんの方へ行き、一緒になって小銭を拾い始めた。
時計を見たら時刻は19時22分。
予定ではこの時間くらいに帰宅していたけど、実際はアクシデント続きで笑っちゃうくらい運が悪い。
でも、まだ間に合う範囲。
これから会計を済ませて帰宅しても、ギリギリ間に合うはず。
私は隣のレジへ移動して会計を済ませた。
商品を袋に入れてる時間すらもったいないと思って、手に持ったまま自宅マンションへと向かう。
ところが、一基しかないエレベーターは14階で停止。
一秒でも早く降りて欲しいと思いながら上ボタンを連打していると、エレベーターは下の階へ向かった。
ところが、ホッとしたのも束の間、次は11階で停止する。
――家を出発するまで残り2分。
この時点で窮地に追い込まれていたけど、駅まで走ればまだなんとかなると思っていた。
一難去ってまた一難。
小さなハードルをいくつか乗り越えて、なんとか家に到着。
萌歌の部屋のベッドサイドに座り、冷却シートを彼女の額に貼ってから体を起こして水が入ったコッブと解熱剤を持たせる。
「萌歌、遅くなってごめんね。これを飲んだら熱が楽になるから。どこか痛いところとかない? 大丈夫?」
彼女はボーッとした目のままうんともすんとも言わない。
どっちみちお別れになるなら、「さっさと行きなよ」と突き放してくれたら自分的には楽だったのかもしれないね。
「じゃあ、私。もう行かなきゃいけないからここでバイバイするね」
私は懸念を抱いたまま萌歌の元を離れてカバンを持ち上げると……。
「……ありがと」
細々しい声が背中に届いた。
驚くあまり目が点になったまま振り返ると、彼女はコップを両手で握りしめたまま俯いている。
あの萌歌からお礼を言われるなんて思いもしなかったから、胸の中にズドンと何かがのしかかった。
「ううん。体に気をつけて。もう行くね。バイバイ……」
これが彼女への最後の言葉だと思ったらなぜか鼻声になっていた。
部屋の扉を締めた途端、瞳からポタポタと雫が落ちて床に砕け散る。
大嫌いなはずなのに、どうしてこんな感情が引き出されてしまったのかわからない。
でも、後ろ髪が引かれる思いをしたまま駅に向かった。
月夜に照らされた光の粒を空気に撒き散らしながら……。
ハァハァと息を切らし、電車に乗れるギリギリの時間に駅に到着。
帰宅ラッシュで混雑している人混みをかき分けながら改札を通り過ぎると、電光掲示板にはある知らせが表示されていた。
それを見た途端、額に手を添えたままへなへなとその場にしゃがみこむ。
掲示板に表示されていた文字。
それは、『人身事故の影響により電車が10分程度遅れています』と……。
「う……そ…………」
これ以上の言葉が見つからなかった。
なぜなら約束の20時には完全に間に合わなくなったから。
甘く見ていた……。
まさか電車自体に遅れが発生していたなんて。
そもそも、この世界に来てから順調だったことなんて一度もなかった。
散々苦い経験をしてきたはずなのに、焦っていたせいか元の世界の感覚で物事が順調に進むと思っていたから。
……でも、こうしてはいられない。
桐島くんにこの旨を伝えなければならないのだから。
私は震えた手のまま桐島くんに電話をかけた。
すると、彼は1コールもせずに電話を取る。
「もしもし、桐島くん!」
『いまどこ? もうすぐ湖に着く?』
「ううん……。いま最寄り駅。……ごめんね、約束の20時に間に合いそうにないや」
『はああぁあっ?!?! それっ、どーゆーことだよ!! 説明しろよ!』
彼は感情的な声を荒げていた。
当たり前だよね。
ドラッグストアに向かう段階から心配してくれていたんだから。
私だって、雪崩のようにアクシデントが襲いかかってくるなんて思いもしなかったよ。
「全て順調にいくと思ってても、この世界が私の足を引き止めるの」
『なに言ってるかわかんないんだけど……』
「運命に見放されちゃったみたい。やっぱり私、この世界から帰ってはいけない人なのかもね。萌歌を置き去りにしてきたバチが当たったんだよ……」
自分を責めてもなにもプラスにならないのに、愚痴を溢していなければやっていられなかった。
だがしかし、体に重石が乗っているかのように気分が落ちていたが、突如として駅校内にアナウンスが流れる。
「只今、電車が遅れています。19時28分着の電車が間もなく到着いたします。白線の内側に下がってお待ち下さい」
もう全てが台無しになっていたと思っていた矢先に、一本前の電車がホームに到着するとの知らせが。
線路の向こうに目を向けると、電車がホームへ迫ってきている。
乗るはずの電車は遅延しているが、まさかその前の電車が先に到着するなんて。
間に……合った……??
私は仰天するあまり、破裂しそうな声を上げた。
「ちょ、ちょっと! 桐島くんっっ!!」
『えっっ、なに? いきなり大きな声を出して……』
「もしかしたら20時に間に合うかもしれない。いま遅れていた前の電車が到着するって!」
『えっ!! マジか!!』
「乗ろうとしていた電車より3分遅れだけど、九重駅に到着してから全力で走れば間に合うかもしれない」
一瞬、希望の光が見えた。
電車が遅れている時点で絶対に間に合わないと思っていたのに……。
この電車に乗って今度こそ順調にいけば、少なくとも予定通り元の世界に帰れるはず!!
