「希、準備できたか?」
「うんっ!」

 希が元気に返事をして、僕の方にたたたっと駆け寄ってくる。
 今日は日曜日。今までは5時半には起きていたけれど、今日は7時まで寝ていることができた。それは母さんが仕事前に朝食を作っていってくれたおかげで、朝の時間に余裕ができたからだ。

 母さんに本音でぶつかって以来、母さんと僕で家事を分担するようになった。母さんは定時で帰ってくれるようになったので、僕の負担はずいぶんと減った。
 あの時本音を伝えることができて、今では本当によかったと思っている。それもすべて宵が僕の背中を押してくれたからだ。

 今日は幼稚園が休みなので、希をつれて公園に遊びに行く。午前中勉強している間は家で塗り絵をさせて遊ばせていたから、午後くらい希のために時間を割こうと思ったのだ。

「ほら、危ないから手繋ぐぞ」
「うんっ」

 希はすっかり元気だ。熱を出した翌日にはけろっとしていて、子どもの治癒回復能力は凄まじいと感心したものだ。

「にーちゃんと公園行けるのうれしい!」

 とびきりの笑顔でそう言ってくれる希は、無条件に可愛い。

「公園でなにして遊ぶ?」
「んーと、てつぼう! まれ、さかあがりできるよ!」
「えっ? いつの間にできるようになったの?」
「リリちゃんとれんしゅうしたの!」
「すごいじゃんか、希ー!」
「えっへへ~」

 白い歯をこぼし、得意げに笑う希。
 子どもの成長速度は目を見張るものがある。宵もきっと気づけば小学生になって、そしてあっという間にランドセルを卒業しているかもしれない。一瞬たりとも目を逸らしてはいられないのだ。

 行き先の公園は、夜になると宵と落ち合っているその場所だ。たまにこうして希と遊びに行っているけれど、昼間の公園では宵に遭遇したことがない。
 公園には近所の小学生たちが集い、数メートル先からすでに賑やかな声が聞こえてくる。
 活気のある昼間の顔と、夜闇に包まれた顔はまるで異なり、同じ場所には思えない。

「今日は16時までには帰ろうな」
「わかった!」

 希とそんな会話を交わしていた時だった。

「えっ、灯……?」

 不意に聞きなじみのある声が聞こえてきて顔を上げると、そこにはたまにうんざりしたりするほど見飽きた顔があった。――イチだ。
 部活があったのかジャージに身を包んだイチは驚いた顔で僕を見て、それから僕と手を繋いだ希を指さした。

「……と、だれ……?」



「希、にいちゃんちょっと話があるから、向こうで遊んでおいで」

 膝に手をつき視線の高さを合わせながらそう言い聞かせると、なにも知らない希は「はーい!」と素直に頷き砂場の方に駆けていった。
 その一部始終を穴が開くほど見つめてくるその視線を感じながら、背後にいるその人物に向き合えば、イチはまだ状況を理解できていない顔で呟く。

「にいちゃん……?」
「イチ、あっち座ろう」

 イチを促し、いつも座っているベンチに並んで腰かける。

 これまで幼い妹がいることは、イチには話したことがなかった。男子中学生にもなってわざわざ家族の話をすることもなく、なんとなく改まって言うタイミングがなかっただけだったけど、父さんがいなくなり本格的に言えなくなってしまったのだ。

「お前、あんなちっちゃい妹いたの」

 腕を組みベンチに寄りかかって、憮然と言い放つイチ。

「ごめん、黙ってて」

 もう、すべて包み隠さず話すときなのかもしれない。
 砂場でお城を作り出した希を遠目に見ながら、僕は前傾姿勢になって膝に肘をつき、声をぽつりぽつりとこぼしていった。

「本当はずっとイチに黙ってたことがある。……うち、2年前に専業主夫だった父さんが出て行ったんだ」
「え? 2年前って……」

 その時期だけで、僕が言わんとすることをイチは察したのだろう。
 僕は長い溜め息を吐き出すように、落としたトーンで続けた。

「うちの母さん、仕事が忙しくてなかなか帰ってこなくて。だから僕が家事と希の世話をするようになった。サッカーを辞めたのもそれが理由。希の送り迎えとか食事の準備とかあるから、部活に参加できなくなったんだ。ごめん、ずっと黙ってて」

 すると斜め後ろから、イチの困惑した声が肩にぶつかる。

「家事とか、あんな小さな子のお世話とか、全部ひとりでやってたのか……?」
「まあ、少し前までは。でも最近は母さんが……」
「なんだよ……っ」

 僕ははっとして振り返る。だって、イチの声がへにゃへにゃにふやけていたから。

「なんだよ、俺、お前のことばっか責めっちゃったじゃんかよお……」

 イチは号泣していた。思わず吹き出してしまうくらい顔をぐちゃぐちゃにして。

「なんでイチが泣くんだよ」
「だって、なにも知らないでひどいことたくさん言った……。俺、なんの力にもなれなかった……」

 それは思いがけない反応で、不覚にも鼻の奥がつんとする。責められるかと思ったのに、まさか自分のために泣かれるなんて。
 僕はつられて泣きそうになりながら、それを紛らわせるように笑ってイチの肩を小突き茶化す。黙っていればかっこいいイチの顔が台無しだ。

「家族のためにあんなに大好きだったサッカー諦めたなんて、知らなかったよ俺……」
「イチ……」
「仲良かった父さんがいなくなってサッカーも辞めて……灯、つらかったなあ……。頑張ったなあ……」
「……っ」

 男子高校生が公園のベンチに並んで座って、ふたりして泣いてるなんて恥ずかしすぎるのに。それなのに子どもたちの視線を感じながら、僕は落涙を禁じえなかった。
 あんなにほしかった頑張ったをくれる人がこんなに近くにいたことを、なんで気づけなかったのだろう。

「でもそういうこと、言ってほしかった」
「うん……」
「どうせ俺の負担になるとかそういう馬鹿なこと考えたんだろうけど、それでも相談くらいしてほしかった。なんだよ、その遠慮。10年も一緒にいて、今更いらなすぎるだろ」

 涙声で文句を並べて、それから鼻を啜ると、イチは僕に改めて向き直る。

「これからは俺にも協力させて」
「でもそしたらイチに迷惑が……」
「送り迎え代わるとか、夕食をうちでごちそうするとか、そういうことしかできないけど、でも俺だって灯の力になりたい。俺、灯のこと親友だと思ってるから」

 この年になると、青春の代名詞のような輝かしいその言葉はとても気恥ずかしく思えた。けれど臆面もなく真正面からぶつけてくるイチに、心を大きく揺さぶられる。
 なんとなく、いつの間にか隣にいることが当たり前になって、あえて言葉にしたことなんてなかった。
 でも理由を言わずにサッカーを辞めても、こいつだけは隣にいてくれたのだ。

「……僕も。イチのこと親友だと思ってる」

 照れくささを押し殺して、そう告げたその時。

「にーちゃん、ないてるの?」

 突然あどけないひらがなが割って入ってきたかと思うと、いつの間にかそこにいた希が心配そうに僕を見上げていた。
 もしかしたらイチと喧嘩したと勘違いさせてしまったかもしれない。僕は涙を拭いながら笑って見せる。

「大丈夫だよ。ごめんな、心配させて」

 すると希の顔が輝いた。そしてひよこ型のポシェットを探る。

「まれ、ハンカチもってるよ! まれのハンカチ、かしてあげる!」
「おっ、いい子だなあ~」

 希の頭をわしゃわしゃと撫でるイチ。そして嬉しそうに目を細める希。

 僕の未来は少しずつ、確実に、変わっていた。