「聴覚過敏って聞いたことあるか?」
「なにそれ……」
 戸惑っていると、父さんは問いかけてきた。聞き慣れない異国の言葉みたいだ。それだけ聞いても理解はできない。
「耳が聞こえすぎてるっていうか、あらゆる音を耳で拾いすぎてしまっているんだ。それが苦痛となり、ついつい突き放してしまうような行動をとる人が多くいる」
 そう言って父さんは思い立ったように立ち上がる。それから「ちょっとパソコン持ってくる」と階段を降りていった。
 頭には図書室登校初日の昼休みの記憶がフラッシュバックしてくる。潜めた声で話す丘先生と柚香ちゃんと櫂冬くん。それなのに、椋翔くんは追い出すとかおどすようなことをしたのだろう。
 柚香ちゃんのぶちギレた声。引き戸が激しく開かれる音。そして、バタバタと駆けていくふたり。ヘッドフォンではなく防音イヤーマフらしいものを必死に押さえて、もだえる椋翔くん。
 あの音や声は椋翔くんの耳にはどう聞こえているのだろう。
「お待たせ。ちょっと机借りるよ。あとこれかけて」 
 父さんが部屋に戻ってきて私にヘッドフォンを渡してくる。父さんは何やらパソコンを立ち上げ、カタカタとキーボードを動かし始めた。
 なんか音楽でも聞くのだろうか。いや、真面目な話をしているし、違うだろう。とりあえずヘッドフォンを頭にかけてみる。リングもイヤーカップも漆黒のシンプルなやつだ。
 しばらくすると、ざわざわとした音が聞こえてくる。
 電車の車両が滑らかにレールの上を走る音。
 交差点を行き交う、無数の車の走行音。  
 人々の喋り声や笑い声。
 そして遠くから聞こえる、救急車のサイレン。
 たぶんそんな、何気ない音が行き交わっている。
 それは頭の中に響いてくるようで、どれがどの音なのかもわからないほど、複雑で耳を容赦なく鼓膜をつんざいてくる。
「これなに!?」
 耐えられないほどの雑音の洪水に慌ててヘッドフォンを外す。
「それが聴覚過敏の人の聞こえ方なんだ。これが椋翔くんとかは四六時中続くんだよ」
 嘘でしょ。
 父さんの顔を見てみるとまっすぐな目を私へ向けていた。
 嘘をついているわけではないらしい。
 これはひどい。容赦ない音の押し付け合いだ。「主な原因は発達障害とか精神的なストレスだな。他にもあるけど今は置いとく。とにかく父さんの科にはそういう人が多いんだ」
 そう言いながら父さんはパソコンをパタリと閉じた。
「発達障害?」
 その言葉は重いもののような気がした。 
 害ということはなんかの病名だろうか。
「生まれつきの脳の特性だよ。病気じゃない、治らないものなんだ。まぁ、これは椋翔くんには関係ない。あるのは精神的なストレスの方だ。心を開いてくれないし、その子の母さんに聞いてみてもわからない。どういう精神的なストレスなのかが」
 頭を抱えているような仕草をして父さんは言った。
「それって、治るの?」
 死んだりとかしないよね?
椋翔くんのことが大嫌いなはずなのに気づけば私は問いかけていた。
「精神的なストレスの場合は治ることがあるんだ。だが今のままでは難しい。椋翔くんはたぶん、ひとりでは到底背負えきれないものを抱えているんだよ。もしそいつの心を開けれたらその時、父さんはまた前を向いて生きていけると思う」 
 そうなんだ。道理で簡単には踏み込ませない感じがあるわけだ。わかりやすいな、椋翔くんは。
「そういえば、その椋翔くんを助けてほしいとか頼んでくる人がいたな」
 ふと思い出したように父さんは言った。それって、丘先生や櫂冬くんだったりして。
「患者の顔と名前がごっちゃになることもあるし、すぐ事故で亡くなったらしいから覚えてないんだけどな。まぁいくら人を診ていても母さんや弟が戻ってくることはないけどな」
「相変わらずだね、父さん」
 互いに顔を見てクスリと笑い合う。父さんとこんなに話したのは何年ぶりだろう。いつもとは一味も二味も違う顔だった。あれが精神科医としての父さんの顔なのだろう。
 私にあんな椋翔くんが助けられるのかはまだわからない。信じてない。友人からも先生からも呆れられた私に何ができるのだろうか。
 でも助けてほしいと父さんの顔と声が言っている。その椋翔くんが苦痛の中でも小説を書いている。私にはなんの夢もなくて、ただ羨ましい限りであった。