小学校の時に、糸電話というものを作ったことがある。
 穴の空いた紙コップ同士に糸を繋げて、少し遠い相手と言葉を交わすことができる道具だった。
 昔はそれで遠い距離にいる人と連絡を取り合ったりしたらしいけど、今は違う。
 スマホとかパソコンにインターネットがあれば、顔も見えない遠くにいる人と深く関われる。
 メッセージとか、直接声を繋いで共通の趣味を楽しんだりとか。
 だからこそ、問題もたくさん起きやすい。
 今、ネットでたくさんの人が繋がる空間が重い雰囲気になってるのは――僕のせいだ。
「一緒に演じてくださり、ありがとうございました! 最後まで聞いてくださった皆様も、ありがとうございました!」
『あ、お疲れ様でした! ……えっと、七草兎さん』
「ありがとうございます! 楽しかったです!」
『そう、ですね。元気と一生懸命さが伝わってくる演技でしたね。声だけの劇だからこそ、声からはその人柄が伝わってくると言いますか……』
 折角の生声劇が終演したばかりなのに……。
 コメント欄が同情溢れる言葉になってるのは……間違いなく、僕のせいだ。
 それでも――視聴者が見てくれてる間は絶対に、辛いなんて言っちゃいけない。まだ、ダメだ。
 生声劇や演技動画の投稿を楽しめるスマホアプリ。
 そこで生声劇のコラボ者を募集していた方が、言葉を選ぶようにそう言ってくれた。
 僕に気を遣っているのは、よく分かる。
 昔から、人の感情の機微に敏感だと通知表にも書かれてたから。
 高校から帰ってきて、アルバイトに行くまでに練習も兼ねてと思ったけど……。
 下手くそな自分が、悔しくて堪らない。
 机に置かれている『実力判定証、春日晴翔殿』と書かれた、グラフ付きで演技力を評価してもらった用紙が目に入る。評価は、最低のFランク。来期も基礎クラスが確定だ。
 小学校五年生の春から高校二年生になった今まで、六年間も真面目に通ってるのに……。
 高校に入ってからは少人数クラスじゃなく個人レッスンのスクールを受講してるのにな……。
 努力の実らなさに胸が痛くなり、スマホに視線を戻す。
 コメント欄には『七草兎さん、頑張れ』、『まぁ演技の基本は楽しむことだから!』、『絵が上手いし何ごとも一生懸命なんだね』などと、優しいリスナーの皆様の励ましがポツポツと流れていた。
 ジワリと涙が滲むのを、グッと唇を噛んで耐える。
 ダメだ、弱気になるな。折角の生声劇の場で、空気を悪くしてはいけない。
 一緒にコラボしてくださった人にも、最後まで聞いてくれたリスナーさんにも……失礼だ。
 生声劇後のアフタートークが終わるまで、キチンと明るくしないと。
 閉幕するまでが、劇なんだから……。劇は、お芝居は人を楽しませる為にあるんだから。
「今回はありがとうございました! よかったら、また生声劇や録音動画でコラボしましょう!」
『あ、はい。また機会があったらお願いします。それでは皆さん、ありがとうございました~』
 コラボ者様は、そう言って劇を終了にした。
 すかさずフレンド申請を送るが――フレンドフォローは、今回も返ってこない。
 消化不良……いや、このまま終わるのは悔しすぎる。
 小学校四年生の時、クラスで話題になってたアニメや舞台を見て……。アニメや演劇関連の仕事に憧れた初心を思い出そう。
 ヌルヌルと動く作画、綺麗なアニメーション。
 そして映像に魂を吹き込み、聞いてると鳥肌が立つほど魅了される声の演技。
 舞台の上から、キャラクターが憑依したように観客まで虜にする演技。
 アニメーターや声優、俳優みたいな小学生でも聞いたことのある仕事に就きたいと思って……。
 親に頼み込み、後で全部のお金を返す条件で声優とイラストのスクールに通わせてもらった。
 動画や音声編集も、SNSでの企画に頼み込んで経験を積ませてもらった。
 機材だって、揃えてもらった。帳簿だって、調べて自分でつけてる。
 将来のために、こういうお金の知識を学ぶのも必要だっていうから。
 実際、アルバイトして自分で借りするようになってからは、とても大切だなと思いはじめた。
「イラストの方はな……」
 イラストに関しては長年かけても、アマチュアとしてそこそこ。
 中学校まで通っていたスクールで学んだ基礎と、有料講義や動画サイトを見ながら液晶タブレットで描いて描いて描きまくった。
 そのイラストをSNSに投稿して……。今ではフォロワー数も、そこそこだ。
 パッと目に入るイラストは、フォロワー数が少ない人向けのタグをつけて投稿すると、それなりの人に見てもらえる。
 とはいえ、アニメーターやイラストレーターになれる程の画力や速度、フォロワー数でもない。
「イラストもだけど、声もな……。そもそも再生ボタンを押してもらうところまで、いかないからなぁ……」
 声活動用のアカウントとのフォロワー数の差に、気持ちが落ちる。
 声活動アプリをイジっていると、生声劇とは違うページに移った。
 数十秒程度の短い掛け合い声劇台本で、コラボ者を募るショート動画が投稿されてるページをみてみる。
 そこのトップには、コラボ数が百を超える有名演者さんの名前があった。
「波希マグロさん……。さすがだな」
 登録日は最近なのに、あっという間にトップになった女性役者のアカウント……。
 下手くそな僕がコラボ動画を投稿しようなんて……。身の程知らず、だよな?
 そうとは思いつつも、好奇心には勝てない。
 自分がやりたいことをやれ。両親の教えが頭の中で聞こえる気がするよ。
 それに、声優スクールの先生からも根性と行動力だけは褒められる。
 数少ない特技すら失ってたまるか!
 試しに彼女の素晴らしい美声の演技に合わせ、僕も台本を見ながら掛け合いで録音をしてみる。
 脳の奥まで幸せで震えそうなぐらい素晴らしい声に、劇の世界に引き込まれるような演技力。
 そこに食らいつくように、僕も録音をして――。
「――これは、ひどい……」
 演技の上手い波希マグロさんと並べると、あまりに際立つ自分の下手さ。
 棒読みどころじゃない。感情だけが暴走して、声の抑揚も表現力もなにもない。
 滑らかにスッと耳から心に響く波希マグロさんと比較すると、自分の演技は凄く不自然でイントネーションも滅茶苦茶だ。
 それでも言葉をしっかり伝えようとしてるから、とにかく読むスピードが遅くて声だけ大きい。
 これは発声や滑舌から鍛える基礎クラス評価も、当然だよね……。
「……下手なんて、今更か。将来の自分に上手くなれって戒めも込めて、投稿しよう」
 波希マグロさんの演技と釣り合わないのなんて、理解してる。
 それでも、百を超える波希マグロさんへのコラボ動画に一つ……下手な演技を交えても、いいだろう。
 波希マグロさんの投稿動画コメント欄に『心を揺り動かされる本当に素敵な演技に魅了されました。コラボ、失礼しました』と挨拶コメントを書き込む。
 どうせ、コメントも返ってこないだろうけどね。
 百を超える動画の中、下手くそで繋がりもない僕からのコメントやコラボ動画なんて聞いてくれもしないだろう。下手なの含め全部聞いてたら、それこそ日が暮れるよ……。
 それでも今の自分の演技を消すんじゃなくて、この惨めさを未来の自分の糧にすれば……。
 いつか、上手くなれるかな?
 高校の演劇部でも、一年間ずっと裏方仕事だけで悔しかったし……。
 まぁ、僕が端役すら演じさせてもらえないのも、当然か。
 バイトに行くため、身形を整える。
 姿見に、一八〇センチメートルを超える細身で薄い顔の男が映った。
「……この身長で演技が下手とか、悪い意味で目立って仕方ないよね」
 主役級に目立つ身長とスタイルで、演技が自分でも引くほどに下手。そんなの舞台を壊すレベルだ。
 当然、演劇部では邪魔者扱い。
 イラストも、中途半端。
 何もかもが……努力をしてきても、何かが足りない。というか、全然足りない。
「……泣いちゃダメだ。絶望して泣いても、上手くならない。よし、前を向いて頑張れよ、僕!」
 先生からも唯一褒められるけど、根性と行動力だけは負けない!
 この長所を伸ばして、結果に繋げよう!
 鑑の前で笑顔をつくれ。そう、これだこれ。
 スクール費用を稼ぐためにも、ファミリーレストランのアルバイトは欠かせない!
 道中の景色を目に焼き付けて、イラストに活かすぞ。
 接客業で人を観察して、元気な声で接客をして……。滑舌や発声も鍛え続けるんだ――。
 
 アルバイトから帰って来て、スケジュール通り声のレッスンとイラスト練習をした翌朝。
 まだ温かいとはいえない愛知県の春、僕は春日井市の駅から電車に揺られ登校した。
 授業を受けながらも、脳内では別のことを考えている。
 どうすれば演技力がつくのか。
 イラストを描く力が上がるのか。
 背景まで書き込みたいから、一枚で三週間から一ヶ月はかかるペース。
 好きに描いてこれだから、依頼を受けラフ画を修正してだと、もっとかかるだろうな。
 これじゃ、プロとして食べていくには厳しすぎる。
 イラストにせよ、声優にせよ。あるいはアニメや演劇に関わる他のどんな仕事にせよ。
 まだ学生の間に、夢へ向かって今できる全力を尽くしたい。
 自分がアニメ関連のどんな仕事に向いているかは分からないけど……。
 第一希望の声優が、狭き門なのは知っている。分かってる。
 声優志望者は専門学校やスクールを出た人だけで毎年三万人を超えてて、合計すると三十万人から五十万人いると言われてるしね。
 その中で声優の仕事だけで食べて行けるのは三百人ともいわれてるらしいから、兼業でも構わない。
 僕に卓越した声優としての才能がないのは、もう分かってる。
 でも夢を持って向仕事ができるなら、それでいい。
 他にもアニメーターや音響、動画制作など……。どんな仕事だろうと、アニメ関連で働いて食っていけるなら、それで全力を尽くす覚悟はある。
 今の所、どれもプロとして食べて行ける道が見つからず――こうして、悩んでるだけだ。
 アニメ関連職の道を模索した結果どの分野に適性を感じたとしても、他の関連職へ本気になった経験は活きるはず。多分、だけど……。
 そうでなくとも、どの職が向いているか、本当に全てを費やして進みたいのか。
 一度は本気になって取り組まなければ、分からないと思う。夢に向かって突き進むにしても『本当に向いてる職業なのか?』と疑問を抱いてたら、迷いなく全身全霊では突き進めないだろう。
 授業を聞きつつ将来について考えていると、あっという間に放課後だ。
 部活の時間がやってきた。
 演劇部の部室に急ぎ向かい、新入生である一年生より早く掃除と準備を始める。
「あ、春日先輩。こんにちは! そんな、準備とかなら俺らがやりますよ!?」
「大丈夫だよ。一年生は、まだ慣れてないでしょ? 台本読んだり、声出しの準備してて」
 入学式から、まだ一ヶ月ぐらい。
 正式に入部して間もない一年生が慌てて手伝ってくれようとするけど、それは止めた。
 今年の一年生は、演技力がある。
 三年生の先輩とか僕の同級生も、後輩に期待してるのが見ていて分かった。
 だから、こんな些事でエネルギーを使わせたくない。
 僕は体力がありあまってるし、部活が始まっても基礎練習や道具作りだけ。
 本読みとか、新しい台本作りには関わらせてもらえないだろうしね。
 ただでさえ、人数が多い演劇部なんだ。
 一年生で舞台へ立つチャンスがあるのに、無駄にさせたくない。
「……先輩、そんなに人へ尽くしてばかりで、疲れませんか?」
「ん? 疲れないよ。やりたいことを、やりたいようにしてるんだしね。今の僕は、こういう方向でしか部の役に立てないから」
「それだけ人の顔色を見て、こっちの気持ちを察してくれるのに……。なんで、演技が」
「それは言わないでよ」
 苦笑して言うと、後輩は慌てて「すいませんでした」と頭を下げた。
 良い子だなぁ……。
 悔しそうな表情から、僕が下手くそで部に居場所がないことを一緒に辛く思ってくれてるって分かる。
「春日先輩って、絶対にモテますよね」
「急に何? モテないよ」
「いや、嘘ですよ。その高身長、言わなくても動いてくれる気遣い、綺麗な薄い塩顔。モテの三Kが揃ってるじゃないですか」
「そんな三K、初めて聞いたよ? 顔だけじゃなくて存在も薄いし、いい人止まりかな。……話すと残念。時々暑苦しいって言われたこともあるね」
 悲しいけど、最初は親しく話しかけてくれる女の子も、話してる間に便利屋として扱ってくるんだ。
 う……。財布にされたり、辛い時に使われるだけ使われ、憂さ晴らしにされた記憶が蘇ってきた。
 飾りみたいな感謝の言葉で、こちらが頼ろうとすれば、あからさまに面倒くさそうにされる。
 対等な関係なんて、どこにもないだろとか……。僕も歪んだなぁ。
 頼られるという名の、遠慮なく利用される日々。
 お陰で恋なんて分からずに、もう高校二年生だ。まぁ夢を追ってるから、いいけどさ。
「あ~……いい人止まり、ですか。なるほど」
 なるほどは失礼じゃないかな?
