「あ! 灯くん!」
制服姿の宵が、ブランコの前で立っていた。僕を見つけるなりぶんぶんと手を振ってくる。
「ごめん、待たせたかな」
「ううん、待ってないよ。それに、」
宵は笑いながらブランコに座る。そしてなんだか偉そうに声を渋くする。
「いいんだよ。夜は長いんだから」
そんな宵に笑いながら、僕も宵の隣に並んでブランコに座る。地面を蹴れば、体が前後に揺れる。
ブランコに乗ったのなんて、いつ以来だろう。今では折り曲げた足が余っていて、ざらざらと爪先が地面を引きずってしまう。
「今日はどんな一日だった?」
宵が僕よりも揺れながら、視線を合わせてくる。
「今日は……」
呟きながら、今日のことを思い返す。土曜日。今日は学校は休みだけど、朝からばたばたしていた。
朝5時半に起床して、まず最初に洗濯機のスイッチを入れる。それから朝食作り。4人分の朝食を作りながら、母さんは土曜も出勤だから母さんの分の弁当を作る。そうしているうちに洗濯機が止まったので、洗濯ものを干していると、母さんが起きてきた。
母さんは今日も疲れているのか黙々と朝食を食べ、僕の目も見ないまま弁当を手に家を出て行った。僕が朝一作った朝食も弁当も、きっとなんの感情も抱かないままただ口にかきこむのだろう。感謝がほしいわけじゃない。でも少しくらい僕を労わってほしいなんて、そんなことをたまに思ってしまう。
それから嫌がる希を起こし、朝食を食べさせる。そしてテレビを見せている間に急いで僕も朝食をかきこみ自分の身支度を整える。味もしないまま朝食を食べ終え、希の支度を進めていく。この2年で、編み込みはずいぶんと上達した。幼稚園の友達がみんなこの髪型をしているらしく、僕も動画を見ながら猛特訓をしたのだ。
父さんがいないせいで希にさせる不自由な思いを、最低限にしてやりたかった。
そうして希を送り出し、学校に到着。6時間みっちり勉強して、希のお迎えに行きながら帰宅して、希の相手をして家事をして少し勉強をして……なんてしていたら、あっという間に夜だ。
「ちょっと疲れたな……」
夜空に向かって溜め息をこぼす。今日は昼から曇っていたから、雲に隠れて星空は見えない。
「だからなんか、宵に会えるのが救いだった」
「え?」
「夜になれば宵に会えるって思ったら頑張れた」
それは素直な思いだった。まだ会って数日しか一緒に過ごしていないというのに、僕にとってこの時間が、唯一息を吐き出せる憩いの時間になっていたのは間違いようのない事実なのだ。宵といると、僕をがんじがらめにする心の重力がなくなるような、不思議な居心地の良さがある。
すると宵が照れくさそうに頬を緩めて拗ねた顔を作る。
「灯くんって天然大魔神だよね」
「え……僕が……?」
「そういうとこ、ずるいと思います」
ぼそぼそとそう僕を責める宵が可愛いのは言うまでもない。君の方がずるいよと言いたくなったけど、それはやめておいた。
すると宵は地面を大きく蹴って、前に大きく漕ぎ出した。
「話したくなったらいつでも話してね。私でよければ話聞くから」
朗らかなその声に感化されたのかもしれない。僕は地面を引きずっていた足を止め、鎖を握った。
「なんか……高校生って難しいよな。子どもでもないし、大人でもないし。子どもでもあるし、大人でもあるし」
「なにかあったの?」
「いや、思ったんだ。大人になるのが少し怖いなって」
それはついさっきのこと。僕は進路希望調査票を、仕事から帰宅した母さんに見せた。
僕のクラスでは来月から、進路相談を主とした保護者を交えての三者面談がおこなわれる。それに伴い、進路希望調査票を記入するように担任から言われたのだ。
『……三者面談の前に、進路について相談したい』
僕は進路についてずっと悩んでいた。
本当は、サッカーの推薦をもらって大学にいくのが、中学の頃からの密かな夢だった。
けれど実際は進学できるかもわからない。母さんの病気がこのまま快復しなかったら、希が高校を卒業するまでだれが希の面倒をみるというのだろう。僕も働いて金を稼いで、働きながら家事をするのが、家族のためなのかもしれない。
