彼女からの連絡が途絶えてから、もう三日。
 セミが忙しなく鳴き、暑くて外に出る気力も削がれる七月下旬の夏休み。
 ネットの付き合いは、繋がりが浅くて縁を切りやすいと聞いたことがある。
 それもそうだ。
 お互いの身元も顔も、リアル情報なんて知らないんだから。
 アカウントをブロックするか消せば、それで関わりは終わる。
 彼女も、そうやって自然消滅を狙ってるのかもしれない。
 最後の別れを提案した悲痛な声を思えば、そう考えるしかない。
「保留、か……」
 別れる別れないの答えは、お互いに保留にしたまま。
 結局、彼女の真意は最後まで分からなかった。
 それでも、いい。
 最後に泣いてた君が、今は笑えるようになってるなら……。それでいい。
 オフ会とか変な提案をした僕こそ、謝るべきだった。それは心残りだ。
 謝るメッセージを送ったけど、反応がないから読んでくれたかも分からない。
 しつこくメッセージを送るのは、彼女の迷惑になる。
 ネットで出会ったやつに執着されるなんて体験はトラウマになるかもしれない、と。
 三日前の終業式が終わった夜に謝るメッセージを送ってからは、もう連絡してない。
「……今までで一番辛いけど、腐ってちゃダメだ」
 太陽の光が窓から入ってきて温められた部屋、じめじめとしてるのも加わって暑苦しい。
 声劇をするときとかに冷房の音が入るから、エアコンは極力、使わないようにしてるけど……。
 今は、あまり声を張って演技ができる気がしない。
 もうすぐ演劇部での部内オーディションがあるって噂なのに、台本を読むと……。
 どうしても、彼女の楽しそうな声の余韻が脳内に響く。
『――生声劇、楽しかったね!』
 まるで今でも、耳元から聞こえてくるかのように思いだす。
 未練がましいとは思うけど、集中しきれない。
 暑さの中、手汗で湿った台本が歪んでる。
 そうなるだけ読み込んてきたけど、身になってる気はしない。人物の解釈にも自信が湧かない。
 台本を読み込めない、声を出す気力がでないなら……。今は描いたり、他のことを頑張ろう。
「……ダメだ、集中できない。情けないな、僕は……」
 イラストを描いてても、彼女に見せたときの反応が脳内に浮かんでくる。
 僕の中で波希マグロさんという存在は……。本当に、かけがえのない存在だったんだ。
 どうして、普通にリアルで出会う関係じゃなかったんだろう?
 君は東京都の八王子市で、僕は愛知県の春日井市。
 リアルから知り合ってれば、君の真意にも気がつけたかもしれない。
 君が抱える問題だって、共有できたかもしれない。
 恩返しもできて、こんな音信不通で悩むことも、なかったのかもしれない。
 出会い方の違いが、こんなにも大きいなんてさ……。
 そんな今更考えても仕方がない、『かもしれない』ばかり考えて……。
 気がつけば、日が傾いてた。
「……台本、読まなきゃ」
 いつまでも、うじうじと落ち込んでたらダメだ。
 オーディションに向けて、彼女と一緒に人物の深掘りをした役のセリフを練習する。
 不思議と、役を演じてる間は――辛さが消えた。これは役に没入して、その人物になろうとしたからだろうな。
 この体験をできるのも、彼女が人物の心情の読み解き方を教えてくれたお陰だ。
 数十回と練習し、録音した音声を聞くと――やっぱり我ながら演技力は酷い。
 前より、いくらかは自然になってきた気がするけど……。
 ステージ上で演技をしてる人と比べると、思わず首を傾げてしまうレベルだ。
 少し気分転換に……他の役を演じるか。久し振りに、声劇アプリを開いてみる。
「……アイコン、変わってない」
 ほとんどいないフォロワー。
 その中で、波希マグロさんのアイコン――僕がプレゼントしたファンアートが、そのまま残ってた。
 嫌われたなら、換えられてもいいはずだけど……。
 もしかしたら『イラスト、大切に使わせてもらうね! 宝物にする!』という言葉を、律儀にも守り続けてるのかな?
 彼女の最後の投稿は、三日前。
 僕と別れ話をする直前の、夕方だ。
 その後は、誰にもメッセージを返した形跡もない。
 大好きな劇すら、彼女がやりたくないという思いにさせてしまったとしたら……。
 僕は、どう謝ればいいんだろう。いや、謝っても許されない、か。
 波希マグロさんの、コラボ募集動画……。相変わらず、凄い人気だ。
 彼女が投稿した一つの掛け合い声劇動画に、百を超えるコラボが続いてる。
 動画を再生してみると、いきなり世界観に引きずり込まれた。
「ははっ……。相変わらず、演技が上手いな。……なんて素敵な声、演技なんだ」
 動画を聞いていると、改めて彼女に魅了される。
 彼女の演技に、混ざりたい。コラボ者用に空いてる空白時間を埋めたい。
 下心とかなく、彼女の演技と世界を完成させたい。
 だけど、関係性を壊した僕なんかが、いいんだろうか?