 素直な後輩だ。お返しに軽く背中を叩き、お互いに笑いながら準備をしていく。
 練習が始まると居場所がなくなるから、この準備や掃除の時間が僕には楽しい。
 そうして徐々に人が集まり、部活が始まった。
「よし、今日も定期公演に向けて練習するぞ。各々、役割通りに動け」
 部長の声に、部員達は動き始める。
 基本的に部員達のほとんどが裏方だけじゃなく、少しでも役があるようにと役振りをされてる。
 でも……僕には、それがない。
 ちょい役にしては目立ちすぎる身長と、演技力のなさが原因だけど……。
 やっぱり、少し寂しいな。二年生で台本すら渡されてないのは、僕だけだ。
 誰かの台本を見せてもらいながら、必要な舞台道具の準備。
 そして定期公演とは無関係の基礎練をするのが、僕の役割だとは分かってる。
 公演当日にいたっては、舞台装置の移動しかやることが与えられてないからね。
 照明も、音響も、役をやってる人間が兼ねてやる時があるのに……。
 終始空いている僕に専属で任せようとならないのが、また辛い。
 どれだけ部長の目に僕が映っていないか、よく分かるなぁ。
 まぁ、不貞腐れてても前には進めない。
 僕に今できることを、全力でやろう。その先に、いい未来があるかもしれない。
 そうやって自分を励まして基礎練習をしてると、ちょっと違和感に気がついた。
 美術……大道具と小道具をメインで担当する部員が、ここ数日いない?
 ペンキや大工道具、裁縫道具を手に作業する部員を見ると、心なしか焦ってる気がする。
「あの……。進捗、大丈夫ですか?」
「春日君。いや……実は手が足りなくて。結構、スケジュールより遅れてる」
 やっぱりか。
 作業中だった女性の先輩へ僕が「手伝います」と言うより先に、こちらの様子に気がついたのか
「おい、美術担当が少ないぞ。作業、遅れてるんじゃないか?」
 部長の目線がこちらに向き、作業状況を見て厳めしい顔を浮かべた。
 決して悪い先輩じゃないんだけど、部長は演劇を愛して全力だからなぁ。
 このままじゃ部内で問題が大きくなるかもしれない。
 後輩へ声をかける流れになったら、次の上演作ではセリフの多い役をもらえるようにと頑張って練習してるのに駆り出されるかも……。
 それは、ちょっと嫌だ。だったら――。
「――あ、あの! 部長、僕が手伝いますので!」
「春日、か。……分かった。よし、春日のサポートをしながら進めてくれ。どうしても厳しければ、俺もそっちに回るから」
 そう言うと部長は、メイン級の配役をもらっている部員の方へ歩いていった。
 部長は監督役もしてるから、大変だなぁ……。
「ありがとうね、春日君。助かった。正直、猫の手でも借りたかったから」
 猫の手で申し訳ない。正直、にゃんと鳴いて癒やされる分、猫の方が皆の役に……。
 いや、それを考えたら辛くなるなぁ。
 こうして周りに尽くしても、演劇部内での評価は変わらないかもだけど……。
 それでも、僕のできる限りを尽くそう!
 本当は僕だって、演技がしたい。
 劇の中心を担う役割をしたい。
 でも実力不足なのに身勝手な願いばっかり言ってても、仕方ないからな……。
 せめて適正の役割を見つけて認めてもらえるよう、前向きかつ一所懸命に頑張るしかない!
 苦笑しながら手を動かしていると、周りからヒソヒソと声が聞こえてきた。
「春日君、可哀想にね。演劇部なのに、演技してるとこほとんど見たことないよ」
「まぁ……可哀想だけど、仕方ねぇよ。舞台で目立つ、あんなルックスで演技力がないんじゃさ」
「こっからか。……実際、足りないところにあちこち動いてくれて助かってるけど、やっぱ可哀想だな」
 う……。先輩たちの同情の声が、聞こえてしまった。
 無駄に耳がいいのも、困りものだ。……惨め、だなぁ。
 声って本当に、人の感情を揺さぶる。
 こうやって悪い方向にも、波希マグロさんの演技のように、良い方向にも。
 声とか言葉って、まるで魔法みたいに不思議な力があるよな……。
「……先輩。裏方がいるから、俺らが演技できるんじゃないっすか」
「お、おう。まぁ武内の言う通りなんだけどさ」
 同級生の武内君が、苦笑しながら先輩たちに声をかけた。
「この状況でも辞めないで自分のできることを探す晴翔に感謝しましょう。そんで俺たちは、俺たちのやるべきことをやりましょうよ。舞台上で演技をするだけが劇じゃないんっすよね?」
「武内の言う通りだ。お前ら、裏方に感謝する気持ちを忘れるな。全体で劇を魅せるんだからな」
 部長の言葉に、噂話も終わった。
 武内君、さすがだなぁ~。
 二年生なのにメインの役を連続で取って、次期部長って噂されてるのも納得だよ。
 心の中で武内君に感謝しつつ、今日も基礎練習と裏方仕事だけの部活が終わった。
 部活内での扱いに惨めさを感じる毎日だけど……。
 今、辞めようとは思わない。
 やっぱり僕は演劇部で、間近に演技を見ながら演出技術とかも学びたい。
 それが将来のアニメ関連職の夢にも繋がる経験だと思うから、少なくとも逃げるようには辞めたくないんだ。
 才のなさに悲観して逃げても、他にやりたい夢やら目標があるわけでもないし……。
 痛む胸、切ない心に「将来のためだから」と言い聞かせ、家までの道を足早に進む。
 基礎練習で声が出やすい状態が薄れないよう、急ぎ家に帰ってきた。
 アルバイトまでにアプリで生声劇を一本でもと思い、声劇アプリを開いて――驚愕した。
 通知画面に、波希マグロさんからコメントが来てる?
 トップ演者の、有名な波希マグロさんから、この僕に!?
「もも、もしかして! あのコラボ動画への返事!? うわ、どうしよ! 下手な演技で汚しやがってとか、怒ってるのかも!?」
 声が上擦り、手が震える。
 それだけ、有名人からのコメントなんて衝撃的なものなんだ。
 ましてや、憧れの波希マグロさんからだなんて!
 震える指先でディスプレイをタップして、コメントを開くと――。
「……『コラボありがとうございます。元気な声で私まで前向きになる素敵な演技でした』。……って、ええ!? あの動画を聞いてくれた!? もしかして、褒めてもらえた!?」
 ど、どうしよう。もの凄く嬉しい。
 思わずスクショを撮っちゃった! というか、コメントを返すべきかな!?
 挨拶をしたから、義理として返事をしてくれただけかもしれない。
 ババっと波希マグロさんにコラボをした他の人へのコメントを見ると、色んな人に『ありがとうございました』と言ってる。
 やっぱり自分だけじゃないんだなって若干残念に思うけど、少し褒めるニュアンスが他と違う部分を見つけては嬉しさを覚える。我ながら器が小さいけど、これは仕方ない!
 他の人の声劇動画にも分析したコメントを残しているし、何度かコメントのやり取りをしてるのもある。
 それなら――僕も、返信コメントをしていいのか?
「何を書こう……」
 迷いながらも、返事をくれたお礼などを改めて書き、コメントをする。
 すると、すぐにコメントが返ってきた。
 興奮と同時に、思う。
 もしかしたら、波希マグロさんも学生なのかな?
 この時間帯、社会人はまだ仕事中だろうから。
 もし、お時間があるならば――一緒に生声劇をしたい。
 いや、あまりに実力差がありすぎて……迷惑だろうな。
 そうは思うんだけど……。個別レッスンをしてくれてる声優スクールの先生から「何ごとも挑戦。怯えてたら始まらない」と教えられた言葉が頭に浮かぶ。
「……挑戦を、しなくちゃ。現状に満足してないなら、なおさら……」
 竦む自分に言い聞かせつつ『僕の実力不足は百も承知ですけど、ご迷惑でなければ、今から一緒に生声劇をしませんか? 台本は波希マグロさんにお任せ致しますので!』と、コメントを書く。
 震えが増して止まらない指に、根性を出せと言い聞かせ――送信。
 胸の鼓動が、バクバクとして息が苦しい……。
 こんなんじゃ万が一波希マグロさんが受けてくれたときに、今あるベストが出せない!
 やることをやって、返事を待とう!
「い、射手座だぞ獅子座だぞアンドロメダ座だぞ。武具馬具武具馬具三武具馬具――……」
 発音や滑舌練習をして、もし生声劇をする流れになったとき、セリフを噛まないようにとそなえる。
 スクールで習い、最早暗記するほどに練習している外郎売りを読み始めたときだった。
 へ、返事が来た!
 飛びつくようにスマホを見ると『それでは、この台本はどうでしょうか? 一五分ぐらいの短めの台本ですが』。そう返事が来ている。
 一緒に……今から生声劇をしてくれる?
 あの、プロかと思う程に凄い演技をする波希マグロさんが!?
 一瞬、現実のものとは思えなかった。
 何度も何度もコメントを見返して、じんわりと涙が浮かぶ。
 僕のような下手くそな演者に、付き合ってくれるなんて……。
 僕の演技が下手くそだなんて、コラボ動画を聞いてれば知ってるだろうに。
 それでもOKをしてくれた。それが自分の努力を認められたみたいで――本当に嬉しい。
 すぐさま『勿論です』とコメントを送る。劇前なのに、もう緊張で固まりそう……。
 台本を読み込む時間を含め、二十分後に生声劇をスタートすることになった。
 生声劇配信告知画面を操作してから、早速台本に目を通す。
 内容は、とある国に仕える女性騎士と男性騎士が派閥争いにより決別。
 そして男性騎士が同僚として思いを寄せていた女性騎士に願いを託し斬られるという、感動戦闘ものだった。
「戦闘描写……。僕の演技力で、できるか?」
 叫ぶシーンは、間違った発声だと喉を痛めやすくて、迫力を出すには技術も要る。
 少なくとも、今まで発声基礎練習ばかりの僕では、まともに演じられないだろう台本だった。
 でも……チャレンジだ。今持てる最高の演技を、全力で!
 それが急な話に快く応じてくれた波希マグロさんとか、聴いてくださるリスナーさんへの礼儀だ!
 全力で読み込むこと二十分。
 突発劇だから、まだまだ読み込みは心許ないけど……。
 でも演技には、こういう瞬発力とか読解力を求められるって、スクールでも習った。
 言い訳にしちゃダメだ。
 震える手で生声劇配信開始のボタンをタップし――波希マグロさんを配信ルームへ招く。
 すぐさま、波希マグロさんが入室してくれた。
「は、初めまして! 七草兎と申します!」
『初めまして、波希マグロです。お誘い、ありがとうございます』
 幸せな音が、耳から脳に伝わった。
 人の声は脳派に関わるって聞いたことがあるけど……なんて澄んでて、綺麗な発声だろう。
 可愛いという言葉では言い表せない波希マグロさんの声は――間違いなく、僕の脳髄から全身へ電撃のように感動を響かせてる。
「あ、あの! 急なお誘い、それに僕のような無名のお誘い、ご迷惑じゃなかったですか!?」
『迷惑じゃないですよ。私も演技が大好きですし、七草兎さんの演技からは演じるのが大好きなのが伝わってきますから』
 僕のハンドルネームが――憧れの人の美声で呼ばれた?
 感動して、嬉しくて……震える!
 そうこうしているうちに、視聴者が増えていく。
 五人、十人……いつもの自分の枠では見たことがないぐらい、増えていく!?
 三十人以上もの人が、ライブ視聴してくれてるなんて……。
 コメント欄は『波希マグロさんの生声劇!?』、『貼ってある台本的に、格好良い女性騎士かな。楽しみ!』、『相手の人は知らないけど、波希マグロさんの生声劇とかスゲぇ貴重!』など。
 波希マグロさんのファンが多いと分かる。
 ズシンと、背が丸くなる程のプレッシャーがのし掛かってきた……。
『――七草兎さん』
「は、はい!?」
『声劇を……。没入する世界観を、楽しみましょうね!』
 ああ、そうだった。
 技術力の無さを、重圧に感じてちゃダメだ。
 全力で――演じることを楽しもう! それが劇の根底なんだから!
