橋の欄干にもたれていた晴陽の頬が、少しだけ赤く染まった。どうしてだろうと自分の言動を遡ってみると、なかなか恥ずかしい台詞を口にしていたことに気がつく。
「ごめん、なんか」
「お、麻耶くん照れてる?」
「いや照れてないし」
照れてるじゃん、と晴陽がひじで俺をつついてくる。俺もむきになってやり返すと、彼女は楽しそうに声を上げて笑った。
「はー、楽しい。ずっとここにいれたらいいのにな」
何気なく発された台詞に微笑んだ。俺だって叶うのなら、ずっとここにいたい。
「俺も、ここにいたい。ここなら、何も考えなくていいから」
爽やかな風に髪を押さえていた晴陽が、ゆっくりとこちらを向いた。まさに陽の光のように暖かい微笑みが、俺を安心させる。
お互い何も言わず、心地よい空気に包まれていたら、遠くから目覚まし時計の音が聞こえてきた。じりじりとけたたましい音。
「ごめん、わたしだ。起きなきゃみたい、またね」
晴陽はそう言い残すと、元来た方へと走っていった。やがて何かがぷつん、と消える感覚がして、晴陽が現実へと戻ったのだと分かる。
主の片方がいなくなった世界は、なぜか少しずつ荒廃し始めた。
美しかった木々は枯れ始め、水面は輝きを失う。煉瓦造りの建物にもヒビが入り、はらはらと崩れる音がする。
その不可解な様子の意味を、俺の頭は簡単に理解した。
きっとこの世界は、夢を見ている本人の心が反映されるんだろう。だから、すさんだ俺の心を反映して街が廃れた。
反対に生気みなぎる晴陽の心を反映した世界は、眩しく美しい。
俺は寂れた世界をとぼとぼと歩く。
晴陽の心を映した世界も綺麗だったけれど、これはこれで好きだ。人間が作ったものなどいつか壊れる。その自然の摂理が映し出されているように思えた。
そうして様々な場所を回っていれば、遠くからアラーム音が聞こえた。どうやら現実は朝らしい。
この間はこの世界から去るのが名残惜しかったけれど、今はどうでもいい。
晴陽のいないこの世界に、いる意味はない。
晴陽という存在が自分の中で大きくなっていることに気づき、笑みがこぼれた。どうして、こんなにも晴陽に惹かれているんだろう。
俺とは正反対だから?人間は性格が正反対の者に惹かれやすい、というのを聞いたことがある。それにことごとく当てはまっているのか。
何にせよ、晴陽が俺にとってかけがえのない存在になりかけていることが、紛れもない事実だった。
2
「へー、その女の子と仲良くなったんですか。よかったじゃないですか麻耶さん、友達出来て」
「友達いないみたいな言い方やめてくれない?」
「実際そうじゃないですか」
次の撮影場所に向かう移動車の中、俺は羽坂さんに夢の話をしていた。
俺の過去の話はカットし、少しずつお互いのことを知り始めた、と言えば、友達が出来てよかったですねと予想外の返答が返ってきた。
さらに友達がいないといういじりまでされる始末。
もっともすぎる意見に言い返せないでいると、羽坂さんが顔をほころばせた。
「いやでも、本当よかったです。麻耶さんの夢がいい夢になって。正直、ずっと暗い夢だったらどうしようって思ってたんですよね」
突然の吐露に驚く。俺が暗い夢を見ていた時、羽坂さんはずっと俺のことを励ましてくれていた。笑顔を絶やさず、弱みなんて見せずに。
よほどびっくりした顔をしていたのだろう、俺を見て羽坂さんが笑った。
「麻耶さん、驚きすぎですよ。私だって、弱気になる時ぐらいあります」
そう言う羽坂さんは、俺が見たことのない表情をしていた。
何かを慈しむような、それでいて何かを哀れむような――様々な感情が交ざった、そんな表情を浮かべていた。
――なんで、そんな顔を?
