その日、怒った父親に少年ルシウス・リースト、十四歳はぶん殴られた。

「私とて可愛い息子のお前を殴りたくなどない! だが、だが! 言うぞ、今日こそ父は言う!」

 青みがかった銀髪に、 湖面の水色(ティールカラー)の瞳、白い肌に麗しの容貌。

 一般的に美形と言われるだろう親子、リースト伯爵家の父メガエリスと次男ルシウスは睨み合い、両者とも一歩も譲らなかった。

 溜めに溜めて、ルシウスとよく似た高齢の父が叫ぶ。

「いい加減、兄離れせんかーい!!!」



「新婚夫婦がふたりで語らってるところに、おやつを持って乱入するのはやめよ!」

「なんで!? ガスター菓子店の限定ショコラが手に入ったら兄さんと一緒に食べたいに決まってるじゃないか!」

 ガスター菓子店とは王都のお高いチョコレートで有名な老舗の菓子店である。
 学園の放課後、帰り道にあるので行列に並んでようやくゲットできた至高のチョコレート。

 なぜ兄と分かち合ってはならぬのか。

「せめて兄の嫁にも買ってこい!」

「だったらお小遣いもっと上げて! 二個しか買えなかったんだもん、仕方ないでしょ!」

 ガスター菓子店のショコラはお高いのだ。
 トリュフチョコレート一粒で小銀貨一枚する。
 まだ十四歳のルシウスの小遣いでは二粒が限度だった。

「ならば兄嫁にひとつ、お前は兄と半分こすれば良かろう!」

「その手があったか!」

 これは何とか論破できたようだ。

 父は内心で胸を撫で下ろしていた。

「まだあるぞ! 夕食後、部屋に新婚夫婦ふたりで引っ込んだ部屋に『兄さん、宿題教えてー?』などと言って乱入してはならぬ! 宿題ぐらいこの父が教えてやるわ!」

「嘘つけ! 父様が学生だったの何十年前ですか、前に聞いたらこっそり執事に確認してたじゃない!」

「う、ぐ、ぐ、だって、それは、間違ったことをお前に教えてはならぬと念には念を入れていただけだー!」

 この息子は口が回るのが厄介だった。
 叱るのも一苦労である。

「とにかく! 朝、新妻が夫を起こす前に寝室に突撃して『兄さんおはよう! 今日の朝食はサーモンサンドだよ楽しみだね!』とお前の兄を起こしに行ってはならぬ! それはお前の義姉になった新妻の役目である!」

「だって、朝一番に兄さんに挨拶したかったのだもの!」

「駄目だ! 特に朝は危険だ、新婚夫婦なのだぞ!?」

「だからなんで!?」

「新婚だからだ、それがすべてだ!!!」

 もう十四歳なのだからそこは察せよ、と心底父は思った。

 そう、この下の息子の歳の離れた兄は、昨日が結婚式だった。

 今日から新婚旅行先に向かうから初夜はそちらで済ませるのだろうが、熱々の甘々状態なのは確かだ。

 今朝、まだいつも起きる時刻にはだいぶ早い早朝に、家の侍女が主人の自分を慌てて呼びに来た。
 何事かと思えば「坊っちゃまがお兄様の部屋に突撃しようとなされていて!」ときた。

 まだまだ子供なのはわかっていた。
 十四歳なら少しは大人の兆しが見えてきてほしいものだが、いつまでもいつまでも尊敬する兄にべったり。

 兄弟仲良くしている光景は、父にとっては微笑ましく、目の保養である。

 だが、結婚式の翌日の新婚夫婦の寝室に突撃だけはいただけない!