「はい! 全力で、楽しみましょう!」
 僕は意を決して
「リスナーの皆さん初めまして! それでは、波希マグロさんとの生声劇を始めさせていただきます! 声劇中は台本が映っているので、コメントが見られないのをご承知ください!」
 そう言って、設定された台本の演技開始ボタンをタップした。
 ディスプレイに三、二、一とキュー振りが表示され――。
『――なぜだ、なぜ……。なぜ、私たちを裏切る!? 答えろ、グレイス!』
 凜々しくも切なさが混じった声色で始まり、後半には怒りがヒシヒシと伝わってくる彼女の演技に、痺れた。
 流れ出した重装なBGMに合わせて、後半は微妙に演技を変えたのかもしれない。
 なんて……なんて、圧倒的な演技力なんだ!
「すまない、ゼノビア。それしか言えぬ俺を、許せとは言わない。……だが、これが俺の騎士道だ」
『……そんな言葉で、私が納得すると思うのか!? ……なぜ、あの王子を貴様は担ぐのだ』
 僕の演技を聞いて、合わせてくれたのが分かる。
 何もそれは、下手くそにしてくれた訳じゃない。
 迫力のある応酬じゃなくて、ゆっくりと苦々しく、重い言葉の交わし合いに軌道修正してくれたんだと思う。
 早く迫力がある言葉の言い合いは、僕には難しいと瞬時に理解して、即座に対応してきた。
 ああ……。
 本当に、波希マグロさんは凄いなぁ……。
 どんな演技が良いか考える演出力、即座に演技プランを修正する瞬発力、声や話し方の技術。
 何もかもが、僕とは天と地の差なのが分かる。
 コラボさせてもらった短い投稿ショート動画では、可愛らしい妹役だった。
 それが声色を変えるだけじゃなくて、人物ごと代わったように口調やテンポ、感情の発露の仕方まで変えてる。
 今ある環境――僕という役者も含めて、より良い演技が引き出せ披露できるように、瞬時に演技プランを変更してくれるなんて。
 簡単にできるもんじゃない。少なくとも、僕には無理だ。
 その演技プラン変更は、自分が面白い演技をしたいという身勝手なものじゃなくて……。
 全体として面白い劇をリスナーさんに披露したい。僕にも演技を楽しんでほしい。
 人の声からも感情の機微を読み取れてしまうぐらい敏感な僕は、そんな彼女の思いを理解した。
 なら――今ある全力で、応えなければ!
 今は、七草兎でも春日晴翔でもない。この物語に登場する、グレイスになりきろう!
 彼女に導かれるように僕は、役に没頭――いや、没入して、物語は進んでいく。
 そうして遂には、信念の対立したゼノビアとグレイスは、互いの護りたい騎士道のために斬り合いになる。
 渾身の力で叫ぶ僕の声は――迫力もなく、うるさいとしか思われないかもしれない。
 叫び方の技術がないから、喉も痛む。
 それでも全力で演じきり、終幕を迎えた。
 彼女の演技に魅了され、感動した……。余韻が、心地良い……。
 そんな中エンドロールが流れ、ディスプレイから台本が消える。
 コメント欄が顕わになると――。
「――ぅ……」
 心が、折れそう……。
 これまでのコメントを遡る度、劇後の昂揚感が消え、血の気が引いてく……。
 優しいコメントも、ある。『演技を楽しんでるね』、『声が大きいけど、やる気は伝わってくる』など。
 でも圧倒的大多数が、批判だ。『波希マグロさんの演技を邪魔してる』、『世界から現実に一々引き戻されるわ』、『この実力差で生声劇コラボとか勇者すぎるだろ』、『ぶっちゃけ耳が痛い』とか……。
 正直、コメントを見ていると――胸がジクジクと痛い。
 自分が下手なのは理解してたけど、ここまで批判されるとな……。
 ダメだ、明るく振る舞え!
 こんなの、規模が違うだけで何度も経験してきたじゃないか。
 最後まで明るく前向きにいくことが、聞いてくれたリスナーさん。
 それに……波希マグロさんへの礼儀だろう!
『皆さん。聞いてくださり、ありがとうございます! 七草兎さんの演技、私は元気が伝わって来て好きでした!』
「ぇ……。僕の演技が、好き?」
 思わず、言葉が漏れ出てしまった。
 生配信なのにもかまわず、本音がポロッと。
 それだけ、予想外だった。
『はい! 確かにコメント欄の皆さんが仰るように、私も含め演技力はまだまだかもしれません。それでも、劇を楽しもう。聴いてくださる皆さんに楽しんでもらおう。その気持ちが、共演者である私にはビシビシと伝わってきました!』
「それは……。それだけしか、僕にはなかったので」
『それが一番大切だと思うんですよ。ね、リスナーさんも、そう思いませんでした? 楽しんでもらえたんじゃないですか?』
 波希マグロさんがそう問いかけると、コメント欄に同意の声が書き込まれていく。
 同時に『言い過ぎた』、『ごめんなさい』、『技術力とかじゃなく、楽しかったですよ!』 と。
 再び……涙が滲んできた。
 でも、この涙は――今までの劇後、何度も滲んだ涙とは、全く違うものだ。
 なんで……。
 なんで、波希マグロさんは、こんなにも優しいんだ?
 あんなに素敵な演技をして、人間性も最高だなんて……。
 苦言には耐えられても……こんなの、耐えられないよ。
 こんなの、初めてだ。
 こんな感情、味わったことがない。
 こんな優しい声、かけられたことがない。
 ずっと声活動へ懸命に取り組んできても……。
 僅かにも認められなかった僕の努力を、思いを認めてもらえたらさ……。
「本当に、本当にありがとうございます! 波希マグロさん。でも、リスナーさんの仰る通り僕の演技力が足りないのも事実だと思うんです! よろしければ、アフタートークの残った僅かな時間だけでも、僕に指導をしてもらえませんか!?」
 感情が、溢れ出しちゃうじゃないか。
 初対面で失礼とか、図々しいとか。
 そんな当たり前の判断もできないぐらいにさ。
 言葉の糸で繋がる関係って、辛さや問題だけじゃなく――こんなにも嬉しい感情になることもあるんだ。
『ふぇ? わ、私が、ですか? その、そんな偉そうに指導できる立場じゃ……』
「そんなことは、ありません! 波希マグロさんは、あらゆる面で僕の憧れの人なんです! 演技を聞くだけで感動して、違う世界を体感させてくれるような! それでいて人間性も尊敬できる、凄い方なんです! ……あ、ご迷惑なら、すいません」
『い、いえ。迷惑とかじゃなくて……。私の人間性、まで?』
「そうです! 一つの動画で百人近い人へのコメントを、ちゃんと聞いて丁寧に返すだけでも大変でしょう? それに加え楽しい劇を届けようと全力になって……。僕みたいなのも、蔑ろにしないで……」
 こんな良い人、他にいないよ。
 でも、興奮して口走ったけど……。
 生声劇のアフタートークで、多数のリスナーがいる前で、もの凄く恥ずかしことを言ってる気がする!
 段々と、恥ずかしさで逃げたくなってきた。
 でも――逃げちゃダメだ。
 気持ち悪いと罵られようと、これは自分が言った結果だ。受け止めないと!
『……分かりました。指導するような立場じゃないので、本当に大したことは言えませんけど』
「え……。い、いいんですか!? 是非、なんでも教えてやってください!」
 夢のようだ!
 僕は、波希マグロさんはプロ級だと思ってる。
 スクールの先生だってプロの声優さんだけど、それに負けないと思ってる。
 それに――人間性にまで、虜になった。
 そんな人から教えてもらえるなんて……。幸せだ! 絶対に、一言たりとも聞き逃さず成長につなげなきゃ!
『え、偉そうだったら、ストップって言ってくださいね?』
「はい! そんなことは思いませんが、はい!」
『それでは……。声の技術とかは、長く練習しないと身につかないと思いますので、他を。……自分が演じる登場人物とか、物語に出てくる他のキャラクターの、過去は想像したことありますか?』
 彼女の問いに、僕は考えてみる。
 どんなキャラクターなのか、そこまでは考えた。
 でも、過去までは……。まして、自分が演じたいキャラの過去までは、考えてなかった。
「すいません、ありませんでした」
『謝らないでください。も、もしかしたら、そうなのかもなって思いまして……。ほら、ネット声劇だと顔を合わせて読み合わせとか、できないじゃないですか?』
「そう、ですね。声だけの繋がりですから」
『だからこそ、自分が上手く読むことに集中しちゃうんじゃないかな~って。自分が演じるキャラが過去にどんなことがあって、どんな感情を抱いて物語開始に至ったか。他のキャラクターと、どういう過去を過ごしてきたか考えを摺り合わせると、一体感のある劇ができると私は思うんです』
 慌てて、メモをした。
 澄んだ声から遠慮がちに発せられる言葉は、どれもハッとさせられるものだ。
『ど、どうでしょう? 偉そうかなって思いましたけど……。何か、参考になりましたか?』
「はい、もの凄く! 本当にありがとうございます!」
 コメント欄でも『勉強になる』、『なるほど』、『キャラへの感情移入とかも、それがなければ難しそう』など、波希マグロさんの言葉に感心している声が多い。
『あの……。私が偉そうで、腹立つな。い、いじめてやろうとか……思いました?』
 はい?
 突然、何を言いだすんだろうか?
「そんな訳がありません! 心から、本心から感謝しています! また教えてほしいぐらいです!」
『……良かった。七草兎さんが、そういう方で、本当に良かったです』
 護りたくなってしまうような声音で、心底ホッとしたような言葉が響いてきた。
 そんな時、エンドロール後のアフタートーク終了時間が迫っている文字が目に映る。
「すいません、もう終わりみたいで……。改めて、急にありがとうございました! 聞いてくださった皆様も、ありがとうございました!」
『こちらこそ……救われた思いです。ありがとうございました』
 救われた?
 何にだろうと尋ねる前に――この生声劇は終了しましたという文字が表示され、音声が聞こえなくなってしまった。
 ああ……。夢のような時間だった……。
 未だに胸のどきどきが止まらない。
 憧れの人との共演、レベルが高い演技と生で掛け合う昂揚、新たな発見。
 また、彼女と一緒に演技をしたい。言葉を交わしたい。
 美しすぎる声と、底が見えない演技力を持つ波希マグロさんに――そう思ってしまった。
「怖い、けど……。勇気」
 こうしてフォロー申請を飛ばして……。もし、波希マグロさんがフォローを返してくれなかったら?
 少し残念だな、と。いつものように割り切るのは、無理かもしれない。
 考えるだけで怖いし、身の程知らずだとは思うけど――フォローボタンを押した。 
 ああ、もう! どうしよう!
 これでフォローバックがこなかったら、泣くかもしれない!
 そう思いながら、バイトへ向かう準備を始める。
 鞄の中の荷物もよし、爪も切ってあるな。
 劇に夢中になりすぎて、今日は時間がギリギリだ。
 急いで準備をしていると――ディスプレイに光が灯った。
「フォ、フォローバックが、返ってきた……。あの、波希マグロさんから?」
 もの凄く、嬉しい……。
 嫌々、僕との生声劇とかレッスンに付き合ってくれてた訳じゃないんだ。
 彼女がフォローをしてる人数は、極少数。
 誰でも彼でもフォローバックをしてるわけじゃないのが分かる。
 声は第一印象に凄く大切と聞くけど……。
 第一印象から人柄を知ってからまで、本当に憧れるような人だ。
 なんて人格者なんだろう……。僕みたいなのを認めてくれて、庇ってくれて……。演技力だけじゃない。色んな面で彼女が気になる。
 もっともっと、彼女と一緒に演技をしたい。色んな話を聞いて、勉強したい。
 ふと、ディスプレイに映る時計が目に入った。
「ヤバ! 遅れる!」
 僕は慌てて家を出る準備を進めながら、『フォローバックありがとうございます! また演技もしたいし、色んなことを聞きたいです。練習方法とか、お勧めがあれば教えてください!』とフレンド専用のチャットに送信をした。
 家を飛び出し、全力で走る。これも肺活量のトレーニングと思って。
 バイト先には、走ってかなりギリギリ間に合った。
 息を切らせてホールで働く僕に「仕事が忙しいんだね。お疲れ様」と声をかけてくれたお客さんには申し訳ない。
 そうしてバイト中――スマホが気になって仕方ない。
 彼女から返信は、きてるかな。
 慌ててたとはいえ、かなり暑苦しいことを言ってしまった。
 素性が分からなくて変な人に警戒するネットの繋がりだから、慎重にならないとなのに!