その質問が喉まで出かかったとき、車は撮影場所に到着した。
「着きましたよ、麻耶さん。荷物持って、早く行きましょう。監督さんに挨拶しないとなので」
荷物と言っても小さいショルダーバッグひとつだ。それを肩にかけ、車を降りる。
反対に羽坂さんは重そうな鞄を持ち、ため息をつきながら車を降りていた。
「何が入ってるんですか、その鞄。いつも持ってますけど」
「まぁ色々ですよ。水とか着替えとか、救急箱とか。麻耶さんに何かあった時、動かないといけないのは私ですから」
羽坂さんの仕事ぶりに感心しながら、俺は撮影するスタジオに入った。
監督やスタッフさんに挨拶をし、楽屋に入る。手早くメイクをしてもらい、台本の確認をしていると、スタッフさんから声がかかった。
スタジオに移動し、カメラの前に立つ。
照明が当てられ、空気が張り詰める。
監督が「アクション!」と声をかけ、それに合わせてカチンコが鳴らされる。
――もう、俺じゃない。
俺は小さく息を吸うと、用意された台詞を吐いた。
*
「あー、疲れた……」
そう呟きながら、ベッドにぼすんと飛び込む。
あの後撮影は順調に進み、撮影予定だったシーンをすべて撮り終えることが出来た。
それはよかったものの、身体にかかる疲労は半端ない。撮影現場でシャワーを浴びられたのをいいことに、帰ってきてすぐベッドに飛び込んだ。
着替えないとな、と思う頭とは正反対に、疲れている身体は夢へと俺を誘う。
残った理性が着ていたシャツのボタンをひとつ外したけれど、ふたつ目のボタンに手をかけた瞬間、俺はもう眠りについていた。
目を開けるとそこは、三度目の来訪となる夢の世界だった。
荒廃した世界ではなく、美しい景色が広がっているということは、晴陽はもうここに来ているということだろう。
俺は行く当てもなく歩いていると、遠くから晴陽の声がした。
「麻耶くん!こっちこっちー!」
この間と同じ橋の上で、晴陽が手を振っている。俺も手を振り返し、駆け足で晴陽がいる方に向かった。
「おはよう、麻耶くん。あれ、現実では夜だからこんばんは?」
「別に何でもいいよ。てか、またここにいたの?」
「え?うん。ここから見える景色が、綺麗だから」
ほら、と晴陽が指を指す。その方向を見てみると、確かに綺麗な景色が見えた。
太陽の光に水面が照らされ、美しい輝きを帯びる。まるでおとぎの国のような街並みが、暖かい光に包まれている。
「あの街並み、素敵だよね。ヨーロッパみたい」
「俺数年前に撮影でヨーロッパ行ったけど、あんな感じだったよ」
去年俺が初主演を務めた映画では、外国での撮影も行われたのだ。その中でもヨーロッパの街並みは強く印象に残っている。
中世ヨーロッパの雰囲気を残し、街全体が特別なもののように思えた。おとぎの国のようなメルヘンさもありつつ、どこか謎めいたような雰囲気も持っている。
そんな街並みに、一瞬で心惹かれたのを覚えている。
「えーいいなぁ、ヨーロッパ。わたしも行ってみたい」
「行けばいいじゃん、旅行」
「そんな簡単に行けないのわたしは」
口をとがらせる晴陽。俺は近くのベンチに座り、隣をぽんと叩いた。
その手の動きの意味に気づいた晴陽は、満面の笑みを浮かべて、俺の隣に座った。
「ねぇ麻耶くん、今日は何する?昨日はお互いに質問し合って――わたしはまたそれでもいいけど」
「なんでもいいよ。俺はもう、聞きたいことないけど」
「ごめん、なんか」
「お、麻耶くん照れてる?」
「いや照れてないし」
照れてるじゃん、と晴陽がひじで俺をつついてくる。俺もむきになってやり返すと、彼女は楽しそうに声を上げて笑った。
「はー、楽しい。ずっとここにいれたらいいのにな」
何気なく発された台詞に微笑んだ。俺だって叶うのなら、ずっとここにいたい。
「俺も、ここにいたい。ここなら、何も考えなくていいから」
爽やかな風に髪を押さえていた晴陽が、ゆっくりとこちらを向いた。まさに陽の光のように暖かい微笑みが、俺を安心させる。
お互い何も言わず、心地よい空気に包まれていたら、遠くから目覚まし時計の音が聞こえてきた。じりじりとけたたましい音。
「ごめん、わたしだ。起きなきゃみたい、またね」
晴陽はそう言い残すと、元来た方へと走っていった。やがて何かがぷつん、と消える感覚がして、晴陽が現実へと戻ったのだと分かる。
主の片方がいなくなった世界は、なぜか少しずつ荒廃し始めた。
美しかった木々は枯れ始め、水面は輝きを失う。煉瓦造りの建物にもヒビが入り、はらはらと崩れる音がする。
その不可解な様子の意味を、俺の頭は簡単に理解した。
きっとこの世界は、夢を見ている本人の心が反映されるんだろう。だから、すさんだ俺の心を反映して街が廃れた。
反対に生気みなぎる晴陽の心を反映した世界は、眩しく美しい。
俺は寂れた世界をとぼとぼと歩く。
晴陽の心を映した世界も綺麗だったけれど、これはこれで好きだ。人間が作ったものなどいつか壊れる。その自然の摂理が映し出されているように思えた。
そうして様々な場所を回っていれば、遠くからアラーム音が聞こえた。どうやら現実は朝らしい。
この間はこの世界から去るのが名残惜しかったけれど、今はどうでもいい。
晴陽のいないこの世界に、いる意味はない。
晴陽という存在が自分の中で大きくなっていることに気づき、笑みがこぼれた。どうして、こんなにも晴陽に惹かれているんだろう。
俺とは正反対だから?人間は性格が正反対の者に惹かれやすい、というのを聞いたことがある。それにことごとく当てはまっているのか。
何にせよ、晴陽が俺にとってかけがえのない存在になりかけていることが、紛れもない事実だった。
2
「へー、その女の子と仲良くなったんですか。よかったじゃないですか麻耶さん、友達出来て」
「友達いないみたいな言い方やめてくれない?」
「実際そうじゃないですか」
次の撮影場所に向かう移動車の中、俺は羽坂さんに夢の話をしていた。
俺の過去の話はカットし、少しずつお互いのことを知り始めた、と言えば、友達が出来てよかったですねと予想外の返答が返ってきた。
さらに友達がいないといういじりまでされる始末。
もっともすぎる意見に言い返せないでいると、羽坂さんが顔をほころばせた。
「いやでも、本当よかったです。麻耶さんの夢がいい夢になって。正直、ずっと暗い夢だったらどうしようって思ってたんですよね」
突然の吐露に驚く。俺が暗い夢を見ていた時、羽坂さんはずっと俺のことを励ましてくれていた。笑顔を絶やさず、弱みなんて見せずに。
よほどびっくりした顔をしていたのだろう、俺を見て羽坂さんが笑った。
「麻耶さん、驚きすぎですよ。私だって、弱気になる時ぐらいあります」
そう言う羽坂さんは、俺が見たことのない表情をしていた。
何かを慈しむような、それでいて何かを哀れむような――様々な感情が交ざった、そんな表情を浮かべていた。
――なんで、そんな顔を?