 こんな面倒くさい弟が周りをうろちょろしていては、新婚早々に離婚の危機だ。

 この子の兄はいわゆる“非モテ”男で、何回も何回も何回もお見合いを繰り返して、ようやくお嫁さんをゲットできたのである。

 決して逃してはならない。

 年老いた父は早く孫の顔が見たかった。

「とにかく! お前は兄離れせよ! これはこの父の命と心得よ! 反論は許さぬ!」

「絶対やー!!!」

「やーじゃないわ、そんな可愛く言っても駄目だ! ……おい、こやつを部屋に閉じ込めておけ、理解するまで部屋から決して出すなよ!」

「どうしてそんな酷いこと言うの!? 父様なんてハゲてしまえばいい!」

「残念、我がリースト伯爵家はハゲ家系ではない!」

(誰だ、うちの子にハゲなんて罵倒の仕方教えたやつは!)

 今年六十八歳の父メガエリスだが、白髪混じりとはいえ青みがかった銀色の髪も髭も、わりとふさふさである。

「おデブになっちゃえ!」

「我が家の食生活で肥満体型になどなるわけがない!」

(だーかーらー! 誰なんだ、デブなどとひとを罵ることを教えたやつ! 学園か、学友たちか!?)

 この家は領地では美味しい鮭が獲れ、鶏をはじめとした畜産が盛んで、更に魔法薬のポーション材料の薬草ついでに野菜の栽培もしていて、常に新鮮な食材が手に入る。

 健康的で美味しい料理が多いことでも有名だった。

「えと、えと……父様なんて大っキライなんだから!」

「うぐぅ……最終兵器、きた……」

 腐ってもリースト伯爵家はお貴族様のおうち。

 お育ちのよろしいせいで、罵倒の語彙の少ない息子が最後に繰り出してきた言葉の暴力に、父は崩れ落ちそうになった。

 ハゲとかデブのほうがまだマシだった。

 息子を殴った拳より、「大嫌い」と言われた胸のほうが痛い。



 侍従たちに強引に部屋へ連れて行かれるルシウスを睨みつけるように見送りながら、父メガエリスは胸元を押さえた。

「ルシウスよ……その兄への愛の半分、いや一割でもいい。父にも向けて欲しかったぞ……」

 父メガエリスは歳を取ってから得た息子ふたりを溺愛していた。
 妻も亡くしてしまったから、今や愛する家族は兄と弟、ふたりだけ。

 だが弟のほうが問題だった。
 今年十四歳になるのに超が付くほどのブラコン。
 親である父ですら引くほどのブラコン。

「だが、こうでもせねば……あやつは兄の新婚旅行にすら付いて行きかねん」

 それが今回、愛息子をぶん殴ることになってしまったことの発端だった。

『父様、僕も兄さんたちの新婚旅行に一緒に行きたい!』

 それはもう可愛らしいキラッキラの曇りなき眼で当たり前のように言われたとき、気づいた。

 駄目だこの息子。
 いい加減にブラコン矯正しないとヤバい。

 そうして父は泣く泣く拳を振るったというわけである。

 とりあえず今日、新婚ほやほやの上の息子夫婦が新婚旅行に出発するまでは、弟のルシウスが暴れるのを阻止せねばならない。

「やはり昨日、結婚式の後に会場から直接、新婚旅行に向かわせるべきだったか……」

 家の伝統で、結婚式の当日は屋敷で盛大に一族や使用人たちまで総勢での食事会なのだ。
 だがこの様子だと、今回ばかりは悪手だったようだ。

 とりあえずルシウスは午後まで自分の部屋に閉じ込めておく。

 食事やおやつは部屋に運ばせて、後は本人が反省してくれれば言うことなしなのだが……。



 そして昼過ぎ、初々しい新婚夫婦が新婚旅行へ向かうため馬車で出立したのを、ルシウス抜きの父親と使用人たち一同で見送った後。

 家の使用人が発見したのは、もぬけの殻となったルシウスの部屋だった。

「ど、どう致しましょう、旦那様!?」

 部屋には書き置きが一枚残されていた。

『家出します。兄さんのいない家にいたくない』

「兄はおらずとも父がおるだろう! ルシウース!!!」

 どうやらブラコンを余計に拗らせただけだったようである。

 親バカの父、ブラコンの次男。
 正直、どっこいどっこいの親子であった。