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夢。
それは時に幸せを与え、時に苦痛を与える。楽しい夢もあれば、苦しい夢もある。
俺がよく見る夢は、苦しい夢だった。苦しくて、暗くて、深い夢――。俺はそんな夢を毎日見る。
その夢には不思議と感覚があって、声を出そうと思えば出せるし、手を動かそうと思えば動かせる。歩ける。夢の中で、これは夢だと自覚する。
所謂、明晰夢というやつ。
「ねぇ麻耶さん、見てください。解体工事やってますよ」
考え込んでいる俺に、マネージャーの羽坂さんが声をかけてきた。次の撮影場所に向かう車の中で、窓に張り付き、病院の解体工事を眺めている。
「お、あれ崩すんですかね。やれやれ、もっといけ」
普通解体工事を見て、やれやれなんて言うだろうか。サイコパスだろそんなん。チラリと覗く彼女の狂気さに、呆れてため息をついた。
「麻耶さん麻耶さん、崩れましたよあれ!あ、看板が落ちた。えっと、××病院って言うんですかね」
いちいち実況してくる。別に頼んでもいないのに。
俺は少しだけ仮眠を取ろうかと思い、車の座席に深くもたれた。溜まりに溜まった疲れは眠気となって俺を襲い、すぐに夢の中へと誘う。だんだんと身体の感覚が消えていく。車の外から聞こえる雑音は小さくなっていき、意識が暗闇へと落ちる。暗い夢を見るときの、いつもの感覚。
もう少しで夢に落ちる――そう思った瞬間に、車は撮影場所に到着してしまった。俺は意識を現実へと戻す。
「麻耶さん、着きましたよ。って、寝てたんですか?」
「寝ようかと思ったけど寝れなかった。羽坂さんがうるさいし、すぐ着いちゃうし」
「それはごめんなさい。でも、これで今日仕事終わりなので。頑張ってください」
軽く返事をし、羽坂さんと一緒に車から降りる。撮影場所であるスタジオに入れば、スタッフさんたちがかいがいしく準備をしていた。
「麻耶さん、お疲れ様です。楽屋あっちにあるので、準備してきてください」
「了解です」
スタッフさんたちに挨拶をしながら楽屋に向かう。ドアをノックして入れば、楽屋には先客がいた。
「麻耶!遅いって、前早く来いって言ったろ」
「別に遅くないだろ。玲央が早いんだよ」
軽口を叩きながら彼の隣に座り、ヘアメイクさんに準備をしてもらう。先に楽屋にいたのは、同じ事務所に所属する俳優仲間の松井玲央だった。俺は鞄の中から台本を出し、今日撮るシーンの確認をしていく。
「今日あれだろ、俺と麻耶でぶつかるシーンだろ」
「そう。うわ俺泣かなきゃなのか。泣けるかな」
「麻耶なら大丈夫だろ。それに、名俳優の松井玲央がいるんだから」
それ自分で言うかな、とツッコみつつ、台本のページをめくった。俺が演じるのは、過去のトラウマから心を閉ざし、人生への希望を抱かなくなってしまった青年の役。喪失感から犯罪を犯し、恨みを買い、最後には殺されてしまう。
反対に玲央が演じる役は明るい役だ。夢を叶えるため、必死に生きている青年。世の中の汚れなど知らず、ただただ純粋に生きている。だからこそ俺が演じる青年とぶつかり、言い合いになってしまう。今日の撮影にはそのシーンも含まれていた。
「それにしても、麻耶って暗い役多くない?この前の映画もそうじゃん」
「まぁ、そうだね。病んでる役とか暗い役とか、そういうのが多いな」
玲央が言うこの前の映画というのは、俺の初主演映画のことだろう。障害になり、誰とも関わらなくなってしまった学生の役。ヒロインとの出会いで少しずつ変わっていき、最後は結ばれる。
俺が初めて出演したドラマも、暗い役だった。四年前になるけど、今でもはっきり覚えている。