 いきなり不審者と思われてたら、どうしよう……。
 そんな不安ばっかり、頭をよぎる。
 そうしてアルバイトを終え、ロッカールームで着替えより先にスマホを手に取る。
「……返事、きてる!」
 波希マグロさんから『さっきは楽しかったです。偉そうだったら本当にごめんなさい。私がしてる練習ですけど、プランクをしながら発声練習とかはお勧めです』と、コメントが届いていた。
 思わず、ガッツポーズをしてしまった。
 顔も知らない、声だけの関係なのに、彼女は親切で丁寧だ。
 引かれてなかった。不審者と思われなかったことに安心して、力が抜けてく……。
 ロッカーに寄りかかる僕の顔が、備え付けの鏡に映った。
 もの凄く嬉しそうで、だらしなく微笑んでるなぁ。
 ネット上で出会った人とのやり取りで、こんな顔をしてるとか……。
 誰かに見られたら、気持ち悪がられそう。
 慌てて顔を引き締め、心は浮かれたまま彼女に返事をした――。

 波希マグロさんと生声劇をしてから、一ヶ月が経った。
 自分の部屋でイラストの勉強をしてると、アプリの通知が鳴る。
 バッと手に取ると、波希マグロさんからの返事コメントだった。
 毎日アプリ上でメッセージのやり取りをしていても、波希マグロさんは嫌な素振りをみせない。
 暑苦しい僕の声劇に対する質問にも、話の流れで私的な話になっても。
 イラストも描いてるって言ったら『七草兎さんのイラスト、私も見てみたい!』と言ってくれたり。
 身バレはしない程度に、お互いのことを教え合う関係にまで発展してる。
 彼女が過去に劇団へ所属してたこととか、小学校低学年のときから声優専攻のボイトレスクールに通ってたこととか。
 特に彼女が僕より一個下、高校一年生だと知ってからは、互いにグッと距離が近くなったと思う。
 ネットで仲良くなればよくあるけど、お互い敬語もやめようってなったしね。
 でも――。
「いくら人格者だからって、一線は置かないと……。出会い目的とか思われたら、泣いちゃう」
 気をつけよう。
 あくまで、僕も波希マグロさんも共通の趣味を楽しんだり、お互いに高め合う関係なんだから。
 あれ……。僕、波希マグロさんのために、何かできてるっけ?
 僕ばっかり、お世話になってて……。恩返しの一つも、できてない気がする。
 僕は、波希マグロさんに凄く感謝してるのに。
 努力しても全く成長が感じられなくて、学校にもネットにも居場所がない。
 イラストを描いても、他のイラストを描いてる人より投稿頻度やクオリティの差で劣等感に襲われる。
 どうすればいいのか分からず、先のことや今やるべきことも見えないで悩み続けていた僕を認めてくれて、導いてくれた恩人なのに。
 僕が波希マグロさんにできることって、何かあるのかな?
 僕にあって、波希マグロさんにないもの……。
 そう考えながら、彼女とのメッセージのやり取りを見返して――アイコンに目がいく。
 波希マグロさんのアイコンは、浜辺の写真だった。
 こういうアプリで景色をアイコンにする人もいるけど、自分らしいキャラとかを描いて使う人が多い。
「――僕のイラストを見てみたいとか言ってくれたからな。恩返しにも、いい機会かも?」
 コメントを返した後、液タブに向かう。
 そうして数時間、夜も遅くなってきたころ。
 僕は『デフォルメキャラでファンアートを書いてみた! SNSのアカウントとかあれば、交換しない? DMでイラスト送りたいから!』と、コメントを送る。
 アプリから飛び出した関係を望んだみたいになってるけど……。SNSぐらいは許されるよね?
 匿名のSNSなら、交換するのだって変じゃない。変じゃない……よね?
 趣味のアプリに、SNSアカウントを連携してる人だって多い。
 うん、変じゃないはずだ。
 描き終えた昂揚感とかで、暴走してるわけじゃないと思う。
 この二週間で波希マグロさんの存在は、どんどん僕の中で大きくなってる。
 中々、返事が返ってこない。
 いつもは、もっと返事が早いのに……。
 これ、引かれた? うわぁ……。やっちゃった?
 液タブに、崩れるように突っ伏す。
 彼女に引かれたかも……。
 なんでだろう。顔も知らない、リアル世界での繋がりなんて一切ないのに……。
 なんでこんなに、心が揺れるんだろう? 不思議な感覚だ……。
 僕、おかしいのかな……。
 悶々としてると――。
「――きた!」
 バッと、スマホの通知に飛びつく。
 そこには『ごめんね。SNSアカウントは、もうないんだ』。
 端的なコメントに、全身から血の気が引いていく。
 SNSアカウントを、持ってない? 
 高校一年生でSNSアカウントを一切持ってないなんて……。
 親がネット関係に厳しいとかじゃなければ、基本はない。
 ネット関係に厳しいなら、声劇をするアプリなんかやってるはずがない。
 だって声劇をしてると、部屋から声だって漏れるんだから。
 ネットで劇をしてるのなんて、親が知らないはずがない。
 つまり――僕にはSNSアカウントを知られたくないってこと、だよね……。
 浮かれてた自分が惨めになる。
 波希マグロさんの名前。綺麗な声と優しいキャラをイメージしたデフォルメキャラを書いてたのが、気持ち悪い行動に思えてきた……。
 自分の言動を反省しながら呆然としていると、暫くして追加のメッセージがきた。
「えっと……。チャットアプリのフレンドに、ならない? え、嫌われたんじゃなかった!?」
 そして彼女から、チャットアプリのフレンドコードとリンクが送られてくる。
 それはオンラインコミュニティ形成に便利で、サーバーを個別に用意できるアプリだった。
 リアルの友達や家族とよく交換するようなアプリじゃなくて、ゲームやアプリの公式アカウントとかがよくやってる――ビデオ通話やチャットもできるもの。
 これを教えてくれるってことは……まだ嫌われてなかった!?
 心が一転、パッと踊りだすのを感じる。
 僕も『七草兎』のハンドルネームでアカウント持ってるし、丁度いいよね!
 これは、フレンド申請をしていいんだよね!?
 ネットリテラシーを守れ。常識的にどうなのか、と自分に問いかける。
 彼女から誘われて、お互いのプライバシー情報もでない。
 そう結論を出してから、すぐに『波希マグロ』と表示されているアカウントへフレンド申請をする。
 個別チャット欄で手を振って挨拶をすると――彼女は、すぐに手を振って挨拶を返してくれた。
「よ、よかった……。嬉しい。でも、それならSNSは?」
 ホッとすると同時、本当にSNSアカウントを持ってないのかと疑問に思う。
 そういえば、波希マグロさんの言い方、少し変だった様な……。
 声劇アプリのコメントを見ると、『ごめんね。SNSアカウントは、もうないんだ』と書いてある。
 もう、ない。
 つまり、前はあったってことかな?
 SNSでは、もめることも多いからなぁ……。アカウントを消すような嫌な体験をしたのかもしれない。波希マグロさんから話てくれるまでは、触れない方がよさそうだ。
 言葉の使い方から彼女の感情を予測するに、だけどね。
 約束通り、チャットアプリで彼女をイメージして描いたデフォルメキャラのイラストを送る。
 するとすぐに『凄い! めっちゃ可愛い~! イラスト上手いんだね!』とメッセージが返ってくる。
 自分が誰かに向けて描いたイラストで喜んでくれるのが、こんなにも自分にとっても嬉しいことだったなんて……。
 全く、知らなかったな。
 劣等感とか、他の人と比べて悩むとか、一切感じない。
 純粋に、イラストを描いてて良かったって思う。
 また波希マグロさんに喜びを教えてもらっちゃったな……。
 恩返しをしたつもりが、彼女への恩が増えるなんてね。
『イラスト、大切に使わせてもらうね! 宝物にする! これさ、アプリのアイコンにしても良い?』
『勿論! 少しでも恩返しにって描いたやつだから。好きに使って!』
『恩返しだなんて。でも、ありがとう! 七草兎さんはイラスト、どれぐらい前から描いてるの!?』
『始めたのは声活動と同じぐらいだから、五年ちょっとかな?』
 メッセージのやり取りが楽しい。
 波希マグロさんが本気で喜んでくれてるのが、嬉しい。
 少し前まで、繋がりなんてない雲の上の人だったのに。
 そもそもリアルでも、ネットがなければ繋がりなんて、できないような凄い人だろうに。
 波希マグロさんとネットで繋がれたことが――僕のリアルにとって、凄い励みになってる。
『本当に凄いよ! 早速アイコンにさせてもらった! なんでイラストを描こうと思ったの?』
『今は演劇部にいるんだけどね、アニメとか演劇とか、そういうエンタメで魅了されたからかな? 少しでも、アニメとか劇に関わる仕事に就きたいなって』
『そうなんだね。夢に向かって努力してるんだ。尊敬するよ。報われるといいね!』
 一通メッセージが返ってくる度に、胸がどきどきする。
 でも『報われるといいね』という言葉を聞くと、ズキリとした痛みが胸へ走った。
 僕の演技力のなさは、一緒に生声劇をしたから知ってるだろう。
 イラストだって……。波希マグロさんは褒めてくれたけど、SNSの反応を見れば一線のプロになれないのは理解してる。
 夢は簡単に叶わないからこそ、夢。
 何かに頑張った経験は決して無駄にならないって聞くけど……。報われる保証なんてない。
 ああ、どうしよう。
 将来が不安で、弱気になっちゃう……。
『報われるよう、全力で頑張るよ。でも、努力だけじゃどうにもならない世界ってのも分かってるからね。正直、学校の演劇部でも居場所がないし。だから、勉強も頑張らなきゃなって!』
『色々と厳しい世界だもんね。夢と現実の難しさ、分かるよ』
 そこまでメッセージを送ったところで、なんとなく彼女のメッセージに勢いがなくなってるのを察した。
 時計を見ると、もうすぐ日付が変わる。
 きっと眠いんだろうな。
 彼女も劇団に所属していた、と聞いた。
 声優スクールに通っていたとも。
 でも――どれも過去形だった。
 今の彼女に、何が起きてるんだろう?
 本当は聞いてみたい。
 力になれるなら、全力で力になりたい。
 でも――ネットという、いつでも切れる脆くて細い糸でしか繋がってない僕に、何ができるか分からない。何処まで立ち入っていい距離なのかも、分からない。
 それなら、せめて邪魔をしないことだ。
 彼女の睡眠時間の確保にも、彼女の抱える問題にも。
 波希マグロさんが話したいって僕を信用してくれたら、僕にできる限りのことを尽くそう。
『波希マグロさんが辛ければ力になれるぐらい、僕も強くなれるよう頑張るね。今日は、そろそろ寝ようか。遅くまでありがとう、お休み!』
『ありがとう。本当に、ありがとうね。うん、お休み。また明日!』
 メッセージを切ったら、二度と連絡がこないかもと思ったけど――『また明日』と言ってくれた。
 明日が楽しみだなんて……。
 そんな気持ちで布団に入れるなんて、少し前までは予想もしてなかったな。
 寝る前に、声劇アプリを開く。
 本当にアイコンを、僕が描いたイラストに変えてくれてるよ。
 嬉しいなぁ……。本当に、いい人だ。
 彼女が一人で演じた朗読劇を聞いてから、僕は幸せな気持ちで眠りに落ちた――。
 波希マグロさんと毎日メッセージのやり取りをするようになってから、一週間が経った。
 癒やしの場ができたから、いつも以上に頑張れる。
 そう、たとえ
「春日、そこ邪魔」
「あ、ごめんなさい」
 演劇部で邪険に扱われていても、癒やしの場があれば頑張れる。
 その癒やしがネットなのは、簡単に失うリスクから考えて危ういかもしれないけど。
 道具や人でごった返す部室の中、僕は隅っこで自分のできることを探す。
 作業をしてる人たちが次にどの道具を求めているか。何を片付けたいか。
 その様子を覗ってはサポートをして、隙があれば発声と滑舌練習をして、メイン扱の配役の人たちの演技を観察と分析して。
 そうして、今日も僕の部活は終わった。
 今日は部活じゃなくて、個人のボイトレレッスンがある日だ。
 声を出すための下準備が整った状態で、僕は名古屋まで移動してレッスンを受ける。
「じゃあ今日も、まずは発声と滑舌練習やっていこう。それじゃ、まずは声域のレッスンね。ピアノの音に合わせて声を一番低いところから高いところまで出していくよ」
「はい! マメマメマメマメマメ――……。マメマメマメマメマメ――……」
「音を良く聞いて~。半音ズレてきてるよ」
「すいません!」
 ピアノの音に合わせ、マイクの前で低いところから超高音域まで発声をしていく。
 狭いブース内で一対一の授業をしてくれるから、個人に合わせて指摘をしてくれるのが嬉しい。
「はい、お疲れ様。じゃあ録音したから、自分でも聞いてみよう」
 でも僕は……。何年も続けているのに、未だ声がカスカスだ。
 声もブレブレ。高音域に関しては、我ながら酷い。
「域を吐く量が足りないね。肺活量もだけど。口をすぼめながら、このティッシュに息を吐き続けて」
「はい!」
 吐く息が一定じゃないのは、顔の前にあるティッシュの揺れ方をみれば分かる。
 先生に言われて声を乗せると、それは更に顕著で……。
 一向に上達しない自分を情けなく思う。
 家でも毎日、イラストと合わせて練習してるんだけどな……。
 いや、腐ってちゃダメだ。集中して、全力でだ!
