天地が引っくり返る衝撃とともに、『私』は目覚めた。

「きゃあッ!」

 馬車と思しき狭い空間が何度も何度も回転する。
 地震!?
 いや、私が乗っている馬車が、崖か何かを転がり落ちているのだ。

 ――ヒヒーンッ!

 外からは、馬の悲鳴が聞こえてくる。
 ひときわ大きな衝撃とともに、回転が止まった。

「うっ」

 全身が痛い。

「……え?」

 自分の体を見下ろして、私は呆然となる。
 これは、誰だ?
 私はこんな綺麗なドレスなんて着たことがないし、アラサーの手指はこんなにつやつやしていない。
 それに、

「こっ、これは!?」

 ガラス窓に映った顔を見て、私は悟った。

「異世界転生だ!」

 いや、転生ではなく憑依かな?
 いずれにせよ、初手馬車滑落とはハードモードな。いや、

「この顔は! うおーっ、転生容姿ガチャ勝ったどーっ!」

 長くウェーブがかった銀髪に、淡い琥珀色の瞳。二重まぶたの上に載ってるまつ毛は超長い。まごうことなき美少女だ!
 年齢は十代前半くらいかな?
 勝ったながはは。ハードモードだなんて、とんでもない。これは優勝ですわ。
 異世界でショタっ子集めてぷにショタランド開園待ったなしですわ。

「って、熱っ! 熱い! 何で!?」

 馬車が! 馬車が火に包まれている!
 火事場のクソ力というやつで、私は馬車の扉を蹴破ることに成功した。
 外に飛び出す。

「助かっ――」

 ――ヒュッ、ガツン!

 目と鼻の先を何かが通り過ぎ、馬車に突き刺さった。
 これは、矢!?

「ひっ」

 私は思わず、その場に座り込んでしまう。

「グギャギャギャギャッ!」
「ゴブグギャ!」
「ギャギャギャ!」

 醜い姿をした小人――ファンタジー世界の定番・ゴブリンが3体、森の中から現れた。
 斧持ち、弓持ち、魔法使いっぽい杖持ち。
 杖の先には炎が灯っている。あの炎が、馬車を燃やしたのだろうか。

「に、逃げなきゃ」

 ダメだ、腰が抜けてしまって動けない。

「武器、何か武器になるものは――」

 ない。

「グゲゲ」

 ゴブリンたちが近づいてくる。

「い、嫌……嫌ぁ……」

 ゴブリンに捕まった子女の末路というのは、悲惨だ。
 私はゴブリンたちに向けて手をかざして、

「ファ、ファイア!」

 出ない。

「アイスアロー!」

 何も出ない。

「アイテムボックス」

 無駄だった。

 ゴブリンの1体が、私の腕を捻り上げた。

「嫌ぁ……!」

 死にたくない。
 いや、死よりももっとおぞましい目に遭うのだ。
 嫌だ! 絶対に!

「助けて……誰か助けて!!」
















「若奥様から離れろ!!」

 凛と響く声とともに、剣士風の少年が飛び込んできた!
 少年が剣を振るうと、ゴブリンが跳び退く。

「若奥様、下がっていてください」

 少年剣士が、私をかばう形でゴブリンたちに立ち向かう。
 分からないことだらけだが、どうやら彼は味方であるらしい。
 使い込まれた様子の革鎧と革兜に身を包んだ後ろ姿は、頼もしい。
 そうして、死闘が始まった。

「ゴブゴブ……ゴギャ!」

 杖持ちゴブリンが何かを詠唱した。
 とたん、巨大な火の玉が少年に向かって飛んでくる!
 私は動けない。どうすれば――

「ウガァァァアアァアァアアアアアアアアッ!!」

 少年がシャウトした!
 猛烈な風が巻き起こり、火の玉が押し返される。
 さらに、ゴブリンたちが金縛りにあったみたいに動かなくなった。

 少年がケモノのように身をかがめ、地を這うように突進する。

 3体のゴブリンのうち、斧持ちがいち早く金縛りから復活し、斧を振り上げる。
 が、遅い。そのころにはもう、少年がゴブリンの胴体を斬り裂いていた。

 弓持ちが矢をつがえ、私に向けて構える。
 が、弓が放たれるよりも、少年の剣が弓持ちの首を刎ねる方が早かった。

 最後の1体は、自分が放った炎に焼かれて転げまわっていた。
 少年は杖持ちが仰向けになったタイミングで、冷静にその喉を掻き切った。

 圧倒的。
 圧倒的な強さだった。
 たった十数秒の戦いで、私は死の窮地から救われた。

「若奥様、お怪我はございませんか?」

 少年が振り向く。
 少年は、とびっきりの甘ショタ美少年だった。
 けれど今の私には、『甘ショタサイコー!』とのん気に喜ぶ余裕はなかった。
 斧持ちゴブリンが起き上がり、少年に斬りかかってきたからだ!

