あの日、宵が自分の正体を明かしてくれた夜、僕は別れ際に宵に告げた。
『ねえ、宵。未来の約束をしようよ』
『え……?』
『前に言ってくれただろ。暗い気持ちになった時は、昨日までのことは考えずに未来の予定を決めるんだって。そうすれば見晴らしがよくなって、明日が来るのが怖くなくなる』
宵がくれた言葉は、僕を動かす大きな糧になっている。
これまで宵が僕を勇気づけられたように、今度は僕が宵の手を引く番だ。
僕を見上げる宵の瞳が、水を含んで潤む。
『明日、会いに来る。宵の明日を僕にちょうだい』
翌日から僕たちは毎晩会うようになった。
けれどふたりとも、あの日の空気は意図して引きずらないようにしていた。そういう意思が宵の振る舞いから伝わってきて、僕もうまくできているかわからないけどそう振る舞った。
寂しさから目を逸らすように積み重ねる会話はほとんどが他愛ないばかりだけど、これまで以上に一瞬一瞬を大切に噛みしめるようになった。
次の満月の日は、9日後。
僕たちにはもう、あまり時間が残されていなかった。
「宵はさ、やりたいことないの?」
夜の公園でブランコを漕ぐ宵の前に立ち、僕はそう問うた。
毎晩この公園で会っているけれど、宵のやりたいことを一緒にやりたいことをしたいと思ったのだ。
「やりたいことか。うーん、そうだなあ」
腕を組み、考えるような仕草ののち、宵がなにかを思いついたように表情を灯した。
「そうだ、灯くんの家に行きたい」
「え? 僕の家?」
まさか僕の家に行くことが、宵のやりたいことだと思っていなくて、思わず驚く。
だって僕の家に行ったって大した歓迎ができるわけでもないし、面白いなにかがあるわけでもない。
「なんで僕の家に?」
「なんでも。だめかな」
宵は明確な答えをくれない。
けれど必殺の上目遣いで見つめられれば、僕の意思はいとも簡単にぐらっと傾いてしまうんだ。
「宵はそれでいいんだね?」
「うん」
「それならいいけど……」
宵がそれを望むなら、断る理由もなかった。
すると宵は蠱惑的ににっこり笑って、軽やかにブランコから飛び降りた。
「さあ、そうと決まれば行こう。夜が終わっちゃう」
家に着くと、僕は静かにドアを開けた。そして足音を忍ばせながら靴を脱ぐ。
夜に出歩くようになって一度もバレてはいないけど、いつバレるともわからない。家を出てくるときにはみんな寝ているけれど、母さんが起き出しているかもしれないし、帰宅のタイミングで起きてくるかもしれない。
慎重を期すに越したことはないのだ。
「こっち」
「うん。お邪魔します」
宵を呼び寄せ、2階にあがる。2階の廊下の突き当たりが僕の部屋だ。
無事、宵とふたりで自室に入りドアを閉めると、そこで僕はふうと息をつく。
一方の宵はといえば、部屋を見渡し、嬉しそうににこにこしている。
「落ち着くなあ、灯くんの部屋」
「そう? 普通じゃない? なにもないし」
「それでもいいんだよ」
勉強机にベッドと本棚、それから部屋の中心にローテーブルがあるだけの、質素な部屋だ。
普段から片づけは好きな方だけど、部屋が散らかっていなかったことに安堵する。
「女の子がここにいるなんて不思議な感じ」
「ふふ。なんか悪いことしてるみたいだね」
「わかる」
宵はなぜか僕の勉強机や本棚をまじまじと見ている。まるで僕のなにもかもが晒されているみたいで、恥ずかしくて落ち着かない。
「面白いものあった?」
「ん……いや、灯くんの部屋だなあって」
「なにそれ」
僕は苦笑しながら、ベッドに積んでいたクッションを手に取る。
「どうぞ」
クッションをベッドとローテーブルの間に置いてやると、宵は礼儀正しくありがとうと言ってそこに座った。
僕もローテーブルを挟んで反対側に腰を下ろす。
