「すまん、でも忘れられないんだ。母さんには運命的なものを感じてたから」
 父さんは私に気づいたのか顔を上げた。それから記憶を懐かしむように目を細める。
「誕生日が一緒で、すぐ意気投合してた。何もかもうまくいってたんだ。母さんが弟を妊娠してるとわかった1ヶ月後におたふく風邪を発症するまでは」
 呟くように言ってから父さんはまた顔をうずめた。
「母さんは昔から事ある事に自分を責めてた。それを励まして支えるのが父さんの役目。でもあの時から父さんの言うことは何もかも母さんの心には響かなかったんだよ。浮かれてたんだ。運命というものに――」
「だから虹七は運命を信じるな。浮かれてたら突然手のひら返してくるから。でしょ?父さん、その話するの何度目?」 
 頭に血がのぼり、父さんが次に発する言葉を遮るように言葉にする。
 いい加減にしてほしい。耳にタコができる。すごすごしている父さんを見ていると不覚にも苛立ちが募ってしまう。
「すまん、お腹空いてるだろ?何か作るよ」
 父さんはそう言っておもむろに立ち上がり、キッチンに行こうとする。その顔は虚ろで焦燥しているのは一目瞭然。
「いい、お腹すいてないから」
 背後からは扉の音が聞こえる。心温さんだ。でもそれを無視するように階段を駆け上がった。ため息をひとつ吐いて部屋に閉じこもろうとする。そこで声が聞こえてきた。
「虹七には産まれなかった弟の分まで頑張って生きてほしいんだけどね。いつになったらあの子教室に戻るのかしら」
「さあな。父さんもどうしたら良いのかわからないよ」 
 この声ももう何度も聞いた。聞き飽きたしうんざりだ。 
 勢いよく部屋の扉を開けて閉める。それからドアにもたれかかり膝を抱える。
 弟は産まれなかった。流産した。だから弟なんて知らない。気持ちなんて永遠にわからない。それなのに心温さんは嫌味を言うように吐き捨てている。たぶん、私が聞いているとはわかってもわからなくても自然と口に出してしまうのだろう。
 いたたまれない。私には息をしっかりして生きていける場所がどこにもない。ゴールのないラビリンスを長い間彷徨い続けている。その状況は何があろうと変わらない。今までもこれからも、ずっと。そう思っていた。