 そう悩んだ時、母さんの『自分がやりたいことをやりなさい』という教えを思い出した。
 気持ち悪がられるかもしれない。
 個別メッセージは、執着されてると怖がらせたくから……もう送らない。
 でも純粋に、自由コラボ募集動画で物語を完成させるなら……。
 百以上続くコラボの中に、しれっと混ざるぐらいなら、許してもらえるかな。
 ブロックされてないなら、劇を一緒するぐらい許してくれるかな。
 台本を読み込み、数日ぶりに耳にする彼女の声と――掛け合い声劇を録音していく。
 何度も何度もリテイクを繰り返し、今の僕の中で最良の演技を。
 汗だくになって、二百を超えるリテイクを繰り返して――。
「――楽しかった……」
 肉体の疲れなんか忘れるぐらい、熱中して役になりきってた。
 録音音声を聞いて、頷く。
 この台本にいるのは、波希マグロと七草兎じゃない。
 あくまでも、キャラクターだ。
 そう心の中で言い聞かせ、彼女とのコラボ動画を投稿する。
 この一回だけだから、と。
 彼女との最後の演技になるかもしれない。
 これでブロックをされるかもしれない。
 迷った末『コラボ失礼しました』と、最低限の挨拶コメントだけを送ってアプリを閉じた――。
 翌日。
 部活動のために登校すると、部長が気合いの入った声で部員に集合をかけた。
「今日はオーディションをしようと思う。知っての通り、うちの文化祭は十一月中旬と開催が遅い。俺たち三年は、半ば引退してる」
 受験を控えた三年生が華々しく引退する場を用意するのは、うちの学校の行事予定だと難しい。
「そこで、だ。九月の上旬、今までの舞台で使った道具で一つ劇をやりたい。これなら負担は最小限に抑えられると思うんだが、どうだ? 勿論、夏期講習で忙しいやつは無理に参加しなくていい」
 つまり、思い出を作るための劇か。
 とはいえ、やるからには皆、本気なんだろうけど。むしろ本気じゃないなら、やる意味がない。
 強制参加じゃないのと、一から道具などを作らなくて済むのが効いたのか、反対の声はあがらなかった。
「よし。それなら、台本のあらすじを言った後、配役を決めよう」
 物語のあらすじを部長が読み上げ、スライドをホワイトボードに映し出す。
 スライドには人物名と特徴、劇での役割が書かれている。
「じゃあ望む役があれば、手を挙げてくれ。勿論、普段からいい演技をしてる奴は、役争いに落ちたら別の役を競ってもらうからな」
 メイン級の配役から始まり、手を挙げた人の名前がスライドに書き加えられる。
 この後にオーディションをして、一人を絞っていく流れらしい。
 これまでの僕は、こういう場に呼ばれたことがなかった。
 実質的な思い出作り上演だからなのか。それとも裏で武内君が手を回してくれたからなのか。今までは、呼んでも仕方ないと思われてたのか……。
 なんなら、忘れられてたという可能性もありえるな。
 メイン級の配役に次々と演技の上手い人が名乗りを上げていく。
 僕が手を挙げたのは、少しだけ登場する執事役。
 でも僕以外にも希望者がいて――場がザワついた。
「お、おう……。春日、か。まぁオーディションを受けるのは、自由だな」
 部長も動揺して、顔から汗を滲ませた。
 まぁ、それはそうだろうな。
 僕は裏方と基礎練習ばかりで演技をしてる姿を見た覚えすらないと言われる人間だったんだから。
「先輩、頑張ってください」
 小声で後輩が話しかけてきた。
 僕は小さく「ありがとう」と返してから、オーディションを待った――。
「――先輩、お疲れ様でした。お先に失礼します」
「うん、お疲れ様。気をつけて帰ってね」
 モップをかけながら、僕は配役をもらった後輩を見送る。
 手伝うと言ってくれたけど、断った。
 今は、何か役割がほしかったから。
 何でもいいから……必要とされたかったんだ。
「おい、晴翔」
「武内君? 帰ったんじゃないの?」
「晴翔が一人になるのを待ってたんだよ。言いたいことがあってな」
「……言いたいこと?」
 明らかに怒ってる。
 僕が――あっさりオーディションに落ちたからかな。
 色々と手伝ってくれた武内君とすれば、それは腹も立つか。
「お前、何を考えてた? オーディションの最中、執事の気持ち以外を抱えてただろ!?」
「……え?」
「分からねぇと思ってんのかよ!? 俺は、どんな役割でも手を抜かないお前ならって……。芝居、なめんじゃねぇぞ」
 武内君は舌打ちをして、掃除を手伝い始めた。
 重苦しい。
 どうしていいか分からないし……。
 指摘されれば、その通り。図星だ。
 どうしても、この台本で深掘りをした執事を演じると――波希マグロさんの声が、チラついてた。
 それを見抜いた武内君からすれば、裏切られた思いだろうな。
「……ごめん。色々と、よくしてくれたのに」
「俺に謝ってほしいわけじゃねぇ。晴翔自身の問題だろうが」
「……うん。反省する」
「そうしろ。何があったかは知らねぇ。それでもよ……。少なくとも劇中はステージで役になりきって、観客に楽しんでもらうことだけを考えろっつの」
 僕のプライベートについて話した訳じゃない。
 それでも、演技の上手い人は人を観察する力もあるのか。
 武内君は手際よく掃除を終わらせ、黙って帰っていった。
「中途半端だなぁ……僕」
 全身全霊をかけて進むべき道も決められない。
 人の期待を裏切り、身近な人すら笑顔にさせられない自分が――大嫌いだ。
 夕焼けに染まる空。
 開いた校舎の窓から入ってくる生温い風が、胸に広がる虚しさに染みた――。
 アルバイトを終え、自宅に帰ってきた。
 沈んだ顔で入浴や食事を済ませる僕の姿で何かを察したのか、両親は特に何も聞いてこない。
 ありがたく思いつつ、自分の部屋の椅子に深くもたれかかる。
「はぁ……。全身全霊でやりたいこと、か」
 将来の夢に繋がることは……全く見えない。このまま夢へ繋がる道も見つけられず卒業するのかもしれない……。
 三年生の口から引退という言葉が出たとあって、だいぶセンチメンタルな気分だ。
「波希マグロさんを……笑顔にしたかった」
 初恋が終わるって、予想以上に辛いんだね……。
 そういえば、と。
 SNSに上げているイラストの反響を力なくチェックする。
 うん、見守ってもらいながら描いたからかな。前よりフォロワーも増えて……。
 あれ、DMがきてる?