「明るい役とか演じてみたいって思わないの?俺は思うよ、麻耶がやるみたいな暗い役もやってみたいなって」
「思うけど、俺には無理だから。多分」
「そう?明るい役も似合いそうだなって思うけどね」
そんな雑談をしていればスタッフさんから呼び出しが入り、衣装に着替えてスタジオに向かった。短い道中でも玲央はひっきりなしに喋り続けていて、ずっと楽しそうだった。今日初めて会うスタッフさんにも自分から話しかけて、ぐいぐいと距離を詰める。俺はそんなことできないから、純粋に感心してしまう。
「では撮影始めまーす!まず――」
スタッフさんの声がかかり、ライトがつき、撮影が始まる。何度も台本を読み込んで頭の中に叩き入れた台詞を、感情を込めて言っていく。時々移動し、休憩を挟みつつも、テンポ良く撮影が進む。
そして今日最後の撮影、玲央と言い合いになるシーンの撮影に入った。撮影が何時間にも及んだからか、「よーい、アクション!」というスタッフさんの声にも、疲れが滲み出ている。
玲央と向き合い、言葉をぶつける。唾を飛ばし、目を潤ませながら話す玲央に、一瞬言葉が出なくなった。圧倒された。玲央の、演技に。
ただそれも一瞬で、俺はすぐに意識を引き戻すと、自嘲的な口調で台詞を口にした。もう全部、どうでもいいんだよ、と。
その台詞は奇しくも、いつかの俺が放った言葉と一緒だった。もう全部、どうでもいいんだよ。人生に期待なんかないから。きっと、生きてる意味もないよ。諦めたようにそう言った"あの日"のことを、思い出す。
"あの日"から俺は、瞳の輝きをなくした。何も光を一切通さない、黒色の瞳になったわけではない。瞳に光が入る瞬間だってある。ただその光が、温度を持たなくなってしまっただけ。
『いつだってそうだよな』
目の前の玲央が、玲央ではあり玲央ではない人間が、言った。
『いつだってお前は、諦めてばっか』
二冊目の台本の九ページ目の六行目。玲央の台詞。
その台詞は"俺"の心を、ぬるりと焦がした。
『自分で自分殺して、全部諦めて。それでいいのかよ?』
俺は何も言わない。ただ俯いて、過去を思い出す。辛かった思い出、苦しかった思い出。数々の記憶を辿っていけば、自然と瞳に涙が浮かぶ。そして涙が一筋、綺麗にこぼれた。
『……それしかないんだよ、俺には。諦めるしか』
頬を伝い、床に落ちていく涙。それに構わず、俺は台詞を言った。それから、玲央に背を向け、ゆっくりと歩き出す。玲央が俺の役名を呼ぶ。聞く耳を持たず、俺は歩く。
背中から、これ以上ないほどの不幸なオーラが伝わるように。歩幅を一歩ずつずらし、足を引きずり、頭を垂れて歩く。スタジオの端まで歩いたところで、「カット!」と監督の声がかかった。
すぐにくるりと振り向き、玲央の方に駆け寄る。
「麻耶、最高!これまた綺麗に泣いたねぇ」
「泣くのは得意なんで」
鼻をずび、と鳴らしながら、玲央と会話を交わす。しばらくすると映像チェックを終えた監督がやってきて、グッドマークを突き出してくれた。
「流石だよ、菅田くん。泣きの演技をやらせたら右に出るものはいないね」
「そんなそんな。ありがたいお言葉です」
今日の撮影は無事終了し、解散となった。ひとまず楽屋に戻り、ヘアセットやらメイクやらを落とす。
玲央は楽屋にいない。撮影が終わっても、数十分はスタッフさんと話すのが日課なのだ。メイクなどを手早く落としてもらい、携帯をぼーっと眺めていると、お茶と水のペットボトルを持った羽坂さんがやってきた。
「麻耶さん、撮影お疲れ様です。これお茶と水、どっちがいいですか?」
「じゃあ水で」