「えっと、とりあえず名前を聞いてもいい?」
「うん!わたしは紅錦奈(くれないにしな)高校1年生なの。家族にはひとつ下の弟と母さんと父さんがいて――」
「ちょっ、ストップストップ!」
 なんなんだ、こいつは。まるでなんかかけないと止まることを知らない口のようだ。そういえば、マグロはずっと泳いでないと死ぬと聞いたことがある。錦奈はそういうやつと同じ部類なのか。
 動揺で視界がゆらゆらゆらめく中、必死に言葉を探す。その間錦奈は悪びれた素振りも見せず小首をかしげている。
「僕も名乗らせて。僕は柳櫂冬。中学3年生だ」
「え、弟と一緒じゃん!じゃあ、櫂冬くんって呼ぶね!わたしの弟、クラスメイトだったりする?」
「どんなやつ?」
 そう聞いた時、あいつのスカートのポケットはブルブルと揺れていた。
「えーと、小さい頃から本が好きで今は小説を書くことが好きで……」
 錦奈はそんなことも気づかぬように口を次々と動かしていた。
「待って!なんか鳴ってる」
「あ、わたしのスマホだ。なんかしたっけ?」
 言われて初めて気がついたみたいに錦奈はポケットに手をつっこんだ。スマホを取り出し、耳に当てる。
「あ、お母さん!どうしたの?」
《どうしたじゃないよ!頭、ボケてんの?》
 あっけらかんとした錦奈に向けて、スマホ越しに怒り狂ったような怒声が響いてくる。その声はあまりにも大きく、こちらまではっきりと聞こえるほどだった。状況がただ事ではないことは、言うまでもない。
「へ、なんかあったの?ボケてないよ」
 それなのに、錦奈はまるで最初から何も知らなかったかのように平静に対応している。そういえば、彼女は確かに急いでいたはずだ。それにもかかわらず、どうしてこんなに話し続けていたのだろう。
《はーっ、まったくー。とりあえず椋翔がいる、保健室に来て!》
 その怒声はため息まじりで呆れられているようだった。「えっ、弟がどうかしたの?」
 だが、錦奈はきょとんとしている。何が起きているのか、全くわからないかのように。
《あんたまた忘れたの?椋翔が教室でずっと両耳押さえてたから先生が保健室連れて行ったの》
「えーと、どういうこと?」
《いいから、早く来て!》
「うん、すぐいく!」
 錦奈の声には、驚きと焦りが入り交じっていた。電話越しに響くその声危機迫るものであるのは言うまでもない。
「で……今までここで何してたんだっけ?名前、何?」
 通話を切り、錦奈は問いかけてきた。 
 まるで今のが全てをかき消してしまったかのように、俺の名前を忘れてしまったらしい。たった今、教えたばかりだというのに。その瞬間、心に微かな痛みが走ったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「いや、いいから。早く行って!」
「あ、うん!またねー!」
 焦りながらも声を強めて言うと、錦奈は一瞬の戸惑いの後、急いで返事をした。 
 それから階段を足早に駆け上がり、音もなく姿を消す。僕はその後ろ姿を呆然と見送りながら、深いため息をついた。
 そう、僕らの出会いは異様でしかなくて、泣いていたことさえ忘れるくらい衝撃的だった。