 どうせ、怪しいアカウントからだろうと思いながらタップすると――。
「――ぇ……。波希、マグロさん?」
 彼女のハンドルネームがついたアカウントからだった。
 なんで……。
 彼女はSNSをやってないと言ってたのに。
 もしかして、アカウントを復活させた?
 もし、そうだとしても、メッセージなんてチャットアプリですればいいのに。
 ほぼ偽物だとは分かっていても、開かずにはいられない。
『七草兎さん。この間はごめんね。保留にしてる話をしたいから、提案してくれたオフ会をしない? 八王子でなら会えるから。でも無理はしなくていいからね』
 メッセージを何度も、何度も読み返す。
 これは……本物かもしれない。
 ただ単にオフ会をしようと言うなら、波希マグロさんを騙る偽物の可能性が高い。
 彼女のアカウントは、フォローもフォロワーもほゼロ。作成日も、今日だ。
「……このためだけに、作り直した? チャットアプリの方を消したとかなら……。ありえる?」
 多分、声劇アプリは消してなかったんだと思う。
 それで僕のコラボ動画を聴いて、粘着されても困るからと連絡をくれたのかもしれない。
 僕のSNSアカウントは、画面共有で見てたし。そもそも『七草兎』という名で声劇とイラストを描いてるアカウントも、それ程は多くないだろう。
「だけど、オフ会? 『もう関わるな』じゃなくて? なんで、このタイミング……。偽物、とか?」
 なりすましを疑って、文面を何度も読み返す。
「保留してた話……。八王子。こんなの、本人じゃないと知らないよな」
 彼女が嫌がってないなら、会いたい。
 あれだけオフ会は無理と拒絶してた彼女が望むなら――断りたくない。
 その言葉に、どれだけの勇気を込めてくれたか想像すれば、断れない。
 だけど、こんなの僕だけで決めていい話じゃない。
 愛知県から東京。
 調べると、新幹線と電車で三時間もあれば行けるらしい。
 値段は片道で一万円以上。僕のバイト代が三日分飛ぶぐらい。往復だと、六日分かな。
 両親から借りてるお金の返済も考えると、財布には厳しいけど――行きたい、彼女に会いたい。
 夕食の時間。
 僕は両親に向かって頭を下げた。
「彼女……。別れる別れないを保留にしてる彼女と話をしたいから、東京に行かせてください」
 テーブルに額がつくぐらい頭をさげる僕に、中々答えは返ってこない。
 悩んでるのか、驚いてるのかな。
 即座にダメだと言われると思ったけど……。
「……ふむ、条件をつけよう」
「そうね。まずスマホのGPS連携は絶対ね。あと一時間ごとに、どういう状況かの説明は欲しいわ」
「あとは相手の保護者の詳細な住所や名前、連絡先だな」
「ちょ、ちょっと待って! 東京まで、会いに行っていいの?」
 トントン拍子に進んでく話に、逆に戸惑う。
 何で……。こう言うのって、もっと反対されるんじゃないの!?
 詐欺だろうとか、子供が一人で遠出してネットの人間に会うなんて認めないとか!
「晴翔、母さんたちはね、親なのよ」
「……知ってるけど。どういう、こと?」
「お前、この数日……寝られたか? 眼も虚ろで、それでも何かに頑張ろうとしてる悲壮感漂う姿。……親としては、なんとかしてやりたいと思うのが当然だ。人生経験にもなる」
 ああ……。僕は誰にも努力を認められてないとか、なんて見当違いなことを考えてたんだろう。
 こんなにも近くに、ちゃんと見てくれる人が僕にはいたなんて。
「とはいえ、よ。インターネットから出会った人間同士のトラブルなんて、しょっちゅうニュースで流れてるわ。だからトラブルが起きないように、条件は必要なの」
「ああ。これをリスク管理という。覚えておきなさい。今あげた条件を晴翔や相手が飲めないようなら、父さんたちも認めるわけにはいかない」
「そうね。相手にやましいことがなければ、教えられるはずだもの。成長機会だろうと、安全性も必要だわ。いいわね?」
 二人に感謝すると同時に――実質、難しいんじゃないかと思った。
 僕に関する情報は、別にいい。
 でも波希マグロさんの保護者に関するプライバシー情報は、彼女も両親を説得しなければならないから。
 それを頼むのは気が引けるけど……。
 トラブルを防ぐために仕方ないという理屈も分かる。
 部屋に戻り、重い指で条件をつけられたことをDMする。
 すると僅か十分後――。
「……これ、お父さんの保険証? 白浜、真一……」
 電話番号や住所、名前どころじゃない。
 個人情報中の個人情報が送られてきた。
「波希マグロさんの名字、白浜っていうのか……」
 知らなかった彼女の情報を、このタイミングや状況で知ったのは複雑な気分だ。
 画像を保存し、両親に送ると――『新幹線の切符の買い方は分かるか?』とメッセージが返ってきた。
 それは実質、認めるということだ。
 切符の買い方なんて、ネットにいくらでも情報があるだろう。
 現地で迷ったら、駅員さんとかに聞けばいい。なんでも両親に頼ってばかりじゃダメだ。
