「えっ、弟がどうかしたの?」
 
 だが、錦奈はきょとんとしている。何が起きているのか、全くわからないかのように。
 
《あんたまた忘れたの?椋翔が教室でずっと両耳押さえてたから先生が保健室連れて行ったの》
「えーと、どういうこと?」
《いいから、早く来て!》
「うん、すぐいく!」

 錦奈の声には、驚きと焦りが入り交じっていた。電話越しに響くその声危機迫るものであるのは言うまでもない。

「で……今までここで何してたんだっけ?名前、何?」

 通話を切り、錦奈は問いかけてきた。 
 まるで今のが全てをかき消してしまったかのように、俺の名前を忘れてしまったらしい。たった今、教えたばかりだというのに。その瞬間、心に微かな痛みが走ったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

「いや、いいから。早く行って!」
「あ、うん!またねー!」

 焦りながらも声を強めて言うと、錦奈は一瞬の戸惑いの後、急いで返事をした。 

 それから階段を足早に駆け上がり、音もなく姿を消す。僕はその後ろ姿を呆然と見送りながら、深いため息をついた。
 そう、僕らの出会いは異様でしかなくて、泣いていたことさえ忘れるくらい衝撃的だった。
 そしてその日は錦奈のことがチラついて一睡もできなかった。

 翌日から僕は無意識にその椋翔という人を探していた。
 あの錦奈ともう一度話がしたい。どこの高校に通っているかもわからない、彼女を。
 会うための最善の方法。それは、錦奈の弟と接触して会う。
 しかし、知っている情報は小さい頃から本が好きで今は小説を書くことが好き。同じ学年の子。『くらと』という読みのみ。