宵と向かい合ったところで、空気が整頓された気配を察知し、このタイミングしかないと思った僕は、ずっと懸念していたことをおそるおそる切り出す。
「ねえ、宵」
「ん?」
「僕の家に来ることの他に、未練とかやりたいことはある?」
この話題を出すことをずっと躊躇していた。それは宵が消える期限と直結する話題だからだ。
けれど実際、宵に残された時間はあとわずか。現実から逃げてばかりもいられない。少しでも宵の時間を充実させ、一秒でも幸せを感じていてほしかった。
「……未練、」
「ほら、初恋の人に会いに行くとか」
すると宵は笑顔で小さく首を傾げた。
「んー、それはいいかな。私のことなんてどうせわからないし」
「いいの?」
「だって私幽霊だから。普通の人には見えないよ」
「あ、そっか……」
それはなんて悲しいことだろうと、胸が痛む。好きな人に自分が見えないなんて、そのやりきれなさと悲しみは想像を絶する。
「灯くんはどうしてそんなことを聞くの?」
不意に、大きな黒目で逆に聞き返された。
僕は下唇を噛んで数秒躊躇い、そしてずっと気にしていたことを吐き出す。
「だって、僕が宵のこと独り占めしてていいの?」
僕以外に、初恋の人とは限らずとも宵にとって大事な人がいるはずだ。その人のそばにいた方が有意義な時間を過ごせるのじゃないかと、僕じゃ役不足なんじゃないかと、そう思ったのだ。
すると宵は試すような眼差しで、僕をまっすぐに見つめた。
「じゃあ、灯くんは私になんて答えてほしい?」
息をのむ。目が逸らせなくなる。
だってそんなの、もちろん。
「……僕に、独り占めしていいよって言ってほしい」
本当は最初から、僕の想いはこれだけだった。気を利かせるていで自信のないふりをして、そうなればいいのにってわがままに願ってた。
ぽつりと浅ましい願望が口からこぼれれば、宵はにっこり笑った。世界中のだれもが降参して見惚れるしかない魅力的な笑みで。
「じゃあ、それでいいんじゃないかな」
「え」
見惚れていたせいで、一瞬理解するのに時間がかかってしまった。
「いいの……?」
「うん。私は、最期の時まで灯くんと過ごしたい」
真っ直ぐなその言葉に、僕は咄嗟にどう答えたらいいかわからなかった。
嬉しくて切なくて、相反するふたつの感情がないまぜになって込み上げてくる。
「でも、ひとつだけ」
沈黙になりかけたその空気を割ったのは、宵の声だった。
「なに?」
「家族に会いたいかな」
その声に少しだけ臆病な色が滲んでいることに、僕は気づいた。
「会いに行ってないの?」
「うん……。ちょっと勇気がなくて。だから灯くんと一緒に行きたい」
苦笑する宵。その笑顔にはいつもの力がない。
いつもその手を借りてばかりの僕に、宵が初めて手を伸ばしてくれた気がした。
僕はひとつ頷き、笑顔で答える。
「いいよ、行こう。僕も宵の仏壇に手を合わせたいし」
「ありがとう」
すると宵が空気を変えるように笑みを作り直し、ローテーブルに身を乗り出してきた。
「そうだ。ねえ灯くん、アルバム見たい」
「アルバム?」
「うん。灯くんの幼少期の写真とか、すっごく気になる」
アルバムなんて見返したことは一度もないけど、父さんが撮り溜め作ってくれていたアルバムが、たしか本棚にあったはずだ。高校1年生の誕生日で、父さんが僕にくれたのだ。
けれど僕は躊躇う。なぜか興味津々に目を輝かせる宵の期待に応えられる気がしないのだ。
「ええ……楽しいものじゃないよ? 僕、あんまり写真好きな子じゃなかったし」
「いいの」
うう。やっぱり僕は宵に弱い。押し込められ、渋々頷く。
「わかったよ」
「やった!」
立ち上がり、本棚の一番上の段からアルバムを取り出す。紺色の表紙のいたって普通のアルバムは、埃を被っていた。