 日付は両親がすぐに僕からの連絡を確認できる土日がいいだろう。
 波希マグロさんへDMを送る。
『急でごめんだけど、次の土日のどちらかでオフ会できる?』
『私も土日がいいと思ってた。土曜日で大丈夫だよ。何時に八王子こられそう?』
『始発に乗っていけば9時ちょいとか。早すぎるかな?』
『帰りもあるもんね。大丈夫だよ』
 話は、流れるように進んだ。
 拍子抜けする程にあっさりと、彼女とのオフ会が決まった。
 彼女と会える。楽しい話じゃないかもしれないけど、会って真意を聞けるかもしれない。
 それだけで、穴が空いたんじゃないかと思う程、空虚だった僕の胸に嬉しさが満ちた――。
 迎えた土曜日。
 眠れなかったから、徹夜でイラストを描いて家を出た。
 まだ朝の五時にもなってないのに、両親が心配そうに見送ってくれる姿を見て……申し訳なさと、二人も挑戦してるのかもしれないと思った。
 学校で可愛い子供には旅をさせろ、という言葉があると習った。
 成長を促すためのものらしいけど、注意されたように旅で危険はつきもの。
 ましてや親からすれば、信頼関係のないネットで会った人に会う旅なんだ。それは心配だろう。
 交渉の余地なく否定されなかったのは、僕がとんでもない顔をしてたから、かな……。
 そんなことを考えつつ、約束通り一時間ごとに状況をメッセージして――八王子に到着した。
 時計を見れば、もう約束の時間が近い。
 トイレの鏡で変なところはないかチェックし、待ち合わせに指定された場所へ向かう。
 駅近くだけど、少し人目がない店の前だ。
 これなら確かに、お互いを見つけやすい。
 服装とか一八〇センチメートル越えの身長は伝えてあるけど。
 似た人なんて、たくさんいるからな。
「ああ……。緊張して、口から心臓が飛び出そう」
 何度も、何度も何度もメッセージを交わしてきた。
 通話でも、何度も声で繋がってた相手なのに……。
 顔を合わせて直接会う距離になるだけで、こんなにも緊張するものなのか。
 初めてのオフ会に新鮮な気持ちと、見た目を気持ち悪いと思われないかな、とか……。
 不安で一杯の中――。
「――あの、七草兎さんですか?」
 僕のハンドルネームを呼ぶ声が聞こえた。
「え……。もしかして、波希マグロさん?」
「そうだよ! 初めまして! スマホで聞くより、声が少し低く聞こえるね?」
 ニコッと笑う、肩ぐらいまでで切った黒髪ボブカットの女性。
 確かに、ネットを介してるから、スマホで聞くときと声が少し違うのはある話だろう。
 でも――。
「――あなた、誰ですか?」
「え? だから、波希マグロだよ。もしかして、本名を聞いてる?」
「……もう一度、聞きます、あなたは――誰ですか?」
 ポケットからスマホを取りだし、いつでも警察へ電話できるように備える。
「な、なんでそんなことを聞くの? もしかして、彼女じゃない。もうお前なんか知らないって、言いに来たの?」
「なめないでください」
「……どういう、こと?」
 困惑したように尋ねてくる女性を、僕は威嚇するように睨みつける。
「声質は確かに、少し似てます。確かに僕は、波希マグロさんの見た目も、顔すらも知らない」
「だ、だから――」
「――でも、違う。発音の癖、息継ぎ、透き通る声がない。……彼女が長年、厳しいトレーニングの末に得たんだろうと感じる素晴らしい声とは、全くの別人です」
「…………」
 人の感情の機微とか、細々した様子を観察したり分析したりは得意なんだ。
 まして大好きな人となんて……。間違えるわけがないだろう!
 女性は少し、ポカンとした後――ハァと大きな溜息をついた。
「思ってたより、鋭い子だな。ただのお人好しなアホか、警戒心のないストーカーかと思ってたのに」
「……やっぱりか。どういうつもりですか? 彼女を騙るなんて。そもそも、なんで僕と彼女がした会話を」
 僕の言葉を遮るように、彼女は右手を上げた。
 殴られるかと身構えた僕の前に――黒塗りの大きなワゴン車が、凄い勢いで近付いてきた。
 キッと急停車すると
「おい、分かるな? 騒ぐんじゃねぇぞ」
「な、あなたは誰――ちょっ何を!?」
 僕の身長より更に高い。サングラスに金のネックレスを身に着けたスキンヘッドの男が、車から飛び降りてきて――僕の腕を掴んだ。
 抵抗したくても、力が強い!
 半袖シャツから、男の筋肉質で丸太のように太い腕が見える。
「ほら、早く乗りなよ」
「ちょ、まっ!」
 女性にも背中を押され、あっという間に車の後部座席に突き飛ばされる。
 慌ててドアを開けて出ようとしても、ドアロックをかけられたのか開かない!
「出すからな。暴れんじゃねぇぞ」
「はいはい、シートベルトするからさ。抵抗、しないで」
「……誰か、誰か!」
 黒いスモークがかけられた車の窓から外へ呼びかけても、誰も助けにきてくれる気配はない!
 スマホも女性に取られ、あっという間にシートベルトで固定されてしまった!