その質問が喉まで出かかったとき、車は撮影場所に到着した。
「着きましたよ、麻耶さん。荷物持って、早く行きましょう。監督さんに挨拶しないとなので」
荷物と言っても小さいショルダーバッグひとつだ。それを肩にかけ、車を降りる。
反対に羽坂さんは重そうな鞄を持ち、ため息をつきながら車を降りていた。
「何が入ってるんですか、その鞄。いつも持ってますけど」
「まぁ色々ですよ。水とか着替えとか、救急箱とか。麻耶さんに何かあった時、動かないといけないのは私ですから」
羽坂さんの仕事ぶりに感心しながら、俺は撮影するスタジオに入った。
監督やスタッフさんに挨拶をし、楽屋に入る。手早くメイクをしてもらい、台本の確認をしていると、スタッフさんから声がかかった。
スタジオに移動し、カメラの前に立つ。
照明が当てられ、空気が張り詰める。
監督が「アクション!」と声をかけ、それに合わせてカチンコが鳴らされる。
――もう、俺じゃない。
俺は小さく息を吸うと、用意された台詞を吐いた。
*
「あー、疲れた……」
そう呟きながら、ベッドにぼすんと飛び込む。
あの後撮影は順調に進み、撮影予定だったシーンをすべて撮り終えることが出来た。
それはよかったものの、身体にかかる疲労は半端ない。撮影現場でシャワーを浴びられたのをいいことに、帰ってきてすぐベッドに飛び込んだ。
着替えないとな、と思う頭とは正反対に、疲れている身体は夢へと俺を誘う。
残った理性が着ていたシャツのボタンをひとつ外したけれど、ふたつ目のボタンに手をかけた瞬間、俺はもう眠りについていた。
目を開けるとそこは、三度目の来訪となる夢の世界だった。
荒廃した世界ではなく、美しい景色が広がっているということは、晴陽はもうここに来ているということだろう。
俺は行く当てもなく歩いていると、遠くから晴陽の声がした。
「麻耶くん!こっちこっちー!」
この間と同じ橋の上で、晴陽が手を振っている。俺も手を振り返し、駆け足で晴陽がいる方に向かった。
「おはよう、麻耶くん。あれ、現実では夜だからこんばんは?」
「別に何でもいいよ。てか、またここにいたの?」
「え?うん。ここから見える景色が、綺麗だから」
ほら、と晴陽が指を指す。その方向を見てみると、確かに綺麗な景色が見えた。
太陽の光に水面が照らされ、美しい輝きを帯びる。まるでおとぎの国のような街並みが、暖かい光に包まれている。
「あの街並み、素敵だよね。ヨーロッパみたい」
「俺数年前に撮影でヨーロッパ行ったけど、あんな感じだったよ」
去年俺が初主演を務めた映画では、外国での撮影も行われたのだ。その中でもヨーロッパの街並みは強く印象に残っている。
中世ヨーロッパの雰囲気を残し、街全体が特別なもののように思えた。おとぎの国のようなメルヘンさもありつつ、どこか謎めいたような雰囲気も持っている。
そんな街並みに、一瞬で心惹かれたのを覚えている。
「えーいいなぁ、ヨーロッパ。わたしも行ってみたい」
「行けばいいじゃん、旅行」
「そんな簡単に行けないのわたしは」
口をとがらせる晴陽。俺は近くのベンチに座り、隣をぽんと叩いた。
その手の動きの意味に気づいた晴陽は、満面の笑みを浮かべて、俺の隣に座った。
「ねぇ麻耶くん、今日は何する?昨日はお互いに質問し合って――わたしはまたそれでもいいけど」
「なんでもいいよ。俺はもう、聞きたいことないけど」