 そうして上達を感じられず焦りと劣等感ばかり感じるレッスンが今日も終わった――。
 波希マグロさんとチャットアプリのアカウントで繋がってから、一ヶ月近くが経った。
 気がつけば僕は、この二ヶ月の間、彼女と毎日連絡を取り合っている。
 生声劇をしたり、互いの身の上話になったり。
 SNSにあげる前のイラストを見てもらったり。
 最初、一言一句に対して細心の注意を払うってたのが嘘のように、親密になってると思う。
『もうすぐ期末試験が始まるね。波希マグロさんは、勉強得意な方?』
『勉強は嫌いじゃないけど、試験は分からないなぁ~』
『試験は、たまに教科書に載ってないような問題も出されるからね。高校一年ってことは、初めての期末テスト?』
『う~ん。それも分からない。ただ、勉強は手を抜かずにやるかな』
 微妙に会話が噛み合ってない気がする。
 というか、試験についてはぐらかされてるような……。
 試験には触れて欲しくないのかな?
 もしかしたら、試験対策とかは苦手なのかもしれない。
 声のレッスンをしてくれたり、部活の相談に乗ってもらったり、波希マグロさんに恩を感じてばかり。
 僕の方ばっか波希マグロさんに頼り切りってのも……。友達として、対等じゃないよね?
『良かったら試験対策とか一緒にやらない? 一応、一年先輩だし、一年生の範囲なら僕にも分かると思うからさ!』
『え! それって、作業通話しながらってこと?』
「え?」
 思わず、メッセージを見て声が漏れた。
 作業通話……。
 友達とかと一緒に通話しながら勉強やイラスト、様々な作業をすること、だったよな。
 やったことはないけど、聞いたことはある。
 でも……。
 生声劇以外のプライベート的な通話を、あの波希マグロさんとしていいのか?
 面倒がられないかな? 下心があるとか、疑われないかな?
 そんなつもりは、なかったんだけど。ただ恩を少しでも返せればと思っただけだし……。
 でも……。彼女から作業通話って単語が出てきたなら、嫌じゃないのかな?
『それができたら、メッセージでペンを離さなくていいから効率がいいかもだけど。迷惑じゃない!?』
『私は迷惑じゃないよ! あ、でも七草兎さんが迷惑なら、メッセージもやめる?』
 それは嫌だ!
 即座に、そう思ってしまった。
 この二ヶ月で波希マグロさんの存在は……なくてはならないぐらい、大きく膨れ上がってる。
 彼女とのメッセージが日々に喜びを感じられない僕の癒やしで、救いなんだ。
 ネットの友達にこんな感情を抱くなんて、おかしいんだろうけど……。
 それでも僕は、最初の出会い方がネットかリアルなのか。
 その違いがあっただけで、波希マグロさんを大切な人だと感じてる。
『僕も迷惑じゃない! 絶対に迷惑じゃないよ!』
『良かった~。私もできれば、この繋がりを切らないでくれると助かるから。じゃあ通話しよっか?』
『うん! 通話繋いでも、平気?』
『いいよ! 勉強道具も机にあるし、私は準備万端!』
 え。
 本当に、通話を繋いでいいの?
 どうしよう、もう絡み始めて二ヶ月になるのに……。
 なんで、通話を繋ぐってだけで指が震える程に緊張してるんだろ……。
 ああ、もう! 覚悟を決めろ! 根性と行動力だけは、先生にも褒められただろ!
 意を決して、通話ボタンを押す。
 呼び出しの音が鳴り響く間、息を止めたように苦しい。
『も、もしもし? 七草兎さん、聞こえる?』
「は、はい! 聞こえます!」
『な、なんで今更、敬語に戻ってるんですか?』
「い、いや……。あの、緊張して?」
 声が上擦ってしまった。
 うわぁ~。変な人だって引かれたらどうしよう!
『わ、分かります。……あ、私も敬語になっちゃってますね』
「そ、そうだね。うん、なんか……。生声劇と違う個別通話って、緊張するよね」
『は、はい。いや、うん! 私、こ、こういうの始めてで……。ネットで知り合った人と通話するなんて、緊張するなぁ』
「分かる! 顔も知らないのに仲良くなれて、通話するとかね! で、でも! 僕は嬉しい!」
 今、絶対に変なことを口走った!
 緊張して頭がふわふわしてるせいだ! 
『わ、私も嬉しいよ。メッセージだけじゃ味気ないなって、やっぱ文章だとさ、ちょっと冷たい印象があるよね?』
「う、うん。無機質っていうか、勘違いして伝わってたら、どうしようとか!」
『そうだよね! やっぱり、声とか顔を合わせて伝えるって大切だよね!』
「か、顔!?」
 このアプリには、ビデオ通話機能もある。
 もしかして、ビデオ通話がお望みだったのかな!?
 いや、さすがに顔を見せ合うのは……ハードルが高いって!
 リアルで会った友達なんて最初から顔も声も見せてるのに、ネットで知り合ったというだけで、凄くハードルが高く感じるよ!
『あ、違うよ!? あの、言葉の綾っていうか……』
「そ、そうだよね! うん、分かってる! 分かってた!」
 僕の心臓、バクバクするの、やめて。冷静になれないからさ!
『えっと、じゃあ勉強しよっか?』
「そうだね、そうしよう! 波希マグロさんは今、どこら辺を勉強してるの?」
『えっとね。数学だと――……』
 彼女が勉強してる部分は、僕が一年生の三学期に習った部分だった。
 授業の進みが違うのかな?
 ギリギリ教えられそうというか、記憶に新しいから助かる。
 しかし、授業の進みの速さから思うに……。
 もしかすると波希マグロさんは、凄く偏差値が高い高校に通ってるのかもしれない。
 彼女に勉強を教え、雑談をしていく。
 内容はやっぱり声劇とか声活動、イラストやアニメ、映画や役者とかに偏ってたけど……。
 お陰で勉強に疲れたとかは一切感じず、あっという間に時間が過ぎていった。
「――あ。もう日付が変わりそう」
『うん……。そう、だね。あっという間ぁ……』
 声から眠さが伝わってくる。
 何というか、眠気交じりでトロンとした声って可愛いなぁ……。
 口から思わず「可愛い」と出そうになるけど、なんとか耐えた。
 そんなことを言ったら、さすがに気持ち悪がられそう。彼女を傷つけたくない。
「それじゃ、今日は寝よっか」
『うん……。また明日ね』
 また明日も、作業通話をしてくれるの?
 どうしよう。この楽しい時間がまた明日もあると考えるだけで、僕の眠気とか吹っ飛ぶ。
 でも、今日は寝かせないとだ。
 彼女に夜更かしとかさせて、体調を崩してしまったら申し訳がなさすぎる。
「うん。たいぶ汗ばむ陽気になってきたけど、温かくして寝てね」
『うん。……布団、入った』
 布団の擦れる音が聞こえた。
 生々しくて、思わず顔が熱くなる。
「じゃ、じゃあ今日はこれで! お疲れ様、お休み!」
『うん、お休み……。ばいばい』
 照れる感情を抑えつけて、なんとか通話を切った。
 大きく深呼吸をして、高鳴る胸を押さえる。
「ああ……。どうしよ」
 一線は守らなければいけない。
 ネットで出会った関係の人。
 ニュースとかでは、ネットから知り合った人同士の事件だって報道されてる。
 僕がその加害者にならないよう、理性と距離を保ち続けなければ、なのに……。
 憧れとか恩人への感謝って枠を超えて湧き出つつある自分の感情に、凄く戸惑う。
 妙な下心を抱くな!
 これは、憧れの恩人と初めて通話したからだ!
 有名な芸能人と通話できたみたいな、そんな感情なんだ。
 きっと、きっとそうだ。
 そう自分に言い聞かせて、僕も布団に入る。
 部屋を暗くしても、頭の中でぐるぐると最後の声や会話が巡って……。
 寝付くまでには、いつもより時間がかかった――。
 彼女と通話をする生活が始まってから二週間。
 さすがに毎日通話というのは迷惑だろうと思って気が引けたから、週に三回ぐらい。
 特に翌日が休みな金曜や土曜を中心に作業通話をしていた。
 これだけ通話をしていれば、最初のように胸がばくばくして上手く言葉がでないなんてことも減った。
 期末試験までは残り僅かだけど、しっかり計画を立てて声劇やイラスト、勉強をしてたから、今更焦ることもない。
 作業通話のお陰で、試験でそれなりの点数を狙える手応えだってある。
『今回のイラストもいいね! 青春って感じだし、背景の景色も綺麗! 本当、素敵だな~!』
「ありがとう! それじゃ、自信持ってSNSに投稿するよ」
 イラストの方は、やっぱり描くのが遅めだけどフォロワーは投稿する度に増えてる。
 有名な人とか、他のイラストを描いてる方に比べると少ないかもだけど……。
 こうして僕が描いたイラストを見て喜んでくれるのは嬉しい。
 波希マグロさんから生の声で感想をもらえるのも、コメントをもらえるのもだ。
『あ……。SNS、今回も反応が見られなくて、ごめんね』
 彼女の声が曇ってる。
 やっぱりSNSをやらないのには、何か理由があるんだろうな。
 踏み込み過ぎても、良くないから……。
 ほんの少しだけ、様子見の触り程度に話をふってみようか。
「SNSは色々と面倒もあるからね」
『……うん。本当にそう。事実とは違うことも、事実みたいにされたり。それで誹謗中傷されたり』
 辛そうな声だ。
 やっぱり、過去に嫌なことがあってやめたんだろう。
「ごめんね、変なことを言っちゃった」
『ううん。大丈夫だよ。私こそ、ごめんね?』
「もっと楽しい話をしよっか。そうだ、声劇アプリで波希マグロさんが投稿したコラボ募集の動画、最高だったよ。あの役の演技が心に響いてさ、声の抑揚がまた――」
 机に向かいながら、スピーカー音声にした波希マグロさんの嬉しそうな声が返ってくる。
 うん、やっぱり彼女は笑って喜んでる声が一番だ。
 その声が、僕の気持ちまで幸せにしてくれる。
 ただでさえ、ずっとレッスンを頑張ってきたであろう彼女の声は素敵なのに。
 透き通って、鼓膜から全身に気持ち良く伝わって……。
 そんな彼女の声を聞いてれば、どんな雑談だろうと飽きることはない。
 時間は、あっという間にすぎていく。
 ふと、スマホから寝息が聞こえてきた。
「……早寝だね。疲れてるのに遅くまでごめん、ありがとう」
 時計を見れば、時刻は日を跨ぐのにあと一時間以上ある。
 きっと早寝早起きの習慣がついてるんだろう。
 もしかしたら、最初の方は僕に会わせて頑張って遅くまで起きようとしてくれたのかもしれない。
 すぅすぅと寝息が聞こえると、ちゃんと温かくして寝てるのかなと心配になる。
 同時に、無防備だなとも。
 寝落ち通話までしてくれるなんて、気を許してもらえたのかな?
 そうだとしたら、本当に嬉しい。
「ちゃんと布団に入って寝ないとだよ。……お休みなさい」
 眠ってるから聞こえてないだろうけど、声を抑えながら伝えて通話を切る。
 人格者で、話を聞いている限り努力家な彼女。
 演技が上手なだけじゃなくて、勉強だって凄くできるのは作業通話でよく分かった。
 そんな波希マグロさんに恥ずかしくないように、僕も頑張らないとな。
 さすがに、夜になって声の練習は迷惑だからできないけど……。
 僕も、もっと頑張ろう。適性のある、これだと突き進める道はまだ見つかってないけど、さ。
 スマホに入れている一日のスケジュール帳をイジり、寝る時間を削って一時間ちょっとイラストにかける時間を増やす。
 彼女のお陰で。僕は鬱屈とせず、手探りでも夢に向かい頑張れる――。
 そうして期末試験の日を迎え、終わった。
 もうすぐ夏休みだ。
 部活では相変わらず邪魔者か、便利屋扱いの日々。
 学校でも声優スクールでも、惨めな思いばかりなのは変化がない。
 期末試験を乗り越えたとあって、僕は勉強の時間をスケジュール帳から少し削り、声劇の練習時間を増やした。
『七草兎さん、試験お疲れ様! どうだった?』
「お陰様で、かなり手応えがあるよ! 波希マグロさんは、もう試験終わったの?」
『あ~、うん。大丈夫、かな?』
 波希マグロさんは、試験に関して終始答えを濁したままだった。
 まぁ彼女の学力なら問題はなかったんだろう。
 勉強の話なんて、それほど楽しい話題じゃない。
『ね、このアプリってさ、画面共有できるよね?』
「ああ、うん。パソコンの画面を共有できるね」
『そしたらさ、良かったらイラスト描いてる画面を私にも見せてくれない? 興味あったんだ!』
 なるほど。
 それなら、話題も尽きず僕が作業をサボらないよう見張ってもらえるかも。
 制作工程も見てもらって、意見も聞ける。
 いいこと尽くめだ。
「おっけー。それじゃ、パソコンからログインして共有するね」
『うん、ありがとう! あ、あと! 次の生声劇だけどね、素敵な台本を見つけて――』
 次々と楽しいことについて語る波希マグロさんの声が、凄く嬉しそうで……。
 思わず頬が緩んでしまう。
 彼女の美声から嬉々として語られる言葉に頷きつつ、画面共有をした。
『凄い、こうなってるんだね!』
「本当は最初から見せられてれば良かったんだけどね。ラフ画が終わったところからでもいい?」
『うん、大丈夫! ありがとう、こっから仕上がっていくのを見るの楽しみ!』
 彼女は演技が上手いから、もしかしたら演劇部や日常で惨めな思いをしてる僕を励まそうと、演技でそう言ってるのかもしれない。
 それでも僕には『楽しみ』と言ってくれる言葉が嬉しかった。
 頻繁に作業通話をしてると、常に話題があるわけじゃない。
 イラストを描きながら、沈黙の時間もある。
 それでも『綺麗……』とか、そんな声がたまに漏れ聞こえてくるだけで、嫌な沈黙とは感じない。
 やがて色塗りも進んできて、修正を繰り返し形になってくる。
『本当に、凄い……。七草兎さんの努力と丁寧な性格が現れてるみたい』
「そんなでもないよ? 評価もそこまで高くないしさ。性格は感情の機微とかに敏感だって言われるから、それがイラストの丁寧さに繋がってるといいんだけど」
『きっと伝わってるよ。私にはイラストの上手い下手は分からないけど、好き』
 好き。
 琴のように美しい声音から発せられたその言葉に、ペンを持つ手が一瞬とまる。
 彼女は無意識だ。僕自身に言った言葉じゃない。イラストに対してだ!