「暴れんじゃねぇって言ってんだろ!」
「大人しくしてないと……危ないかんね?」
「ぅ……」
 男の怒声と迫力。隣に座る女性の言葉に……恐怖で身体が震えだす。
 甘かった。
 オフ会の危険性を、甘く見てた。
 まさか、こんな目に遭うなんて……。
 車が走りだし、僕はどうにか逃げだす手段を考える。
 信号待ちの間に、何とか外に出られれば……。
 そうこう考えているうちに、車は高速道路に乗ったらしい。
 逃げだす機会が……。どこまで連れていかれるんだろう。
 ぐるぐる頭を巡らせて、なんとか逃げだす方法を考えるけど……。
 何も思い浮かばないまま、時間がすぎていく。
 命ぐらいは……助かるのかな。
 母さん、父さん……。本当に、ごめんなさい。
 波希マグロさん。君との約束を保留にしたまま死んじゃったら……ごめんね。
「あ、もしもし? はい、予定より早く進んでますよ。凄く鋭くて、前倒しになってしまいました。……ええ、凄く怯えて、後悔してる顔をしてますよ。はい、ご安心ください。必ず送り届けますから」
 隣で女性が誰かに通話をかけ始めた。
 僕を誰かに受け渡す、のか?
 向かっている方向、看板を見ると――茅ヶ崎ICと書いてある。
 地名は分からないけど、覚えておけば命が助かった時に助けを呼べるかもしれない……。
 電話先の誰かに受け渡されるときに、なんとか逃げだす方法を考えるしかない、か……。
「降りるぞ」
「はい、お疲れ様」
「……ここは、どこですか?」
「港だ」
 船で輸送されるパターン……。
 なんてことだ。ニュースやネットの都市伝説だと思ってた。
 海外に、僕を売り飛ばすってこと、か?
「ほらほら、降りて」
 ぐいぐい車から降りるよう促す女性。
 この力なら、振りほどいて逃げられるか?
 そう思ったけど、ドアの前に運転をしてきた男性がいて……。その手は使えないと悟った。
 もう本格的に、ダメかもしれない。
 結局、車から降りるなり人気がない堤防へと連れていかれる。
「……小僧。この景色を、どう思う?」
「……普段なら、凄く綺麗だと思うでしょうね」
「ふん。素性も定かじゃねぇネットの相手に誘われて、ここまできたことを後悔してるか?」
「……彼女を騙る人に気がつかなかったことを、反省してます」
 スキンヘッドの男が鼻で笑った。
 少し不機嫌そうだ。
「七草兎君さ……。波希マグロのことを、どう思ってんの?」
「……あなたたちは、波希マグロさんを知ってるんですか?」
「質問してんのはこっち」
「……彼女は、大好きで、笑顔にしたい人です」
 女性は厳しい目付きで僕を見つめ、尋問するような声音で聞いてきた。
「へぇ……。こんな怖い目に遭っても?」
「彼女は何一つ悪くない。悪いのは彼女を騙って悪さをする、あなたたちです。……それと、危機感と注意力が乏しかった僕が悪い。それだけです」
「ふぅん。……彼女と関わったから、こんな目に遭ったのに、か。次また理不尽な目に遭っても同じことが言えるんかな? もし彼女と二度と関わらないなら、見逃してあげるって言ったら、どうする?」
 言外に、波希マグロさんと関わるなら見逃さないと言ってるのか。
 正直、恐怖で身が震えるような思いだけど……。
「……僕は彼女に告白をした時に、宣言したんです。彼女の笑顔のために何でもする。どんな問題も一緒に乗り越えるって。次があるかは、この危機的状況とか彼女との関係から分からないですけど……」
 別れないか提案されて保留の関係、連絡すらつかない状況だけど……。
 別れてない以上は――僕にとって何より大切な、彼女だ。
「もし次があるなら、必ず同じことを言います。両親が教えてくれたように、もっと安全に注意しながら彼女が笑えるよう、一緒に問題を解決して……。離れろ、関わるなと彼女に本心から願われれば、離れて陰から幸せを祈りますよ」
 この状況で何を言ってるのかと思うけど……。
 母さんから教えられたように、最後まで自分のやりたいことを貫く。
 何より、大好きな彼女を裏切ることなんてできない。
 我が身可愛さに彼女を裏切ったら、一生後悔して生きていくことになる。
 そんなのは、絶対に御免だ。
「ふぅん。……だってさ、どう思う?」
 女性が厳つい男性に問いかけると、男性は腕組みをしながら口元を歪めた。
 明らかに不機嫌そうで……。これから船に乗せられて売られるか、海に沈められるのか。
 最悪の展開が脳内に浮かんでしまう。
「……チッ。肝の据わったガキだ」
「つまり一次試験は突破ってことでいいね? 私も同じ意見だわ」
 試験?
 何のことだ?
「今更だけど、私はこういう人間だから」
「……名刺?」
 女性が胸元から取りだした用紙を手に取ると、そこには会社名や名前、連絡先が書かれていた。
 名前は……白浜、凪咲?
 白浜って……。
「つまり……犯人である男は、お父さん?」
「そ、パパの保険証の写真を送ったのも私」
「家族ぐるみの犯行、ですか」
「言っとくけど、妹は関わってないよ? ママは留守番だし」
 犯罪一家でも、一番末の子供は巻き込まないで真っ当な道を歩ませたいってことか。
 今更、僕にそんな紹介をしてどうするんだ?
「まさか、この会社は海外で人を働かせる会社で、あなたは仲介人とかですか?」
「なんでそうなる。情報管理部って書いてあるでしょ。普通の製薬会社勤務だっての」
「は? だって、僕を誘拐して港に連れてきたじゃないですか」
「人聞きが悪い。人気のないところで話がしたかっただけだよ」
 え。……え?