「後ろ!」

 私の精一杯の警告に、少年は迅速に反応した。
 が、少年が剣を振り上げるよりも早く、ゴブリンの斧が少年に届いた。
 斧が革兜に当たり、兜が跳ね飛ばされる。
 だが次の瞬間、少年の剣がゴブリンの首を刎ねた。

「キミ、大丈夫!?」

 私は駆け寄り、少年の髪をぺたぺたと触る。
 良かった、血は出ていない。
 最後の一撃は、兜がちゃんと受け止めてくれたらしい。

「痛いところはない? ――って、その耳!?」

 耳! 犬耳!
 もふもふの耳が、ふわふわな茶色い髪の間から生えている!
 短めの茶髪、大きな二重まぶたの奥にあるのはくりっと愛らしい黒の瞳。まごうことなき甘ショタだ。

「す、すみません! お見苦しいものを」

 ワンコ少年が、ぺたっと耳を伏せる。
 革兜を拾い上げ、そそくさと被ってしまった。

「どうして? ぎゃんかわ――ゲフンゲフン、とっても素敵な耳じゃない。可愛らしいわ」

 顔を真っ赤にさせる少年。
 私も小柄なようだが、少年も負けず劣らず小柄だ。
 こんなに小さな体で、私を守ってくれただなんて。

「キミ、お名前は?」

「!?」

 あれ? 甘ショタがフリーズしてる。

「おーい」

「ハッ!? 失礼いたしました」ざざっとひざまずく。「オレのような下級兵の名をお尋ねくださるお貴族様など、初めてでございましたので」

 えー何そのブラック社会。
 ってか私、貴族なの? あー貴族だった気がするわ。
 なんか、『私』としての記憶がじんわりと浮かび上がってきた。

「オレの名はクゥン = バルルワ。バルルワ族の戦士であり、今は若奥様を守る任に就かせていただいております」

「クゥンきゅん! なんて甘々な名前!」

「きゅ、キュン? 甘々?」

「ごめんなさい、こっちの話。重ねてごめんなさい。名前を聞くなら、先にこちらから名乗るべきだったわね。私は――」

「存じ上げております」ワンコ少年――クゥン君が微笑む。「貴女様のお名前は、エクセルシア = ビジュアルベーシック = フォン = アプリケーションズ。偉大なるアプリケーションズ侯爵家の第31子にして、この度、我らが主・コボル = フォン = フォートロン辺境伯様の妻となられたお方です」

 エクセルVBA。何とふざけた名前だろう。
 私、エクセルシア16歳。
 没落寸前の侯爵家の末子で、借金のカタとしてフォートロン辺境伯に嫁ぐことになった。

 何というハードモード。
 この優れた容姿を差し引いても余りあるほどの、ハードモードだ。
 なんたって、フォートロン家は何十年もの間、アプリケーションズ家とライバル関係にあった家であり、私は売り飛ばされた身。絶対イジメられるじゃん。
 しかもよ?
 コボル = フォン = フォートロン辺境伯はすでに665人もの妻を娶っていて、御年56歳なのである!
 終わったわ、私……。

「あの、若奥様?」

 私が遠い目で青空を見上げていると、ワンコ少年剣士ことクゥン君が話しかけてきた。恐る恐るといった様子で、

「若奥様を危険に晒してしまい、本当に申し訳ございませんでした。無理にでも、若奥様のご実家までお迎えに上がるべきでした」

 私はクゥン君から説明受ける。
 クゥン君は私の専属護衛騎士。
 彼は私を出迎えるために辺境伯領都で待っていたが、約束の時間である正午を回っても馬車が来なかった。
 不安になった彼は街道奥深くの森まで私を探しに来てくれて、あわやゴブリンに攫われるところだった私を助けてくれたというわけだ。

「クゥンきゅん最高! 命の恩人! 甘ショタ!」

 私は感極まってしまって、思わずクゥン君を抱きしめる。
 身長は私が155センチ、クゥン君が150センチくらいだろうか。

「――って、そんなことよりも!」

 私はクゥン君から体を離す。
 真っ赤になっているクゥン君に対して、

「クゥン君、怪我してない? 大丈夫?」

「大丈夫です。若奥様にお救いいただいたので」

「何言ってるの、助けてもらったのは私の方じゃない。本当にありがとう」

 クゥン君の手をぎゅっと握ると、クゥン君の尻尾がぶわわっとなって、

「もったいなきお言葉! この先、オレが若奥様より先に死ぬことはあり得ません」

 え、何それ突然のプロポーズ?
 あ、違う。護衛として死んでも守るって意味だわ。重っ、激重っ!