 そう言い聞かせ、熱い顔と動揺を悟られないように作業を再開する。
 僕の努力とかを認めてくれただけじゃなくて、好きとまで言ってくれるなんてさ……。
 もう、嬉しすぎておかしくなっちゃいそうだよ。
 いつもは悩んで止まりがちなペンも、彼女の意見を聞きながらスラスラと進んでいく。
 こんなスムーズに描けたことなんて、今までなかった。
 やっぱり波希マグロさんは僕の中で……。
 いや、抑えろ。
 感情を暴走させて、この関係を壊したらダメだ!
 ひたすらに作業を続け――。
「――よし、完成!」
『お疲れ様! 本当、綺麗だよ! 色がこんな鮮やかで、淡い光も綺麗!』
「ありがとう。こんなに筆がのるというか、早く描けたの本当に初めて! あ、というか、もう日付がとっくに変わってる! 眠くない!?」
『本当だ! みとれてて全く気がつかなかった。眠くならなかったしね!』
 いつも早寝で、寝落ちさえしてしまう彼女らしくない。
 それぐらい、本当に退屈せず見ててくれたんだろう。
 もう、嬉しすぎて……。
 気持ちが溢れ出しそう。
「眠かったら無理しないでね? 時間的には遅いけど、SNSの投稿どうしよっかな」
『いつもは夜に投稿しないの?』
「うん、アクティブユーザーが多い帰宅時間から夕食直後ぐらいの投稿が多いかな?」
『だったら、偶には深夜の投稿もいいかもね! 土日だし、起きてる人とか多そう。七草兎さんの投稿を普段見ない人の目にも入るかも?』
 それは確かに。
 SNSで皆が活発な時間は、見てる人も多いけど投稿が流れるのも早い。
 この時間なら、普段は僕の投稿を見てない多くの人の目に入るかもしれないな。
「了解。そんじゃ、転載禁止とかユーザー名を書き加えて投稿……っと」
 悲しいことに、こういう注意を払わないとイラストを無断転載したり、自分が描いたと言う人も出て来る。
 僕の描いたイラストで、そんなことをする意味があるのかな~とか、思うけど……。
 他にイラストを描いてる人の迷惑にもならないよう、ルールを守って投稿する。
 ルール……。
 ネットで知り合った人に特別な感情を抱くのは、ルール違反じゃない……のかな?
『投稿できた?』
「う、うん! できた、できたよ!」
『なんで焦ってるの? あ、描き上がった興奮か。いいものが見られたなぁ。私、幸せ』
 僕も幸せ。
 そう言うのも、彼女とは意味合いが違う気がして……。
 思わず、口を閉じてしまう。
『七草兎さん、疲れてる?』
「そう、だね。……こんなに集中して打ち込めたのも初めてだったからかな。少し休憩」
 僕はスマホだけ持って、ベッドへ横たわる。
 腰と肩がバキバキだ。
 試験が終わったばっかりで、なんだかんだ精神も疲れてたのかも。
 いい感じに肉体も精神も疲れてたのか、布団へ吸いこまれるように気持ちいい。
 そこに彼女の声で労う言葉までくれるもんだから……。
 夢見心地ってのは、こういうことを言うんだろうな。今、天国にいるのかもしれない。
『休憩も大切だね。……ね、七草兎さんはさ、なんで私に声をかけてくれたの?』
「それって、生声劇をやりませんかって誘った時?」
『そう。私、誘われたことなかったからさ。それまで、ちょっと寂しかったんだ』
「そりゃ、声をかけにくいでしょう……」
 アカウントを登録してから、多彩かつ圧倒的な演技力で、すぐにランキングトップアカウントにまで登り詰めた人だよ?
 置かれてるコラボ募集動画にコラボ録音することはできても、生声劇に誘うには仲良くなってからじゃないと普通は無理だよ。
 あれ、そう考えると……僕って普通じゃない?
「僕、普通じゃないのかな?」
『普通とかは分からないけど、私は凄く嬉しかった。……救われた』
 前にもサラッと聞いたけど……。彼女が時々口にする救われたって、なんなんだろう?
『私、七草兎さんと繋がれてよかったな。演じないのが嫌で、勇気を振り絞ってネットの声劇を始めたの大正解だった』
「今までネット声劇とかやろうと思わなかったの?」
『通ってたスクールで禁止されてたから。デビューの時に、未熟な時の演技が残ってると不利になるかもだからって』
「そうなんだ。初めて聞いたな。……厳しいスクールだったんだね」
 つまり、彼女がスクールを辞めたのは――アカウントをつくる直前なのか。
 そう遠くない過去、だな。
 段々と意識が、ぼやっとしてきた。
 やっぱり、疲れてたんだろうな。
 布団に入ってるし、もう電気を消そう。
 いつもは波希マグロさんが寝落ちして『ごめん、気がついたら寝ちゃってた!』って謝ってくるから。
 たまには僕が寝落ちした方が、波希マグロさんも気を遣わなくなるよな。
 何より、眠りにつく瞬間まで彼女の声を聞けたら……それはもう、最高だ。
『凄く厳しかったけど、熱心に育ててくれる場所だったよ。……先生たちとか、通わせてくれた家族には凄く感謝してる』
「そっか。僕の家もスクールとか機材にかかる費用の返済計画を立てさせるぐらいには厳しいけど、凄く感謝してるんだ」
『そうなんだね。返済するのに文句の一つも言わないとか、やっぱり素敵な人だなぁ……』
 どんどんと眠くなってきた。
 まるで優しいオルゴール……。いや、それよりも心地よく、眠りに誘う声だ。
「波希マグロさん程じゃないよ」
『……私は、七草兎さんみたいな素敵な人じゃないよ。ダメダメで、意気地無し』
「そうなの? 僕は好きだけどな……」
『……え?』
 明らかに戸惑う彼女の声に、寝ぼけてる頭で何を言ったか考える。
 そして――目が一気に覚めた。
 今、僕は波希マグロさんに好きって言っちゃった!?
 ネットで知り合った関係だからって、ずっと感情に蓋をしてたのに!
 ゆ、油断した!
「いや、あの! ごめん! 眠くて、つい本音が!」
『ほ、本音……。え、え!? つ、つまり、それって私のことを? え!?』
 彼女は明らかに混乱してる。
 音声越しに聞こえる言葉が、もう言葉になってない。
 何かを落としたような、物音も響いてくる。
「い、いや、その! あの、これは……」
 どうしよう、どうしよう!
 ここで「違う、勘違いだよ」って言ったら、彼女に魅力がないみたいになる。
 そもそも、勘違いでも何でもない。
 これが一番の問題だ。
 どう言うのが正解なんだろう!? 
 迂闊な発言をした自分を殴りたい!
 ネットで繋がった関係。顔も名前も、お互いの氏素性も分からない。
 それなのに、こんな気持ちを抱くなんて……。やっぱり僕は、おかしいのかもしれない。
 だけど――。
「変だよね。ネットで会った人にこんなこと言われるなんて……。気持ち悪い、よね?」
『き、気持ち悪くない。……変わってるのかもしれないけど、七草兎さんが気持ち悪いなんて思えないよ』
 本当、なのかな?
 内心、嫌がられてたら……どうしよう。
 迷惑と思われてたら……。
 いや、でも。
 寝落ち通話までしてくれて、二ヶ月以上も毎日のように連絡を取り合う仲で……。
 もしかしたら、脈はあるのか?
 恋なんて初めてで、しかもネットで知り合った関係とか……。
 もう、正解が分からない。
 でも、ここまで来たら後戻りなんて――できない。
 僕は根性と行動力だけが取り柄だろう。彼女が迷惑じゃないなら……勇気を振り絞れ!
「す、好きなんだ」
『…………』
「初めて会った時は、憧れの存在にどきどきしてるだけだと思った。でも、誰も認めてくれなかった僕を認めて、庇ってくれて……。惨めでも足掻く絶望に近い日々から、僕を救ってくれた。波希マグロさんは、僕に希望をくれた! ネットで出会った人にこんな感情を抱くなんて、よくない。友達になってくれた波希マグロさんへの裏切りになるかもって、ずっと感情に蓋をしてたけど、本当は大好きなんだ! 君がいない生活なんて、もう考えられない!」
 一度、蓋をしてた感情をさらけ出すと決めたら、一気に溢れ出てきた。
 抑えられずに早口で捲し立てちゃったけど、聞き取れたかな。引かれてないかな。
 ああ、こんなにも必死に訴えかけるぐらい、僕は波希マグロさんのことが好きなんだな……。
 本名すら知らない彼女のことが、僕は大好きだ。
「だ、だから……。付き合いたいとすら思ってる! 君の幸せそうな声を、ずっと聞いてたい! 気持ち悪いと思われても仕方ないけど、それが僕の本音なんだ!」
 よくないクセがでた。
 人から話すと時々、暑苦しいと言われるのは……こういうところだよな。
 もう、スマホを持つ手が震えすぎて止まらない。指先まで脈打って感じる。
 暗い部屋の中、スマホの明かりだけ灯ってるのが……凄く不安だ。
 七草兎さんの声が返ってこない時間が、信じられないほど長く感じる。
 無言の時間。
 僕の心臓の音、マイクが拾ってないかな。
 嫌われて、この関係が終わったら……。
 彼女を傷つけたら、僕は自分が大嫌いになる!
『――……ぅ』
 ほんの僅かに聞こえた声は――鼻を啜り、声を押し殺して泣いてるような音だった。
 ああ……。
 僕は、やってしまった。
 大恩人で、たまらなく大好きな人に嫌な思いをさせて……。泣かせてしまった。
 僕は、彼女の幸せそうな声を聞きたかったはずなのに。 
 音声の先で、彼女が笑ってほしいと願っていたはずなのに。
 それだけだったの、はずだったのに。
 取り返しのつかないことをしてしまった。
「……本当に、ごめん。泣く程に気持ち悪くて、嫌だったよね」
『……違う、違うんだよ』
「でも、明らかに泣いてるよ。……波希マグロさんは優しいから、強く断れないよね。ごめん、もう僕からは連絡をしな――」
『――違うの! この涙は、本当に違うから!』
 違うって……。
 そんな悲しそうな声をしてて、何が違うんだろう。
 罪悪感で胸が押しつぶされそうだ……。
『……私、自分が情けなくて』
「波希マグロさんが、情けない?」
『……うん。こんな私なんかじゃ、ダメだって。七草兎さんみたいに夢へ向かって、折れずに挑戦をする素敵な人の気持ちを、受け入れちゃダメだって。……断らないとって』
「そっか……。そっか……」
 あれだけ高鳴っていた心臓が、急に静かになる。
 肌から血の気が引いていく。
 頭が全然、回らないけど……。
 要は、どう断るべきか悩んで、混乱して。
 それで彼女は泣いているのか。
 これが初めての失恋、か。泣きそうだけど、僕が泣いちゃダメだ。
 泣きたくて堪らないのは……。ネットで知り合った僕から一方的な想いを告げられた、彼女なんだから……。
 通話を切るまでは堪えろ、僕……。
『断るべきだって、頭では分かってるのに、ね……。断ると考えると、悲しくなっちゃって……』
 断ると考えると、悲しい?
 つまりそれは、友達関係も同時に終わるのを悲しんでくれてるのかな。
 どこまで彼女は優しいんだ――。
『――私も、同じ気持ち……』
「……ぇ」
 今……。
 僕と同じ気持ちって。そう、言ってくれたのか?