 じゃあ、犯罪事件じゃないの?
 なんだ……。よかった。
 安心して、急に力が抜けてきた。
「あの、そちらの……白浜真一さんの、ご職業は?」
「俺は建設会社で役員をやってる」
「こんな役員がいてたまるか」
「あ?」
 失言だった。
 解放感からか、本音が口をついて出てしまった。
「あははっ。パパは見た目がねぇ……」
「……好きな格好をしてるだけだ。趣味で総合格闘技をやってれば、こんぐらいの身体になる」
 好きな格好をするのはいいけど、怖いって。
「凪咲さんも、車の中で『大人しくしてないと危ないことになる』って、僕を脅してきましたよね?」
「ん? 私は車の中で暴れると危ないよって、注意をしてあげただけじゃん」
「あの状況では別のニュアンスに聞こえるんですよ」
「それは晴翔君の受け方の問題で、私の問題じゃないな」
 もう、何がなんだか分からない。
 安心して一気に気が抜けたかと思えば、会話が通じないし……。
「でも……そうだなぁ。注意喚起は込めてたよ」
「注意喚起?」
「そう。――ネットで知り合った人と会うってのを、軽く考えるなってさ」
 それは……。
 確かに、そうだったのかもしれない。
「実際、本当にこれが事件でもおかしくなかった。そうだったら晴翔君がどうなるか……分かる?」
「……はい。車に乗せられて、港に連れてこられて……。正直、終わったと思ってました」
「港は話しやすいから、俺が選んだ。漢が腹割って話すなら、港だろ」
 お父さんは、いつの時代の人なんだ?
 注意喚起というか、恐怖感を抱くには十分だったけどさ……。
「はい、これ」
 凪咲さんのスマホを渡される。
 登録名は――母さん!?
「も、もしもし!?」
『晴翔、無事だったみたいね』
「な、なんで……。凪咲さんのスマホに、母さんが登録されてるの? 知り合い?」
『あんたが会うって言うから、父さんと先に話をつけてきてたのよ。保護者同士でね。連絡先の書かれた写真、もらったでしょう? あれで連絡をしたのよ』
 まさか、僕の両親も共謀してたとは……。
 それだけネットで会うことに注意喚起をしようと思ったのか。
 これも社会勉強ってこと、なのか?
「はぁ……。勉強になったよ」
『言っておくけど、あんたがやりたいことを貫くためだからね? そのために急遽、予定を合わせて保護者同士、中間地点辺りのカフェで顔合わせまでして……。信用できるか互いに見定めたんだから』
「やり方が僕の親らしいな~って思うよ……」
『あんたは騙されやすいからね。……こっからは、あんたが乗り越えな。得がたい経験をして、成長して帰ってきなさい。GPSは常に見てるからね』
 そう告げて、母さんは通話を切った。
 白浜家の人たちを信用はしたけど、無警戒じゃないのが両親らしい。
「悪く思わないでね。晴翔君のことは妹から聞いてたけど、信用できるか私たちも見定めたかったの」
「妹……。波希マグロさんの、お姉さんとお父さん!?」
「今更? よっぽど怖くて状況判断ができなかったんだねぇ。よしよし」
 背伸びして頭を撫でないでほしい。あなたたちと、両親の教育のお陰だろうが。
 さり気なく七草兎じゃなくて本名の晴翔君とか呼んでるのは、僕の両親から聞いたのか?
「そんでねぇ……。一次試験を突破した晴翔君には、見てほしいものがあるんだ」
「見てほしい、もの?」
「そ。……胸くそが悪くなる動画。現時点、ネットからの出会いとか関係なく、妹を本気で好きって判断したから見せる秘密の動画、だよ」
 そう言って凪咲さんは、スマホを操作する。
 苦々しい顔を浮かべた後、こちらへスマホを手渡してきた。
 ディスプレイを見ると、そこには――中学生らしい制服を着た女の子が三人、映っていた。
 ビリビリに破かれた台本が床に散乱し、一人の女の子が蹲って下を向いてる。
『調子乗りすぎたね~。どんな気分? これであんたは、今度のスクール内公演まで台本も見られず演じないといけないわけだ。まさか、台本をなくしましたなんて言えないよねぇ』
『天才様なら、いけるっしょ? それとも無理? ねぇねぇ。努力しても伸びない凡人から見下されてどんな気分? いつもと立場が逆転して、ねぇどんな気分?』
『ちょっと、あんま煽ってやんなよ~。泣いたら可哀想だろ? イジメ、絶対ダメ。反対っ!』
『台本破った本人が言っても説得力ないっしょ。ギャハハハッ!』
 この一瞬だけで、凄くイライラしてきた。
 俯いて顔も見えない、ロングヘアーの女の子は……。
 床に散乱した台本の切れ端を一生懸命に集めてる。
 なんて健気なんだ……。
『はん、無駄だっての!』
 せっせと集めていた紙の山を――手ごと、蹴飛ばした。
『あ~あ。あんたの持ってるゴミが散らかっちゃった。捨てておいてやるから感謝しろよな?』
『じゃあね。言っておくけど、これをバラしたら……分かるよね? ばいば~い』
 そう言って、台本の切れ端を片手に持って去る女の子――イジメっ子たち。
 そうして蹲る彼女にカメラが近付いていき――画面が隠れた。
『大丈夫? 助けられなくて、ごめんね……』
『……ううん。私なら、大丈夫だから』
 ドクンと、声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
 これは……。顔も見えないイジメられてた子は、波希マグロさん?