 居心地が悪くなって、私は視線をそらす。
 すると、今なお激しく燃え続けている馬車が目に入った。
 視線を上げると、坂の半ばで馬が倒れ伏していた。

「あの馬は」クゥン君が少し悲しそうな顔をして、「もう、息絶えています。立派に戦い、若奥様を守ったのです。名誉の死です」

「……そう、ね。あっ、御者さんは無事かしら!?」

「あのぅ」

 そのとき、心底申し訳なさそうな声とともに、木々の陰から初老の御者が現れた。
 御者は震える手に剣を携えている。護衛も兼ねているのだ。

「ご無事でしたか、お嬢様?」

「貴様、護衛が真っ先に逃げ出すなんて」

 クゥン君の怒りで、空気がビリビリと震える。
 御者が尻餅をつく。

「まぁまぁまぁ」

 私はクゥン君を後ろから抱きしめる。

「ステイステイ。ゴブリンが3体も出てきたんじゃ、逃げ出したくもなるって。そもそも魔物が出る森を護衛兼御者1人で渡らせようとする、私の実家の方がオカシイんだから」




   ◇   ◆   ◇   ◆




 馬も馬車も失ってしまったので、徒歩で領都に向かう。
 私は、先導してくれるクゥン君の背中を――私よりも背丈の低い、なのにとても大きく感じる背中を見つめる。
 街道は森に飲み込まれそうになっていて、昼なお暗い。
 いつ魔物が飛び出してくるかも分からないこの世界で、彼だけが私を助けてくれる唯一の存在のように思えた。
 訳も分からないまま異世界転生して、いきなり殺されかけて。
 ヒステリックに泣き叫ばずにいられたのは、クゥン君がいてくれたからだ。

 この子は、突然異世界に放り出された私の、命綱。
 私の寄る辺だ。

 歩いているうちに何度か魔物と遭遇したが、いずれもクゥン君が一蹴してくれた。
 なんて頼もしいのだろう。こんなにも小さな、年端もいかない少年なのに。
 クゥン君を見つめていると、顔が熱くなり、胸が高鳴る。
 いやいや、何を考えているんだ私。
 相手は(前世も合わせると)一回り以上は年下の相手だぞ。
 そうだ、これは恋愛感情じゃない。吊り橋効果というやつだ。
 うん、そうに違いない。そういうことにしておこう。

「お疲れではありませんか、若奥様?」

「へぁ!?」

 そんな彼に突然話しかけられて、私はしどろもどろになる。

「だ、大丈夫だよ。クゥン君こそ疲れてない?」

「っ! オレは大丈夫です。鍛えておりますので」

 直立不動になり、キリっとした表情を見せてくれるクゥン君。だけど尻尾は正直で、ぶんぶんとものすごい勢いで振られている。
 そんな姿がかっこいいやら可愛いやらで、私はもう、たまらない。




   ◇   ◆   ◇   ◆




「壁たぁっか!?」

「フォートロンブルグは王国最前線ですから」

 大きな城門の前では、行商人風な人たちが列を成している。

「若奥様はこちらです」

 私が列に並ぼうとすると、クゥン君が遠慮がちに袖を引いてきた。

「貴族用の門です」

 先導するクゥン君に付いていく。

「獣人風情が、何の用だ?」クゥン君が近づくと、門番が顔をしかめた。「ここはお前のような汚らしいヤツが通れるところじゃない。病気が移るだろ、近づくんじゃ――」

 門番が顔を青くして押し黙る。
 私が取り出したハンカチ――そこに刺繍された、貴族家の紋章に気付いたからだ。

「行こう、クゥン君」

 私は、罵倒されるがままじっとこらえていたクゥン君の手をぎゅっと握る。
 クゥン君は驚いたような顔をしたあと、はにかむように微笑んだ。
 門番が、そんな私たちの様子を、目を丸くしながら見ている。

 ……だいぶ分かってきた。
 獣人って『そういう』扱いを受けているんだ。
 だからクゥン君は耳を隠したり、自分のことをやたらと卑下する。

 門の中に入ると、大通りはずいぶんと賑わっていた。

「それでは、お嬢様」御者が頭を下げる。「私はこれで。その、できれば……」

「分かってるわよ。貴方は魔物相手にけっして退くことなく戦い、私を守ってくれました」

 涙ながらに頭を下げる御者とは、ここでお別れ。
 そして、私たちは――




   ◇   ◆   ◇   ◆




「お屋敷でぇっか!?」

 侯爵家である実家・アプリケーションズ家と同等かそれ以上の、大きなお屋敷。
 クゥン君に案内され、屋敷の中に入る。
 深紅の絨毯、高級そうな調度品、キラキラのシャンデリア。
 豪華絢爛な屋敷の中はしかし、何やらどんよりとした空気で満ちている。
 これは……?