電車が目的地に到着するのは19時47分。
そこから目的地まで徒歩15分と言ってたから、九重駅から走れば20時までには現地に着くはず。
良かった〜、間に合う。
今度こそ順調に電車が進んで欲しい。
私は心の中でそう願いながら電車に飛び込んだ。
目的地までたったの二駅。
よほどのアクシデントがない限り電車は到着する。
窓の景色を瞳に映しながら、これとないくらい祈った。
社内は通勤通学の足で混雑していたが、そんなの気にならないくらい心が弾む。
――そして、電車は無事に目的地の九重駅へ到着。
私は人に間を縫うように通り抜けて、改札を目指して走った。
予定通り、いまは19時47分。
人の流れに逆らいながら、スマホの地図を開いて目的地へ向かった。
ところが……。
プルルル…… プルルル……。
スマホが鳴った。
桐島くんかと思いながら急いでいる足のまま着信元を確認すると、そこには萌歌の生みの親であるゆりさんの名前が表示されている。
私はすかさず通話ボタンを押す。
「もしもし。どうしたんですか? 私に電話なんて……」
父が再婚してからゆりさんから電話があったのは今日が初めてのこと。
だから、どんな用事かと思って電話に出てみたが、声の様子がおかしい。
『皐月ちゃん』
「あ、はい」
『ちょっと酷いんじゃない?』
「えっ……」
『萌歌が高熱を出して寝込んでいるのに、どうして置き去りにしたの? きょうだいになったなら支え合っていくのが当然なんじゃないの? 放ったらかしなんて冷たいじゃない』
「そ、それは……」
スピーカーの奥の声は明らかに怒っていた。
そのせいもあって、走っていた足は自然とブレーキがかかる。
確かに彼女の言う通り。
私は元の世界に帰る為に、萌歌を放ったらかしてしまったのだから。
『薄情ね。そんな子が私の娘になったなんて信じられない』
「ごめんなさい。急用があってどうしても行かなきゃいけないところがあって」
『きょうだいの病気より大事な用事があるっていうの?』
「そうじゃないけど……」
『もういいわ。あなたを信じた私がバカだった。あなたにはもう用なんてないから』
プツッ……プーーッ、プーーッ、プーーッ……。
電話はここで途切れる。
私は彼女の言葉が頭の中でこだましたまま、スマホを持っていた手がぶら下がり、足に根っこが生えてしまった。
自分がしてきたことは不正解だっただろうのか。
本来なら一刻でも早く陽翠湖に向かわなきゃいけないのに、厳しい現実を目の当たりにした瞬間、頭から抜けてしまった。
――25分後、湖に到着。
虫の音のBGMを聞き取りながら、道路を背中にしてひっそりと静まり返っている道を歩く。
ここは、地元民しか知らないような小さな湖だから観光で訪れる人などいない。
そのせいもあって、最低限の照明しか点いていない。
歩きながら月を眺めてみたけど、電車に乗る直前に見えた月と代わり映えしない。
……そっか。私、元の世界に帰る資格がなかったんだ。
足を前に進ませるたびに悔しさとやるせなさが湧き上がってきて目頭が熱くなっていく。
幽霊のような足取りのまま約束の場所に向かうと、正面から男性の声を浴びた。
「おおおぉぉーーいっ! 堀内ぃぃぃ!!」
桐島くんの声だと気づいて見上げると、彼は走りながら私の元へ。
私はその姿を視界に捉えた瞬間、目を見開かせた。
なぜなら、そこにいる桐島くんは、私がどんなに辛い時も隣で支え続けてくれた”あの桐島くん”だったから。
「何やってたんだよ。『20時までに間に合うかもしれない』って言ってたくせに遅いじゃねーか! もうとっくにグリーンフラッシュの時間は終わっちゃったよ!」
「桐島くん……。どうして帰らなかったの? 今日は1年に一度しかないチャンスだったのに……」
「お前を残したまま帰れるかよ! 一緒に帰ろうって約束しただろ」
私はゆりさんとの電話を切ってから自分のことしか考えられなくなっていた。
桐島くんがここでずっと待ち続けてくれたのに、それさえ思い出せなくなるほど自戒していたから。
「ごめんな……さい……。桐島くんとの約束……守れなくて…………」
顔を真っ赤にしながら唇を震わせていると、彼は何かを察したように私の右手をすくい上げて心配そうに言った。
「手から血が出てる」
「……」
「途中でなにかあった?」
無言のまま首を横に振ったら瞳から落ちた雫が宙に舞った。
桐島くんの手のぬくもりが伝わってきたから余計に。
「私、まだ帰っちゃだめみたい。帰る資格がないって思い知らされたの」
「どうして」
「大切なものを残してきたから、きっとバチが当たったの。自分が超えなきゃいけない問題だったのに逃げてしまった。だから、だからっ……」
それまで我慢していたせいか、溢れんばかりの想いがどっと押し寄せてきた。
手で顔を覆って肩を揺らしながら咽び泣いていると、彼は私の頭をぐしゃぐしゃしながら言った。
「……ま、そーゆーこともあるよな。俺ら人間なんだからさ」
「……」
「物事がそんな順調に進んでいたら、俺らはこの世界に来なかったと思う。もし、本当にそれが帰れない原因だとしたら、そのハードルを乗り越えていけばいいよ。お前らしく後悔のないようになっ!」
ビショビショの顔から手を外すと、彼は目尻を下げて微笑んでいた。
それを見た瞬間、胸がキュウっと苦しくなる。
本来なら怒鳴り散らしてもおかしくないくらい酷いことをしてしまったのに……。
――それから1時間後に帰宅。
私は予想通りゆりさんにたんまりと叱られた。
でも、叱ってくれて良かったと思う。
この世界でやり残してきたことに後悔してたから……。