でもあいつだけは違った。
 噂だけは聞いていた。僕とはひとつ学年が上で週に2、3回忘れ物や遅刻をするとか。初対面はアメリカ人みたいにコミュニケーションが高かったのに、次第に避けられたりいじめられたり嫌われているとかって。
 中学3年生の夏。泣いているみじめな僕をあいつだけが話相手になってくれた。僕のどうしようもない心の叫びをあいつだけが代わりに叫んでくれたみたいだった。
 最初は暗がりに包まれた廊下に凄まじい足音だけが響いていた。なにか一大事でも起こっていて、そこに駆けつける途中みたいにあいつは大慌てだった。
「大丈夫?ティッシュいる?あ、お茶とかどう?」
 そう声をかけられた時、僕は膝を抱えてうずくまっていて、顔をよく見ようともしていなかった。
「急いでるんだろ、いけよ」
 わずかな希望と信じられない気持ちが心の中に同居していて顔を上げられなかったんだ。
「えっと、なにしてたんだっけ?どうしてここにいるんだっけ?」
 息がとまるかと思った。急いでいたのにまるでその理由を忘れていたかのような声だった。
 驚きのあまりばっと顔を上げる。そして目にとらえたのはどこからどう見ても紛れもない美女だった。 腰まで伸びた黒髪は絹糸みたいに一本一本が細くて、身長は当時157だった僕より高かった。少なくとも160ぐらいはあったと思う。目は濃い琥珀色のビー玉みたいで、小さな口をぽかーんと開けていた。その無邪気さに僕は一瞬で引き込まれた。
「えっと、何言ってるの?」
「それより、どうして泣いてるの?何かされたの?」
 僕の問いかけに答えることもなく、あいつは隣に座ってきて質問を次々と投げかけてくる。その距離が異様なほどに近すぎて目を白黒させるしかなかった。きっと50センチよりも近かったと思う。
「えっと……」
 これはどういうことなのだろう。至近距離でしかなくて目を疑う。
 気が動転しすぎていて、声も出てこない。何かを求めるように口をパクパクさせるしかなくて、頭の中には既に無数のクエスチョンマークが浮かんでいた。
「そんなに近づいてきて、大丈夫?カレシいたりしない?」
「へ、もう少し離れた方がよかった?えっと、何センチ?てか、カレシとかいないよ。わたしどうせ誰からも好かれないもん」
「え……」
 こんな人初めて見た。あわてんぼうでおっちょこちょくて。
 距離に何センチとか細かく言われなきゃ離れられないのか。いや、普通わかるだろう。それくらい。
 加えて、僕が一目で見惚れるくらい美女なのにカレシがいないとかありえなさすぎる。それにどうせ好かれないとか人との関わりを鼻から諦めているようだ。
 じゃあなんで僕なんかに話しかけるんだ、あいつは。小さな子どもみたいに笑顔を浮かべているんだ。わけがわからなかった。