「一人はみんなのために、みんなは一人のために」

 いきなり、背後から声。

「ひえっ!?」

 慌てて振り向くと、顔色の悪い少女が立っていた。

「初めまして、エクセルシア令嬢。貴女の指導係を仰せつかりました、665番目の妻・クローネと申します」

 肩まで伸びたふわふわな金髪と、伏せがちな青い瞳。
 年のころは私よりもなお幼いくらいか。
 笑顔ならとびきり可愛らしいであろう顔は、何やら深い疲労に包まれている。目の下のクマがすごい。

「わたくしはしがない騎士爵家の出。家格はエクセルシア令嬢の方がずっと上ですが、この家には特殊な『ルール』がありまして。そのルールに則った場合、貴女とわたくしは同じ『4等級』になりますので、貴女のことは『エクセルシアさん』と呼ばせていただきますね」

「は、はい。よろしくお願いいたします」

「では、まずは閣下へご挨拶に――って、エクセルシアさん、ずいぶんとボロボロですが大丈夫ですか?」

「あー、あはは」

 道中、治癒魔法などは使えないのかとクゥン君に聞いたところ、尻尾を下げながら謝罪された。
 かく言う私も魔法が使えない。
 いや、1日に数回、コップ1杯程度の水を出す程度ならできる。けど、たったそれだけで魔力が枯渇する。
 そしてそれが、この世界における一般的な能力水準なのだ。

「あら、額にも大きなたんこぶが。どうしましょう。魔力は閣下のために温存しておきたいところですが、しかしこんな状態のまま閣下の前に出してしまっては、友愛精神にもとります。仕方ありませんね。【小麦色の風・清き水をたたえし水筒・その名はラファエル――ヒール】」

 暖かな光が私を包み込む。
 とたん、体から痛みが引いた!

「おおお!?」

「続いて、【清らかな風・暖かな風・優しき精霊シルフよ・この者を清めたまえ――クリーン】」

 爽やかな風に包まれたかと思うと、私の服と髪、体の汚れがきれいさっぱり落ちてしまった。
 汗の臭いまで消えてる。

「ふぅ。では参りましょう」

 額に薄っすらと汗を浮かべたクローネさんに案内され、屋敷の奥へと進んでいく。
 クゥン君が無言でついてきた。

「魔法、すごいですね!」

「えぇ、便利ですよね」

「ではなく、クローネさんほどの魔法の使い手はなかなかいらっしゃらないのでは?」

「わたくしは魔法の才を認められて、閣下に娶っていただきましたので」

 角を曲がると、メイドさんが雑巾がけをしていた。

「あ、どうもお疲れ様で――」

「「一人はみんなのために、みんなは一人のために」」

 クローネさんとメイドさんが同時に言った。

「ひえっ」

 まただ。
 何、この宗教じみた感じは。

「こちらは」クローネさんが紹介してくれる。「99番目の妻・■■さんです」

「あ、奥さんでしたか。これは大変失礼を――え?」

 奥さんなのにメイド服着て雑巾がけしてるの?

 さらに廊下を進んでいくと、やはりメイド服で業務に勤しんでいる女性たちの集団が。

「「「「「一人はみんなのために、みんなは一人のために」」」」」

 ひっ! 何なのコレ!?
 私、とんでもないところに嫁いでしまったんじゃ……

「こちらは■■番目の妻・■■さん。こちらは■■番目の――」

「え、奥さんなんですよね? なんでメイド服で働いているんですか!?」

 クローネさんは落ち着いた色のドレス姿だ。妻扱いされている。
 けれどメイド服を着せられ、働かされている彼女たちは――

「彼女たちは5等級以下ですから」

「何なんですか、その『等級』って!? それに特殊なルールって!?」

「後ほどご説明いたします。申し訳ありませんが、今は一刻も早くエクセルシアさんを閣下の元へお連れしなければ」

 クローネさんの顔色が、いっそう悪くなる。

「これ以上、友愛ポイントを引かれてしまっては、わたくしも5等級落ちしてしまうのです」

 友愛ポイント? 等級制度?
 家父長制が支配するこの世界では、貴族家のルールは全て家長が決める。
 つまり、この薄気味悪いルールは全て、コボル = フォン = フォートロン辺境伯が定めたということになる。

 クローネさんがずんずんと進んでいく。
 私は不安でいっぱいになりながら、彼女のあとをついていく。
 メイド服姿の『妻』たちの顔色は、悪い。
 中には十分な食事を与えられていないのか、ひどくやせ細った女性もいる。

 クローネさんが立ち止まった。
 今や私たちの目の前には、大きく立派な扉がある。

「この先で、辺境伯閣下がお待ちです」

 扉が開かれる。
 部屋の奥に座っている優し気な男性と、目が合った。
 とたん、私は思い出した。
 私が死ぬ前に起こった、一連の出来事を。