 音声だけしか分からない動画でも……。声だけで分かる。僕には、分かる。
『こんなの、巻き込まれたくないよね。声かけてくれて、ありがとう』
『ごめん……。本当に、ごめんね』
『ううん。恨まれてる自覚、あるから。それより台本、集めないと……』
『あの……。予備としてコピーしたものなら私、持ってるよ? あの子たちに秘密にしてくれるなら、あげるから』
 ああ……。ちゃんと救いはあった。
 後から証拠になるように陰から動画を撮影して、波希マグロさんの演技を応援してくれる子はいたんだ。よかった、よかった……。
『……いいの? 本当に?』
『うん。これぐらい、させてほしい。そうじゃないと、罪悪感が……』
『罪悪感なんて、感じないで。……ありがとう。本当に、ありがとうね』
 ああ、波希マグロさんの声が潤んでる。
 僕と通話した時みたいに、あからさまに泣いてはいない……。
 それでも、感動した。
 ドラマみたいに己を顧みずに、助けに入る格好いい展開は――現実では、厳しい。
 誰もが、学校とか社会での立場とか、人間関係のバランスとか……。大切なものを抱えてるから。
 それでも、苦しい時に手を差し伸べる人がいるだけで、違うよね。
 いじめっ子たちには、報いを受けて欲しいけどさ。
「……はい、次はこっちの動画」
「凪咲さん? これは……演劇の舞台裏、ですか?」
 苦虫を噛み潰したような表情で、凪咲さんがディスプレイに置いた指を左にスッと動かす。
 すると、またしても後ろ姿の……。波希マグロさんらしき人が、衣装姿で立ちつくしていた。
『ねぇ、改めて聞くね? 今、どんな気分?』
『ねぇねぇ、いつも独占してた最優秀演者を私に取られて、自分は最低評価で劇をブチ壊したのは、どんな気分なのかなぁ?』
 は?
 イジメっ子たちの言ってる意味が分からない。
 すると、背後から撮影してたカメラが近付き――。
『――私から受け取った台本通り演じてくれて、ありがとね。信じてくれて、嬉しいよ』
 え?
 あの、救いの手を差し伸べた子?
『ごめんね、でも調子に乗りすぎたんだよ? 先生たちに媚を売って、毎回望む役を持ってってさ。絶妙だったでしょ。私が少しだけ作り替えた台本は』
『最高だったよ! あからさまじゃないように、衣装チェンジやら舞台チェンジのタイミングとかイジってさ!』
『いや~裏の最優秀演者は、あんただわ! 天才様を騙せちゃう演技、凄いよ!』
 そこで、お父さんがスマホを奪った。
 今にも握り潰さんぐらい、手が震えてる。
 これは……僕でも怒る。
 まさか、コピー台本を渡してくれた子も、グルだったなんて。
 波希マグロさんを貶めるために、味方になった振りをしてたなんて……。
 裏切られた波希マグロさんが、どれだけ傷付くか……。
 中学生なら、もう分かるだろ!?
「これは今年の春……。二月末の出来事。……この一件以降、妹は家から出られなくなった。人の顔を見られるのも、家族だけ」
「……なんで、この動画を持ってるんですか?」
「私たちの前で泣いてる妹のトークアプリに一瞬、送られてきたのを保存した。既読になってすぐ送信取り消しして、煽るメッセージだけ送ってきたけどさ。間一髪だったよ。……幼稚で、陰湿すぎるね」
 情報管理部勤務としての力か、怒りながらも冷静だったのかは分からない。 
 これだけの証拠があれば、ちゃんと訴えれば相手に相応の報いを受けさせられそうだけど……。
「その、スクールに訴えたりとかは?」
「……妹がね、嫌がったの。大きな騒ぎを起こすと、演技者としての道が断たれちゃうって」
「そんな! イジメたのは、あっちですよ!?」
 波希マグロさんは被害者じゃないか!?
 なんで夢への道が断たれなければいけないんだ!
「私も業界関係の知人に聞いてみたんよ。……あっちの方が致命的だけど、そういう問題を起こす子なんだって見られると、ね。事務所にも所属しづらくなる可能性はある。それは事実だってさ……」
「そんな……」
 自分に適正があって、本当に進みたい道を見つけるだけでも大変なのに……。
 必死に歩んだ後でも、こんなにも理不尽な目に遭うだなんて……。
 それを耐えなきゃいけないってのか?
「オーディションの度に、この証拠動画を審査員に見せるわけにもいかないでしょ? 事前に伝わるのは問題を起こして退所させられた子と、退所させた子って簡単な経歴。あとは尾ヒレがどうつくか分からない、噂話だけ。……悔しいんだよ、私らだってさ」
 凪咲さんは、歯を食いしばってる。
 本当は公にして、報いを受けさせたいって気持ちが痛いほどに伝わってきた。
 お父さんも、腕組みをした手の指が……腕にめり込んでる。
「晴翔君のことはさ、妹から聞いてたんよ。ずっと、ずっと」
 僕と付き合ってから、だろうか。
 それとも……。初めて一緒に生声劇をした時からだろうか。
「妹はね、晴翔君と出会ってから凄く楽しそうな顔に戻って……。晴翔君と付き合ってから、今までで一番幸せそうで、今までで一番、悲しそうな顔をしてた」
 そう、か……。
 君が僕と付き合ってから、情緒不安定だった理由が分かってきたよ……。
 全てじゃないんだろうけど、これが君の抱えてた問題ってやつなんだね?