「はい」
「おお。どれどれ?」
隣に並んでアルバムをテーブルに置くと、宵が好奇心を抑えられないというようにさっそくアルバムを開く。
アルバムの写真は、生まれてから時の経過がわかるように年代順に並べられていた。
真っ先に出てきたのは、生まれてすぐの僕だ。母さんに抱っこされて、ぷくぷくの頬を膨らませている。
「わ、灯くんが赤ちゃんだ」
ほくほくと嬉しそうな声。
まさか好きな人に幼少期を見られるなんて思っていなくて、僕は恥ずかしい。
「でもうん、面影あるね」
「そうかな」
「ふふ、可愛い……」
なんでそんなにはしゃいでいるのかわからないけど、そんな宵を見ていると、なんだか僕も可笑しくなってくる。
「灯くんって、昔は背がちっちゃかったんだね」
「うん。前から数えた方が早いくらい小さかったな。小学校高学年でぐんって伸びた」
「そうだったんだ。大きい灯くんしか知らないからなんか不思議な感じ。……お、小学校に入学した。可愛い~っ」
「え? 可愛くはないよ」
「ううん、存在丸ごと可愛い。撫でまわしたい」
写真を見つめ笑顔をとろけさせる宵を見ていると、なんだか写真の中の幼少期の自分にまで嫉妬しそうになってくる。僕だって宵にこんな顔をさせたことはないのに。
「やっぱりサッカーやってる写真が多いね」
「たしかに。サッカーしかやってこなかったからね」
「ふふ、歴史だねえ。わ、これいい写真!」
ひとりでリアクションをとりながら、宵がページを進めていく。
と、不意にあるページで宵が手を止めた。
「これは?」
そこには、海で映る僕の写真があった。通行人の女の人が撮りますよと声をかけてくれたのだ。
「ああ、高校の時の写真だね。中3あたりから、ひとりでいろんな場所に行くようになったんだ。部活が休みになると、父さんの一眼レフを借りていっつもどこかに出かけてた」
いろいろな景色を見て空気を吸いたいと思った。そうして自分の中に思い出が積み重なっていくのが、なんだか無性に嬉しかった。最近ではめっきり遠出をしなくなったけれど、またあんなふうにいろいろな場所を巡りたいなと思う。
とはいえ、ひとりで映っている写真を見られるのは、なんだか気恥ずかしい。
あの時の写真を父さんが現像し、ここに貼っていたことを知らなかった。まさか好きな人に見られる未来が来ようとは、さらに思わなかった。
「もし中学生の頃に出会ってたら、僕たちはどんなふうになっていたかな」
ごろんとその場に体を倒して、僕は宙に声を飛ばした。
「え?」
「あの頃、出会っていたかったなって」
どうしようもない本音がこぼれた。
そうしたらきっと僕は、宵のことをずっと見つめていたはずなのに。
すると宵が僕の隣にごろんと横たわった。そして同じ天井を見上げる。
「私たち、一緒のクラスにはなれないんだろうなあ」
「ええ、そんな無慈悲な」
「……でもきっと貴方は私のことを見つけてくれるの。あの夜私を見つけてくれたように」
宵がごろんと首を横に倒す。隣を見れば、鼻先が触れそうな距離で視線がかち合う。
瞬きも忘れてお互いを見つめた。
「それで、暑くなってきたねとか今日寒いねとか一緒に季節を感じたり、綺麗だな面白いなって思ったものを共有したりね」
「いいな、そんな日常」
切実な思いが、声に滲んでしまった。
叶うなら、宵と一緒に同じ時間を生きたかった。
「……なんてね」
宵が小さく笑って、天井を見上げる。
その横顔が儚く淡く消えてしまいそうで、思わずこの手に宵を抱きしめようとして――触れる寸前、やめる。
伸ばしかけた腕はそっと自分の方へと戻し、頭の下に入れた。
そうして僕たちは、言葉もなくただ同じ空気の中にいた。