『だけどね、私は問題だらけで……。勝手な気持ちだけで、七草兎さんを振り回すなんて――』
「――振り回されるのには慣れてる!」
『……ぇ』
「僕の部活やら便利屋扱いされてる話はしたでしょ!? 僕は振り回されてもいい! 波希マグロさんが幸せに笑えるなら、振り回されるのを迷惑なんて思わない! どんな問題も一緒に乗り越えたい!」
 熱を失っていた指先が、顔が……また熱くなってきた。
 事情は分からないけど、波希マグロさんも僕を好きだと言ってくれた。
 ネットで出会って、住んでるところも離れてるはずだ。
 遠距離恋愛とか、色々な事情を気にしてるのかもしれない。
 でも――。
「お互いに好き合ってる気持ちが同じなら、僕は君の笑顔のためになんでもする! それぐらいの覚悟がなければ、ネットで知り合って顔も知らない人に告白なんてしない!」
『七草兎……さん』
「嫌なら、嫌でもいい。気持ち悪いなら、気持ち悪いで構わない。二度と近付くなっていわれるなら、そうする。だから……ちゃんと、君の素直な気持ちを聞かせてくれないかな?」
 スピーカーから、重苦しい沈黙と啜り泣く声が聞こえてくる。
 どんなキツイ言葉を投げつけられても、覚悟はできてる。
 その切っ掛けをつくったのは、僕なんだから。
『私なんかで……。目も当てられないぐらい問題だらけの私なんかで……。本当に、いいのかな?』
「君じゃないと、ダメなんだ」
『……なんで、そこまで』
「僕の……初恋だから、です」
 ネットがなければ繋がりなんてなかったはずなのに、運命を感じたほどの人だから。
 今まで誰からも都合よく利用されてばっかりの僕を救ってくれた、君だから。
 初めての感情をくれた、君だから。
 笑顔にしたいと心から思った、君だから。
 理由を挙げれば、いくらでもでてくる。
 でも、端的に……。やっぱり、普通じゃない出会いと分かってても、好きで仕方ないからだ。
「俺と……付き合ってくれませんか?」
『……断れない、断りたくない』
 ゴクリと、唾を飲みこむ。
 これ以上ぐいぐいと押すのは、よくないと思う。
 彼女が、彼女の意思で決断してくれるのを待つ。
 それは数秒か、数十秒だったのか――。
『――よろしく、お願いします』
 彼女から、肯定の声が返ってきた。
 全身を走り抜けるような昂揚感が、全身を駆け巡る。
 待ち望んだ彼女の声が鼓膜へ響いた瞬間、脳に幸せが満ちた。
「よかった……。よかった! あの、その……。きゅ、急に戸惑うようなこと言って本当にごめん! でも気持ちを受け入れてくれてありがとう!」
『私こそ。こんなに、こんなにも想いがこもった告白は、初めてだったよ……』
「その……。これからは、彼女と彼氏ってこと、だよね?」
『そう、だね。そうなります、ね?』
 照れた彼女の声に、僕まで恥ずかしくなる。
 暗い室内、眠気なんて吹き飛んだ代わりに、身体中が興奮して止まらない。
 どうしよう、どう接するのが正解なんだろう。
 とりあえず、挨拶?
「これから……よろしくお願いします」
『あ……。私こそ、文字どおりの不束者で本当に迷惑とか不便をかけると思うんですが……。よろしくお願いします』
「……お互い、敬語ですね」
『そう、ですね』
「……戻そっか?」
『う、うん。そうだね、戻そう!』
 なんだろう、この会話。
 顔から火が出そうな程に恥ずかしいんだけど?
 これが誰かと付き合うって感覚、なのかな。
『あ、あの! 寝よっか! 七草兎さん、眠かったんだもんね!?』
「そ、そうだね! 波希マグロさんも、いつもは寝てる時間だもんね。夜更かしは、よくない!」
『じゃあ……お休みなさい』
「うん、お休み」
 彼女との通話が切れたディスプレイを見つめる。
 何時間と続いた通話。
 僕の迂闊な発言から、予想外の事態になったけど……。
 その時、チャットで『本当に、凄く嬉しい。問題だらけでちゃんと彼女できないかもだけど……。チャレンジしてみるから! ゆっくり寝てね。お休みなさい』とメッセージがきた。
 彼女が、どんな問題に悩んでるかは分からない。
 もしかしたら、ネットからの出会いなんて認めないとか、親に言われるのかも?
 僕も、親になんて説明したらいいか分からないし、それはそうか。
 ああ、でも……。
「……めっちゃ、嬉しい」
 返事のメッセージを送り、布団に入る。
 スマホを握り続け、意識が途切れるまでメッセージのやり取りをしていた――。
 翌朝。
 アルバイトに行く前に母さんと朝食を作る。
 休日ぐらい手伝いをしないと、借金も増額させられるからなぁ。
「……あんた、その顔どうしたの?」
「ん? 何が?」
「何がじゃないわよ。ニヤニヤしてて、気持ち悪い」
「酷い」
 母さんから指摘されるぐらい、僕はニヤついてるのかな?
 そうかもしれないな。こんな日がくるなんて思ってなかったから。
 大好きで仕方ないと思える人が彼女になってくれる日がくるなんてさ。惨めでも踏ん張ろうと思って生きてた少し前からは考えられない。
 食事ができる頃になって、父さんがゴミ捨てと庭掃除から戻ってきた。
 家族全員が揃ったし、テーブルにお皿を運ぶか。
 そうして全員が席について、食事を食べ始める。
 いつ切り出そうかと悩む。
 説明するとしても、どう説明するか。
 どう反応されるか怖い。
 でも――根性と行動力だ。
「あのさ、僕に彼女ができたって言ったら……驚く?」
 両親の箸が、ピタリと止まった。そうして真剣な瞳で僕を見据えてくる。
 うわ……。紹介しなさいとか言われるのかな。
 ドラマや映画とかだと、そんな感じだもんな。
「晴翔、どこの詐欺師だ?」
「あんた、人の良さにつけ込まれてるのよ。騙しやすそうだもの。今、いくら請求されてるの?」
「親からの信用が無さすぎて悲しいよ、僕は」
 もうちょっと、他に言うことがあるでしょ?
 二人して、いきなり詐欺を疑うとか……。
 いや、今まで散々人に利用されてきた僕を知ってるからな。
 心配してくれてるってことだ。多分、きっと……。
「その、実は……。紹介は、できないんだ」
「やはり詐欺か」
「警察に連絡しましょう。実害はどれぐらいでたの?」
「違うわ。ネットで知り合った一個下の、普通の子だわ」
 あ、やばい。
 あまりに二人が疑うから、思わずネットで知り合ったとか言っちゃった。
「ふむ。ならば開示請求からか」
「訴えるにしても、証拠と予算がいるわね」
「違うから! 気にするところは、そこじゃないでしょ!?」
「ネットからの恋愛詐欺なんて、常套手段じゃないか」
 それは――知らないけど!
 いや、確かにそういうニュースはよく見るけどさ!
 だから僕も言いにくかったのに!
「一度は断られそうなのを僕が付き合ってくれって言ったの! 僕が騙されてる側じゃない! 彼女が騙され――……。騙してないけどさ!」
「晴翔から? そういう感情になるよう仕向けられたのか?」
「あんた、チョロいものね。人のために尽くすとか、程々にしないからこうなるのよ。いつも言ってるでしょう。あんたのやりたいことを、全力でやりなさいって」
「いや、だから! 違くて!」
 結局僕は、彼女とネットで出会い、どういう関係を経て付き合ったかを一から説明する羽目になった。
 朝から両親に、初恋の全てを告白とか……。
 罰ゲームにしても、キツすぎるよ。
 僕が自爆したからなんだけどさぁ……。
 波希マグロさんを詐欺師呼ばわりされたら、こうもなるよ――。
 アルバイトと夢に向けた練習、そして親への説明。
 あとは彼女との通話で休日は終わった。
 なんだか休んだ気はしないけど、とりあえず両親は「特殊だから、その都度必ず相談しなさい」と言って、日曜の夜には遠距離恋愛を認めてくれた。
 遠距離といっても、波希マグロさんが何処に住んでるのかも知らない。
 本名も互いに知らない。
 順序がバラバラだとは両親にも言われたけど……。うん、本当にそう思う。
 今夜辺り、彼女に聞いてみるか。
 今までの友達関係なら一線を越えた質問だろうけど、彼氏彼女なら……いいはず。多分。
 彼氏、彼女かぁ……。
 波希マグロさんが、僕の描いたイラストをアイコンに使ってるのを眺めるだけで、頬が緩む。
 そんなことを考えながら、テストの返却ばかりの授業を終え――部活の時間。
「おい、晴翔」
「武内君? どうしたの?」
 誰よりも早く部室に向かおうとしてたら、廊下で武内君に声をかけられた。
 この間の定期公演でも見事な演技を披露して、僕とは違う光の当たるステージの住人が何のようだろう。
 雑用でも頼まれるのかな?
「……何を浮かれてやがった?」
「う、浮かれてたかな?」
「プロ志望の演技者、なめんなよ。人の表情の観察も力の一つだっての」
「ご、ごめん」
 そうだったのか。
 二年生も半ばになってたのに、武内君の進路希望すら知らなかった。
 あんまり話すこともなかったしな。
 でも……。プロ志望か。
 自分の目指すべき道を見つけて、ひた走るのは格好良いなぁ。
 僕なんて、まだ自分の適性とか、本当にやりたいことを探してる段階なのに。
 武内君は、僕の胸にバサッと紙の束を押し当ててきた。
 このゴミを捨ててこいってことかな?
「早く取れよ」
「……え。これ、台本?」
 手渡されたのは、ホチキスで止められたト書きの台本だった。
 ぱらっと見てみたけど、内容に覚えがない。
「ああ。部長が書き下ろした新作台本らしい。舞台道具も、今あるものでやれる台本らしくてよ。夏休み明けすぐにやるらしいから、立候補したい役を練習しとけよ」
「……部長が書き下ろした、新作台本?」
「おう。ここだけの話、部長が書いた台本、あんま感情移入できないんだけどな……。性格的に、人物造形が苦手なんだろうな。俺についてこいってタイプだからさ。演出家能力はスゲぇんだけど……」
 いや、聞きたいのはそこじゃない。
 万年、裏方仕事しかやらせてもらえず、雑用としてギリギリ使ってもらえてるような僕だ。
 なんで台本を渡してきたのか……。
 裏方でも、普通は作業とかのために台本ぐらいもらえるものなんだろうけど、少なくとも僕はもらったことがない。
 基礎練習用の冊子とか、決定された準備や設営リストを事後通達でもらうぐらいだ。
「あの、僕に台本を渡しても……。その、立候補できるだけの実力は……。見た目も、こんなだし」
「あのなぁ……」
 武内君は、僕に詰め寄ってきた。
 僕より少しだけ身長の低い武内君が、見上げながら睨んでくる。
「舞台に上がってたら、周りも観察して微妙に演技を変えんだよ。だから、俺は分かってるんだ」
「……何が?」
 一歩後ろに下がって尋ねる僕に、武内君は小さく溜息をついた。
「晴翔の目に、いつも悔しいって書いてあるのにだよ」
「……え?」
「その目立つルックスってのは、確かに有利なだけじゃねぇ。逆に演技力も求められる枷になる。だけどよ、配役決めのオーディションに参加しない言い訳にすんな」
「武内君……。僕を、そんなに見ててくれたの?」
 そう聞くと、武内君はハッと鼻で笑った。
「勘違いすんなよ。晴翔だけじゃねぇ。舞台からは、全員を見てる。観にきてくれる人、全員を楽しませられるようにな」
「……そう、だよね。やっぱり武内君は凄いね。文化祭で引退する先輩たちから、もう既に次期部長って指名されるわけだ」
 武内君は、少しだけ染まった頬で顔を背けた。
「……うっせ。いいから、練習しとけ。三年間ずっと裏方しかしないなんて、勿体ねぇだろ」
「うん、ありがとう! 頑張る!」
「言っとくけど、俺と希望の役が被ったら諦めろ。俺は絶対に譲る気はねぇからな!」
 そう言い残して、武内君は早足に部室へ向かって行った。
 これは、しっかりと読み込んで練習しないとな。
 いつもオーディションがあるのは知ってたけど……。
 見込みがある人には事前に台本を渡す慣習みたいのがあるのかもしれない。
 あるいは、部長が書き下ろした新作台本の完成が嬉しくて、近しい人には先に渡したか。
 うん、これが一番可能性がありそう。
 イラストもだけど、完成したら誰かに見てもらって感想をもらいたいものだから。
 僕も波希マグロさんに見てもらうと嬉しくて創作意欲も――って、今はそれを考えちゃダメだ!
 せっかく武内君がここまでしてくれたんだ。
 下手なりに、何かやりたい役に挑戦してみないと。
 それには、まず読み込み!
 オーディションは……。
 オーディションって、何をするんだろう?
