ただの落とし穴に落ちるよりも、もっと深い穴。地球の反対側まで落ちていっているんじゃないか。たぶん。それぐらい、眠りは深かった。
 遥か遠くにある意識の中、微かな音が聞こえてくる。
 カサカサと誰かが近づいてくる足音。
 ガタリと扉が開く音。
 ガサッと誰かに担がれるような音。
 なんだろう。連れて行かれてるのかな。殺されるのかな。それならいいや。それで自分の人生に終止符を打てるのならなんでもいい。殺して。なにもない生き疲れた私を。本望だから。
 誰かの足音が響く。それはコツコツという音に変わる。どこか建物の中に入ったのだろうか。
 冷たい。足に触れてる誰かの手の感触が。保冷剤か、それよりも冷たく感じた。
 引き戸が開く音がして、ゆっくり降ろされる感覚がする。雲の上に乗せられたような柔らかな感触が安らぎを与えてくれた。
 そして、椅子を床に擦り付けて持ってくる音。誰かが座る音。そのあとは静寂が訪れるのみ。
 えっ、殺さないの?殺してよ、そこにいる誰か。
 必死に叫ぶ。でも声にはでずに、虚しくも届かない。水が欲しい金魚みたいに口をパクパクさせることしかできない。
 まさか……。
 嫌な予感がして、ゆっくり瞼を開けてみる。ぼんやりとした視界の中、目はとらえられた。
 テクノカットの墨汁で塗りつぶされたような黒髪。灰色のビー玉みたいな瞳。頭にかけられたヘッドフォンのようなもの。それはダークグレーに染まっている。
 胸に焼きつけられるように残っている。この特有のあるイケメン。
「椋翔くん……」
 そこには誰からも嫌われている、大嫌いな人がいた。
 糸がぐちゃぐちゃに絡まったような、よくわからないクズ。
 そんなやつが私なんかを助けた。
 上を見上げれば白い天井。病院で使われているような、肌色のカーテン。鼻をかすめる消毒液の匂い。
 でも病院じゃない。ここは保健室だ。
 私が起きたことに気づいたのか、椋翔くんは何やらメモ帳の上でペンを走らせた。それから差し出してくる。
『心配させんな、バカ野郎。死んだかと思ったじゃん』
「どうして、私なんかを……」
 驚愕しかなくて声がかすれる。まるで死にかけのスズメみたいに。
 椋翔くんはまたペンを滑らせた。
『なんか胸騒ぎがしたから、行ってみてよかった。ひどいなんて言葉じゃ表しきれねぇ有様だな、姉貴』
「そうよ、打撲、すり傷、裂き傷、割創(かっそう)挫創(ざそう)。骨が折れてないのが不幸中の幸いよ。まぁ、右手首の疲労骨折はそのまんまだけど。2週間もすれば普通に歩けるようになるわ。しばらくは保健室登校ね」
 椋翔くんの後ろから丘先生の声が聞こえた。かわいそうにと眉根を下げている。
 その途端、鋭い痛みに襲われる。ジクジクと血が出ている感触がした。
「痛っ!」
 モゾモゾともがくように足を動かす。少し起き上がってみると、セーラ服は砂がこすりつけられたみたいになっていて、ボロボロだ。おまけに見える腕や足は醜く傷だらけ。
 あまりの壮絶さに血の気が引く。愕然としていると、椋翔くんは椅子から立ち上がって私の両肩を優しく掴みベッドへゆっくり押し付けた。まだ起きるなと言わんばかりに。