「だからさ――これまで、ありがとう。こんな問題、予想してなかったでしょ? 幻滅したんじゃない? 晴翔君まで巻き込めないし、顔も合わせられない妹と付き合ってても、晴翔君の青春時代を無駄にする。……妹がこれ以上、好きな人の期待に応えられないって苦しむの、姉として見たくないんよ」
「……だから、僕から別れを告げろって、ことですか?」
「そう、分かってんじゃん」
「…………」
 僕だって、彼女が苦しむ姿なんて見たくない。
 彼女と声で繋がり、彼女の美しい声に励まされ、彼女の喜ぶ声で夢への道を探す活力をもらったんだから。
 でも――僕から別れろなんて話、頷けるわけがないじゃないか。
「……まさか、晴翔君に何とかできる問題だと思うわけ? お医者さんでも、時間をかけるしかないって言ってるのに」
「何とかできる問題かは、分かりません」
「……じゃあ――」
「――でも、彼女と一緒に、彼女が抱える問題を悩みたいんです」
 僕は、彼女に恩を感じてると同時に……。
 何十億って人間がネットの海で交差する君と同じ気持ちで結ばれたことに、特別を感じてる。
 運命の赤い糸とか信じちゃうぐらい、君が大好きなんだから。
 彼女の抱えてる問題を少しでも見た今、幻滅どころか――それでも大好きな劇に関わろうとしてた姿に、もっと恋心が強くなってるよ。
「……もう一度だけ、聞くよ? たかがネットで出会った関係の人に、何を言ってるの? 声アプリの繋がりだけでしょ。代わりの人なんて、それこそネットにいくらでもいるでしょ?」
 付き合いの浅いネット。
 切ろうと思えば、いつでも切れてしまう繋がりだなんて……。
 彼女と連絡がつかなくなったことで、身に染みて分かったよ。
 それは分かってるけど――。
「――彼女の代わりなんて、この世にいません。僕にとっての波希マグロさんは、声だけの繋がりじゃないんです。大恩人で、僕を救って一緒に将来へ続く道を考えてくれる、唯一無二の大切な人です」
 繋がれば、情は湧く。
 たとえ繋がりが切れても、既にできた情は消えない。
 思い出は、消えないんだ。
「あの子にはさ、もう裏切られない強い繋がりが必要なんだよ。……ネットの浅い繋がりに入れ込むなんて、脆くて見てられないの」
「僕は裏切りません。正直、彼女の問題をどうにかできるかは、分からない」
「…………」
「それでも、覚悟はあります。彼女と一緒に問題を抱え、青春の全てを捧げ、一緒に道を探す覚悟が」
 凪咲さんは、値踏みするように僕の瞳を見つめてくる。
 僕も、目線は逸らさない。
 絶対に譲れない、譲りたくない。
「ふぅ……。凄いね、晴翔君は」
「根性と行動力だけは褒められます。あと、諦めの悪さ……ですかね?」
 夢に関わる分野に適性がなくても、諦めずに関係する職種への道を探り続ける諦めの悪さとか、ね。
「パパ、どう?」
「ふん……。車に乗れ」
「え?」
「ほら、行こう?」
 お父さんは運転席に向かって歩き、お姉さんは僕の背を押して後部座席へ乗るよう促してくる。
 行くって、どこにだ?
「文句なしで二次試験も突破だね、これは。――妹に、会いに行こう」
 波希マグロさんと……本当に会える?
 その言葉に喜ぶと同時に、気を引き締めた――。
 早く着け、早く着け、と。
 港に連れてこられる時とは、同じような距離なのに全く体感時間が違う思いを感じる。
 遂に一軒家の駐車場で車が停まった。
 どこにでもあるような、普通の家。
 この家の中に……波希マグロさんがいる。
 ネットで出会った時は、本当に存在するのかさえ分からなかった。
 通話をしてても、素性なんて分からない繋がり。
 そんな彼女と、遂に手を伸ばせば届きそうな距離にまで――繋がった。
「二階の一番奥の部屋だから、行ってきなよ」
 玄関で靴を脱ぎ終えた僕に、お姉さんは優しく言う。
 お父さんはサングラスをかけたまま、階段の横で仁王立ちしてる。
 圧力が凄いけど、僕の足は興奮で……勝手に動く。
 一歩一歩、彼女に近付いている床を踏みしめながら――扉の前に立つ。
 トントンとノックをすると――。
『――誰? お姉ちゃん?』
 ああ……。
 涙が溢れそうになる。
 この声音。扉に遮られてても、間違いない。
 波希マグロさんだ。
『……ごめんね、今は一人にして』
 沈んだ声で……。彼女の声が聞こえてくる。
 声なんて、鼓膜を揺らして脳に情報を届ける音の波でしかないはずなのに……。
「僕だよ、波希マグロさん」
『……え』
「七草兎です」
『な、なんで!? どうして、ここにいるの!? あ、ドア、鍵しないと!』
 ガタンと、部屋の中から大きな物音が響いた。
 人間がベッドとか、椅子から落ちるような。
「声って不思議だよね。人の感情を、こんなにも揺さぶるんだからさ」
 僕たちの距離は、扉越しに魔法のような音を交わし合えるぐらいになった。
 涙が溢れ出そうな気持ちを整えよう。
「この扉を開けようとはしないからさ、まずは落ち着いてね?」
 そうして彼女が落ち着く音が聞こえるまで、僕は扉に背を預け続けた――。