彼の目に、真剣な光と熱が灯る。

「僕が好きなのは宵だよ」
「え……?」

 夜の公園で、私は彼から告白を受けた。

 気づかなかった。彼が私のことをまた好きになってくれたなんて。
 嬉しくて、どうしようもなく嬉しくて、けれど途方もない切なさで窒息しそうなほど苦しかった。
 ――だって私には、彼の気持ちに応えることができないから。

 目の前の彼の輪郭がじわっとぼやけ、まるで走馬灯のように彼との思い出が頭の中を駆け巡る。
 彼との本当の出会いは、中学3年生の秋のことだった。

 私は小さな頃から小説を執筆するのが密かな趣味で、キャンパスノートに物語を書き綴っていた。
 ジャンルは専ら学生同士のラブストーリーだ。
 ノートに手書きで綴るなんて今時アナログじゃないかと言われてしまいそうだけれど、スマホやPCを持つことのできなかった小学生の頃からの習慣のようなもので、手法を変えるつもりはなかった。
 そうして友達はおろか親にも見せるでもなく、自分の中に次から次へと湧き上がる世界を、ノートにアウトプットして閉じ込めていた。

 部活動に所属していなかった私は、毎日のように放課後になると中学校の図書室に足を運び、勉強の合間に物語をこっそり書いていた。
 その日もいつものように図書室で勉強と小説の執筆をしていると、30分ほど経った頃、お母さんからスマホに連絡がきた。
『雨が降ってきたから、駅までお父さんに傘を届けてほしい』とのことだった。
 窓の外では、いつからか雨が降りだしていた。今朝の天気予報では一日快晴と言っていたから、お父さんも傘を持っていかなかったのだろう。
 携帯している折り畳み傘と学校に置き傘がある私は、作業をそこで切り上げ、急いでお父さんが利用している最寄り駅へと向かった。

 そして駅で合流したお父さんと帰宅し、自宅で小説の執筆を再開しようとしたとき、スクールバッグの中にキャンバスノートが入っていないことに気づいた。

『うそ、もしかして忘れてきた……?』

 どうやら急いでいたせいで、うっかり図書室に置いてきてしまったらしい。
 自分用のため名前も書いていないノートだ。きっとだれかに見つかったとしても職員室などには届けられていないだろう、そんなふうに考え、翌日になると朝いちばんで図書室に向かう。

『あった……』

 司書教諭も出勤前のため、まだカーテンが閉まったままのがらんとした図書室の中。キャンパスノートは、昨日私が座っていた席の引き出しの中に入ったままだった。
 物語の中盤過ぎまで書き進めていたノートのため、ほっと胸を撫でおろしながらノートをぱらぱらと捲り……ふと、その手が止まる。

『ん? なにこれ』

 ノートの最後のページ、そこに覚えのない字が並んでいた。

【5行であなたの言葉に恋に落ちました。勝手に読んですいません。でもまた続き、読ませてください】

『え……?』

 目を通し、少しの間固まる。
 まさか小説を読まれてしまったなんて。そんな焦燥感が沸いたのは一瞬のことで、胸に押し寄せたのは感激の波だった。
 それまでは独りきりの趣味でしかなかった。でもそれを読んでもらえて感想をもらえることが、こんなにも心を満たすものだとは思わなかった。
 作品を通してだれかと繋がっていられる。自分の頭の中の世界が、私の手を離れて広がっていく。そんな実感に電流が走るように心が痺れる。

 悩みに悩んだ末に、私は放課後になると急いで作品を付け足し、昨日のように図書室の机の下の引き出しに入れて早めに図書室を出た。続きを読ませてくださいというのはお世辞だったかもしれないし、昨日のことは気まぐれで偶然だったのかもしれないし、あまり期待しないでいようと自分に言い聞かせながら。
 すると翌日、朝一で回収したキャンパスノートの最後のページには、またメッセージが記されていた。

【あなたの作品には愛があるなって思います。あなたの文がとっても好きです】

 ストレートな言葉に胸を打たれる。稲妻というよりは、線香花火がぱちぱちと火花を散らすような、小さくも鮮烈でじわじわ尾を引く衝撃だ。
 大袈裟かもしれないけれど自分の分身のように大切に温めてきた作品を、私の感性を、他者であるだれかに大切にしてもらえた感動に心が大きく揺さぶられる。