だから母さんの意見を聞きたかった。母さんに話を聞いてもらえたら自分の進むべき道が明確になるんじゃないか……そんな望みに身を任せたくなったのだ。
すると母さんは缶ビールを呷りながら、僕の目も見ずに告げた。
『灯ももう大人なんだから、自分のことは自分で決めなさい』
『え……』
それはまるで繋いでいた手を離され、谷底に突き落とされたような感覚だった。もうお前の将来には関与しないと、婉曲的に言われたような気がして。
暗闇で目を瞑っている時、漠然とした不安に襲われる。自分はこのまま大人になっていいのだろうかって。ちゃんと大人になれるのだろうかって。
ずっと大人になりたかったはずなのに、いざそれが目の前に迫ると身が竦む。
「大人になったら、全部が自分の責任になるだろ」
僕らは高校生という大人のすぐ手前にいる。子どもでもない大人でもない、その狭間の宙ぶらりんな時期に置かれた僕たちは、迫りくるその時に怯えることしかできない。
「たしかにそうだね。全部急にひとりでやれって放り投げだされる感じだよね」
宵が夜空を見上げながら、僕に寄り添うトーンで声を奏でる。
「でもね、大人だからってだれかに寄りかかっちゃだめなんて、そんなことはないんだよ」
「え?」
「最初からそんなに完璧な大人になろうとしなくていいの。失敗して遠回りして、そうやって一歩ずつ大人になっていけばいい。だれもひとりでは生きていけないんだから」
決して諭すでもなく押しつけるでもなく、僕に歩幅を合わせて寄り添ってくれる宵の声。
宵の言葉を反芻しながら、僕はその言葉の実感に浸る。
「無理に背伸びして変わろうとしないで。私はそのままの貴方でいてほしい」
「こんな僕でいいのか……?」
「もちろんだよ。貴方はとっても素敵なんだから」
なにを根拠に、そんなふうに言い切れるのだろう。でも宵にそう言われると、不安や葛藤に押しつぶされそうになっていた自分が少しだけ馬鹿らしく思えてくるから不思議だ。
「……君はすごいな」
「ん? なんで?」
「宵がくれる言葉は全部魔法みたいだ」
すると宵はふふっと音符を飛ばした。
「言ったでしょ? 人生は短いんだから、一瞬でも楽しくなきゃもったいないって。私は、灯くんには一瞬でも長く幸せを感じていてほしいだけだよ」
宵の言葉に心を奪われそうになった時、宵が軽やかにジャンプして地面に着地した。そしてくるり。僕の方を振り返る。その顔には晴れやかな笑顔が浮かんでいて。
「ねえ、灯くん、未来の約束をしようよ」
「未来の?」
「そう。未来の」
そう話す宵の目には、たしかにだれの手にも消させられない光が灯っている。
「暗い気持ちになっちゃった時は、昨日までのことは考えずに未来の予定を決めるの。そうすると少しだけ見晴らしがよくなって、明日が来るのが怖くなくなるでしょう?」
「うん、たしかに……」
宵の言葉であるというだけで、まだ見ぬ明日が輝かしいものに思えるから不思議だ。未来に宵がいてくれるなら、未来が怖くない。
宵が僕の気持ちを引っ張り上げてくれるのだ。
「じゃあ、なにを約束する?」
僕が投げかけると、宵は人差し指を顎に当て考える仕草をする。けれどそれはポーズだけで、宵の中には明確な考えがあるようだった。
「んー……っとね、私にいい案があるよ」
「いい案?」
「実はね、来週の火曜日、流星群が見られるの。だからここで一緒に見ない?」
宵の提案に、心の中に煌めきが走る。なんて素敵な未来だろう。僕と宵だけの、密やかで愛おしい未来だ。
「うん、いいと思う。見たい、宵と一緒に」
思わず前のめりに頷いてしまう。
すると宵の顔にくすぐったそうな笑みが浮かぶ。
「やった。じゃあ約束ね。灯くんの来週の火曜日は、私のものだよ」
「うん」
ああ、とっても魅惑的で甘美的な響きだ。胸が高鳴っていく。
宵の言葉に、たしかに視界を覆っていた靄がとれて、明日への見晴らしがよくなった気がした。