 どうアピールすればいいんだろ?
 声優スクールの実力判定テストみたいに、セリフや朗読の内容が指定されてるわけじゃないし。
「波希マグロさんに、相談する事が増えたなぁ……」
 劇団に所属してた彼女なら、知ってるかもしれない。
 浮つきそうな気持ちを抑え、大切に台本を鞄にしまって部室へ向かう。
 良いことは、連続するのかもしれない――。
 そうして迎えた夜。
『へぇ! よかったね! いい仲間と演劇できるのは、最高だよ』
「うん……。正直、武内君から台本渡されるとか、凄く意外だったけど」
 もらった台本を手に、波希マグロさんと通話を繋げていた。
 彼女にオーディションについて聞いてみると、人物のワンシーンを実際に演じる方法が多いらしい。
 もっとも、外見が監督のイメージや人物設定と違うと、演技力が高くても配役をもらえないことも多いらしいけど。それに、オーディションで受けた役とは、違う役を任されることもあるとか。
『まずは読み込みだよね。ん~、やっぱり劇って最高だよね。いいなぁ……』
「波希マグロさんは、もう声劇以外はやらないの?」
『……うん。そうなっちゃう、かも』
「そっか。あのさ、この人物の過去について想像してみたんだけど、意見を聞かせてもらってもいい?」
 彼女の声が曇ったのを感じて、話題を変える。
 既に台本はPDF化して、チャットで波希マグロさんにも送った。
 彼女は小さく「ありがとう」と呟いてから、一緒に僕が目を付けた役の過去と現在について考察してくれる。
 どういう意図、思いで現在のセリフを言うに至ったのか。
 セリフに込められた思いを分析していく。解釈は様々で、意見交換は楽しい。
 そんな中で思うのは――やっぱり彼女は、劇団や声優スクールを辞めたくなかったのかもしれない。
 もしくは、未練があるんだろうってこと。
 ずかずかと踏み込むには、重い部分かもしれない。
 彼女の声に耳を傾けていれば、そう思ってしまう。
 劇団の役者とか声優は、プロとして一本で食べていくには厳しい世界だ。
 辞めざるを得ない、道を断念せざるを得ない理由なんて、いくらでもある。
 うちの親だって、僕が声優やイラストレーター……。アニメとか舞台みたいなエンタテインメントに関わる仕事を目指したいと言った時、いい大学へ進学することを条件にしたぐらいだ。
 夢を追うのはいいけど、簡単に叶わないから夢。
 だからこそ、長く夢を追いつづけられる安定した環境作りも努力の一つだって。
 だから僕は、応援しつつも色々な道を一緒に考えてくれる両親に感謝してる。
 ん? 両親といえば――。
「――あ! そうだ!」
『ぅんっ!? ビックリしたぁ~。どうしたの? 急に大っきな声で』
「いや、今日両親に波希マグロさんと付き合う許可をもらえたんだよ!」
『そ、そうなんだね……』
 この反応、少し……戸惑ってる?
 いや、この声は……。気後れのような感情、かな?
 多分、波希マグロさんは、両親にまだ僕たちの関係を話してないんだろうな。
「なんか両親が、波希マグロさんを恋愛詐欺師みたいに言ってさ~。まぁ昔から僕が利用されやすいのがいけないんだけど……」
『わ、私は……。その』
「うん、違うよね? でも住んでるところも本名も知らないって言ったら、唖然としてて」
『住んでるところと、本名……』
 歯切れが悪い?
 あれ、もしかして……。言いたくない?
 分からない。
 ネットから付き合い始めた人たちの距離の詰め方が、僕には分からない。
「あの……。聞いちゃダメだったかな?」
『ううん! ダメじゃない! 七草兎さんが詐欺師に騙されてるって思われるのは、私も嫌だもん。私自身のことは、なんて言われても構わないけど……』
「それはよくないよ。波希マグロさんが恋愛詐欺師呼ばわりされてほしくない」
『あ、ありがとう。でも……本名は、ごめん。住んでるところは、だいたいなら! うん!』
 本名は言いたくないのか。
 そういうものかもしれない。
 ネットで本名を調べたら、色々と特定されるかもしれないからな。
 付き合い始めたばっかりで、そこまで信用してくれと言う方が無理な話だ。
「全然、それだけでいいよ! あ、僕は愛知県の春日井市ってところに住んでるんだ。知ってる?」
『ごめんね、分からないや。私は東京都の八王子市ってところに住んでるよ』
「そっか、教えてくれてありがとう! 波希マグロさん、実在したんだね」
『なにそれ、実在してるよ~』
 やっぱり彼女は、笑い声の方がいい。
「実在する人で安心した。うちの両親ちょっと変わってるんだよね。感謝してるし好きなんだけどさ」
『私も家族に感謝してる。ちょっと、かなり過保護なところあるけどね』
「へぇ~! 愛されてるんだね!」
『うん、怖いぐらい愛してもらってると思うんだ~。たまに暴走するけどね!』
 こうやって少し冗談を交えながら、ゆっくりと互いを知っていきたい。
 リアルで出会った恋愛すら知らないのに、ネット発の恋愛なんて手探りもいいところだ――。
 そうして彼女と付き合い初めてから、一週間ちょっとが経った。
 もう夏休みに入る。
 クラスは夏休みの予定とか、どこに遊びに行くかなんて話ばかりだ。
 付き合ってる人たちの中には、人目なんて気にせずスマホで調べながら出かける予定を立ててる人たちすらいる。
 それを聞いて、僕は少し焦る。
 住んでる市区町村以外、全く彼女のことを知らない。
 本名を僕だけでも教えようとすれば、頑なに断られる。
 ビデオ通話だって、全力で断られた。
 それはもう、尋常じゃないぐらいの様子で。拒絶反応とも言えるぐらいだった。
 それが妙に、心にへばりついて残って……。
 ネットから知り合った交際相手だから、警戒されるのも当然。
 だけど、本名を知られることやビデオ通話をこうも強く拒絶されると、ちょっと悲しくもなる。
 思えば――付き合ってから、彼女と彼氏らしいことはしてないな。
 僕から好きだとは言っても、彼女から好きと言われたことはなかった。
 それが不安じゃないと言えば……嘘になる、か。
「やっぱり彼女は、優しさから僕と『同じ気持ち』って言ってくれたのかな……」
 台本を読みながら、ついつい波希マグロさんのことを考えてしまう。
 顔を合わせれば、分かるはずなのに。
 いくら人の感情の機微に敏感と言われる僕でも、声だけだと憶測しかできない。
 ネットで『遠距離恋愛』や『ネットからの出会い』について検索をかけてみると、オフ会という単語が目に入った。
 それはネットで出会った人同士が、実際にオフライン――リアルで会って遊んだりすること。
 これなら顔も合わせられるから、彼女の真意も分かるかも知れない。
 その日の夜、僕は日課になってる通話で彼女にオフ会を切り出すと決意した。
 一緒に生声劇を楽しんでから通話を繋ぐと――。
『――生声劇、楽しかったね! あの台本主さん、本当に素敵な物語を書くよね。やっぱりキャラの考察をしてるとさ、何通りも演じたいな~って思っちゃう魅力があるというか!』
「うん、楽しかった。コメント欄はやっぱり、僕が足を引っ張ってるって指摘だらけだったけどね。波希マグロさんの演技、本当に凄かった。共演してるこっちが感動しちゃうぐらい」
『もう、劇は演者も楽しむことからなんだから。そんなの気にしない! 前より上手くなってるし、楽しもうよ!』
「そうだね。……前より上手くなってるなら、練習を続けててよかった。波希マグロさんにも個別指導してもらってるお陰かな?」
 一緒に生声劇を終えた後、波希マグロさんは劇後の余韻からか、幸せで楽しそうだった。
 そんな嬉しそうな声が聞こえると、僕まで幸せになる。
『私の指導なんて、そんな偉そうなもんじゃないよ~。未熟もいいところなんだからさ。七草兎さんと一緒に練習してるだけだよ!』
「そっか。そう言ってくれると、嬉しい」
 だから、こんな幸せな空間を壊すような話をするべきじゃないのかもしれない。 
 でも、どうしても不安だから……。
 この気持ちを覆い隠したまま今の関係を続けるのは、彼女に嘘を吐いてるみたいで嫌なんだ。
「波希マグロさん」
『ん? どしたの?』
「好きだよ」
『……うん、ありがとう』
 やっぱり、彼女の声が陰った。
 最近の彼女は、少し情緒が不安定な気がする。
 声のレッスンに長く通って、演技を習ってるからかな。
 声だけでも、なんとなくは伝わるんだ。
 僕が女性として好きな素振りや発言をすると、劇で楽しんでるときと一気に変わる。
 辛そうで、悲しそうな声になってる。
 僕と付き合うのが、やっぱり嫌なら……そう言ってくれればいい。
 付き合い始めるとき話してたように、君が何か問題を抱えてるなら……。
 僕に話してくれれば、全力で力の限りを尽くすのに。
 この遠い距離での繋がりでは――こちらから聞くのも、タイミングが難しい。
 やっぱり、顔を合わせて話せさえすれば……。
「あのさ、今日学校で調べてて、面白そうなものを見つけたんだ」
『え、面白そうなもの!? 何それ、どんなの!?』
「……オフ会っていうんだけど、知ってる?」
『……ぇ』
 消え入りそうな声だった。
 それだけで自分がミスをしたと分かる。
「あ、ごめん。嫌だったよね!?」
『……ごめん。私、オフ会とかはできない』
「……そっか。そう、だよね。まだそういうのは、早いよね。知り合ってから半年も経ってないんだし! ごめんね、変なことを言ってさ!」
『…………』
 沈黙の時間が重い。
 手汗が滲んでしまう。
 スピーカーから彼女の声が返ってこない時間が、どうしようもなく苦しい。
 言った発言は、もうなかったことにはできない。
 それでも、時を戻せるなら――。
『……あの、ね』
「う、うん! 何!?」
『私たち……別れませんか?』
「ぇ……」
 頭が真っ白になった。
 それから――ストンと、何か腑に落ちた気がした。妙に納得した。
 そっか。やっぱり、僕と付き合うのは、苦しかったのか。
 だけど、さ……。
「……ねぇ」
『何?』
「なんで……別れようって言った方が、そんなに泣いてるの?」
『泣いて、ない。私に泣く資格なんて……。そんなの、全て私が悪いのに、そんな資格なんてないから』
 嘘だ。
 どう考えても、涙声じゃないか。
「僕のことが好きじゃなくなった……。いや、好きじゃなかったなら、それは僕の魅力が――」
『――そうじゃない! 七草兎さんは凄く魅力的で素敵な人! その気持ちは変わってない! これは、私の問題。私が全部悪いから、だから……』
 おかしい。
 そもそも好かれてなかったとか、嫌いになったとかじゃないのに……。
 なんで別れなきゃいけないんだ?
「僕のことが気持ち悪いとか、嫌だとかじゃないの?」
『違う』
「じゃあ……やっぱり遠距離恋愛とか、ネットからの出会いは厳しかった?」
『それも、違う。私のせい、私が弱くて、自分に勝てないから! だから、ごめんなさい……。本当に、本当にごめんなさい!』
 彼女は明らかに、取り乱してる。
 別れる理由だって『自分が悪い』、『自分の問題』ばっかりだ。
 それじゃ……僕だって、諦めきれないよ。
「僕が悪いなら潔く別れるけどさ……。その理由じゃ、僕だって別れようなんて言えないよ」
『ごめんなさい。本当に、ごめんなさい!』
「もう謝らないで。とりあえず、その理由なら別れ話は保留にしよう? 落ち着いてから、話そう?」
『うん、本当に、ごめ――……。分か、りました』
 僕が謝らないでと言ったからか、彼女は言葉を変えた。
「じゃあ、今日は切るね。気に病まないで、落ち着いて。……またね」
『……はい』
 通話時間の数字ばかりが増えていき、お互いに声を発しないスマホを見つめる。
 スピーカーからは、何も聞こえない。
 数秒、数十秒と時間の数字ばかり進んでいくのを見て――僕は、通話を切った。
「……どういう、ことなんだ」
 振られた。
 かと思えば、彼女は自分を責めてばかりで……僕への気持ちは変わってないと言う。
 どれだけ考えても分からず、頭を抱えてしまう。
 とりあえず、明日以降……。
 また連絡しよう。
 そうやって落ち着いてから、話し合おう。
 その結果、振られても仕方がない。
 それで彼女が幸せになるなら、それでいい。
 いいことは続くのかもしれないと思ってたけど……。
 いいことがあったからには――揺り戻しのように、嫌なことや不幸もあるのかもしれないな……。
 有名な人が『絶望の隣は希望です』とか言っていたけど、逆にいえば……。
 希望のすぐ隣には、絶望があるのかな……。
 そうして翌朝、終業式へ行く前に彼女へメッセージを送った。夜にも、謝るようなメッセージを。
 だけど……。
 彼女からメッセージや反応がくることは、もうなかった――。