 角ばった、少し斜めったその字を、指先でなぞる。

『貴方はだれなの……?』

 問いかけに答える声はない。でもたしかにその人と繋がっていられている気がして、ノートを胸に抱きしめる。

 それからも作品をとおして、名も知らないその人とのやりとりは続いた。

【主人公に感情移入して、思わず涙が出ていました】

【今回の展開には驚きました。どうしたらこんな展開を考えられるのか、僕にも教えてほしいくらいです】

【17ページ3行目の台詞が綺麗でとっても好きです】

【この作品を読むことが受験勉強の合間の楽しみです。素敵な作品をありがとうございます】

 数週間に渡るやりとりでわかってきたことは、その人が男子であることと、同じ学年であるということだった。
 彼はたくさんの言葉を私に授けてくれた。閉鎖的だった作品の世界が、彼によって色彩を帯びていく。
 名前も顔も知らない相手だった。でも彼がくれる言葉を通して、どんどん彼に惹かれていく自分の想いを否定することはできなかった。

 そうするうちに、作品はいよいよ完結の時を迎えた。何十ページにも及んだラブストーリーは、無事にハッピーエンドで終止符が打たれたのだ。
 でもそれは、彼との交流にも終止符が打たれることを意味していた。お互い名前も知らない私と彼と繋ぐのは、この作品だけだったのだ。
 私にはそれがどうしても耐えられなくて、ついに禁じ手とも言える待ち伏せを決行することにした。本当は彼がどんな人か知りたくて、何度かこっそり待ち伏せしようかと考えたことがある。けれどそれをすることによって今の関係が変わってしまう気がして、踏ん切りがつかなかったのだ。
 でも直接お礼を言いたいし、あわよくばまだ彼との交流をもちたい。作品が繋げてくれた縁を、これきりにしたくなかった。

 私はいつも図書室を出る16時半を過ぎると、完結まで記したキャンパスノートを引き出しの中に入れて、本棚の影からこっそり様子を窺う。いつもどおりなら、彼はこのあと図書室を訪れるだろう。

 そして17時を迎えようとした頃。キャンパスノートが閉まってある席に近づく人影があった。人影は迷いなく引き出しの中からノートを取り出そうとした。

『あの……!』

 意を決して放った声に、彼が振り返る。
 背が高くて、爽やかさと聡明さを兼ね備えた人だった。初めて会ったはずなのに、私はもうずっと彼のことを知っていたような、そんな錯覚を抱く。
 どきどきと加速する鼓動の音を聞きながら、緊張でわずかに強張る唇を開く。

『すいません……待ち伏せしちゃいました。貴方とお話がしたかったんです』

 すると彼が照れくさそうに笑う。笑うと涼しげな目じりが垂れて、一気にあどけなくなる印象を覚えた。

『奇遇、ですね。実は僕も明日待ち伏せしようとしてました』

 ――これが灯との出会いだった。

 それ以降、灯とはよく顔を合わせて話をするようになった。最初は放課後の図書室で、それから通学バスの中で、中庭でお弁当を一緒に食べながらと、どんどん灯との時間が増えていった。
 話が合って、空気感がよく馴染んで、灯の隣はとても居心地がよかった。物理的な距離と比例するように、心の距離がぐんぐんと近づいていく実感があった。

 そしてその年の冬。放課後にふたりで訪れたイルミネーションが有名な並木道で、金色の光が視界を彩る中、私は灯から告白を受けた。

 目の前でふうっと息を吸い、そして、

『……好きです。君の未来に、僕にいさせてください』

 真摯な淀みない声で、灯は世界で一番美しい言葉をくれた。

 大好きな人が、私のことを想ってくれていた。その実感は少し遅れてやってきて、そしてあっという間に窒息しそうなほど心を満たした。
 じわじわっと熱いものが喉奥から込み上げてきて、私は頬を伝う涙をこらえきれないまま笑う。

『それじゃプロポーズだよ』
『あ、そっか』

 涙でぼやけた金色の世界で笑い合う、あまりに愛おしい時間だった。
 中学3年生の冬、初めて好きになった人が恋人になった。