イセカイ・カイゴッ!

 6

 俺はこもれびの杜には戻らず、一人で森の中を歩いていた。どこへ行くというあてもなかったが、いまは誰とも顔を合わせたくなかった。
 ばあちゃんや筒原さんに、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
 森の木陰に座り込み、膝を抱える。自分の手が、微かに震えているのがわかった。

 「……思い上がりも甚だしいわね」
 不意に、頭上から声が降ってきた。驚いて顔を上げると、筒原さんが立っていた。手には、缶コーヒーが二本握られている。
 「筒原さん……」
 「少し頭を冷やしなさい」
 彼女は冷えた缶コーヒーを俺の頬に押し当てた。その冷たさに、熱くなっていた頭が少しだけ冷える。筒原さんは俺の隣に座り込み、プシュッとプルタブを開けた。
 「あなた、自分一人で彼らの世界を変えられるとでも思った?」
 厳しい言葉だった。
 「……そんな大それたこと、思ってないっすよ」
 「いいえ、思ってたわよ。貴方の顔に書いてある。『俺なら、種族の壁も超えられる』『俺の理想の介護なら、みんなが幸せになれる』ってね」
 反論できなかった。図星だったからだ。俺は心のどこかで、自分を「異世界のやつらを介護の知識で救うヒーロー」だと思っていたのかもしれない。
 現代の知識と価値観を持った俺が、遅れた世界の偏見を打ち砕く——そんな、安っぽいヒーロー気取りでいたのだ。
 「現実は、そんなに甘くないわよ。空野くん。それは私達がいた世界も、ここ、ベリュージオンでもね」
 筒原さんは遠くを見つめながら言った。
 「あなたがカクスケくんに強いたのは、我慢よ。それも、ただの我慢じゃない。自尊心を削り取るような、残酷な我慢」
 「……わかってます。だから、俺は……」
 「後悔してる?」
 「……死にたいくらいに」
 俺は膝に顔を埋めた。カクスケが土下座をしたときの、あの乾いた音が耳から離れない。あいつにとって、人に頭を下げる行為は、日常茶飯事なのかもしれない。けれど、俺がそれを肯定してしまったという事実は、消えない。
 「『利用者ファースト』なんて言葉はね、時として介護職を殺す呪いになり得るのよ」
 筒原さんの声は、静かだが重かった。
 「ヴェルチンシアさんたちの平穏を守るために、あなたはカクスケくんを犠牲にした。……おなじようなことは、介護現場ではよくあることよ。暴言を吐く利用者を刺激しないために、私達が我慢して謝り続ける。現場を回すために、誰かが心をすり減らす。……あなたが今日やったのは、そういうこと」
 「じゃあ、どうすればよかったんすか!」
 俺は感情のままに叫んだ。「カクスケを表に出して、オフィリアさんと喧嘩すればよかったんですか!? ヴェルチンシアさんが不穏になって、あの場が破綻すればよかったんですか!?」
 「さあね。私が知るわけないでしょう」
 筒原さんはコーヒーを一口すすった。俺とは違って声を荒げることもなく、あくまでも冷静に、言葉を続ける。
 「誰かとの関わり合いに正解なんてないわよ。……ただ、ひとつだけ確かなことは、あなたはカクスケくんを守れなかったということ。そして、カクスケくんは、貴方を守るために傷ついたということ」
 筒原さんは俺の肩に手を置いた。
 「今日、あなたは失敗した。それは事実。でも、今日の失敗を、美談にするのはやめなさい。『いい勉強になった』なんて言葉で片付けちゃダメ。あなたがいま抱えているだろう、その胸糞悪さを、情けなさを、骨の髄まで刻み込みなさい。……それが、カクスケくんをあんな目に遭わせた、あなたのけじめよ」
 筒原さんが去ったあとも、俺は動けなかった。陽は完全に落ち、森は闇に包まれている。俺の手の中にある缶コーヒーは、もうすっかりぬるくなっていた。
 俺は、無力だ。介護の知識も、道具も、理想もある。けれどそんなもので、目の前の大切な仲間ひとりすら、守ってやれなかった。カクスケはどんな思いでいまを過ごしているのだろう。  
 道具として扱われることを受け入れているのか。それとも、心の奥底で泣いているのか。
 俺には、カクスケの本当の心が見えない。いや、あるいは、俺が見ようとしていなかっただけなのか。仲間だと言いながら、彼が抱える深い闇から、目を逸らしていただけなのだろうか。
 俺は立ち上がり、歩いてきた道を見据えた。明かりのついたこもれびの杜の窓が、遠くに見える。
 帰らなきゃいけない。そして、カクスケと顔を合わさなければならない。
 俺の心に刺さった棘は、抜くことはせず、痛みとして残しておこう。それが、今日、あいつを踏み台にした俺への、せめてもの罰だ。

 こもれびの杜に戻ると、裏口の軒下で小さく丸まっている背中が見えた。カクスケだった。彼は手元にカンテラを置き、今日使った農具を黙々と磨いていた。その姿は、オフィリアに罵倒された時と同じように、自分を風景の一部に押し込めようとしているかのように見えた。
 「……カクスケ」
 俺が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、慌てて立ち上がった。
 「お、お帰りなさいませコタロー殿! 申し訳ございませぬ、こんなところで……目障りでしたでしょうか」
 「違う。……あのさ、隣、いいか」
 俺は彼の返事を待たずに、軒下の縁側に腰を下ろした。
 「……カクスケ」
 再び声をかけると、直立不動の姿勢のまま。
 「はっ! コタロー殿! 御用ならなんなりと!」
 「まあ座れよ」
 カクスケは困惑していたが、主人の命に背くわけにもいかず、少し距離を開けて、正座のままちょこんと座った。
 俺は手に持っていたラップ包みをひとつ、カクスケに差し出した。カクスケと話をするきっかけを作るために、こもれびの杜に帰ってすぐ用意したものだ。
 「ほら。腹、減っただろ」
 「あ……これは……」
 「塩むすびだ」
 カクスケはごくりと唾を飲み込み、震える手でそれを受け取った。
 「……かたじけのう御座います」
 カクスケは俯いたまま、膝の上に包みを乗せ、じっと見つめている。
 「食えよ。俺も食うからさ」
 「……承知いたしました」
 そろそろと包みを開けて、塩むすびにかぶりついたカクスケを見て、俺も自分の分の包みを開け、一口かじった。しょっぱい。いつもより塩を効かせすぎたかもしれない。でも、いまの俺にはその塩辛さが、妙に胸に沁みた。
 「なあ、カクスケ。ひとつだけ、どうしても解せないことがあるんだ」
 咀嚼しながら、俺はずっとつかえていた疑問を口にした。
 「オフィリアさんたちのことだ。あんなに使い魔をのことを毛嫌いして、生理的に受け付けないってレベルだったのに、なんでわざわざここに来たんだろう。カクスケが俺たちと一緒に住んでるって分かってたはずなのに」
 すでにカクスケの存在を認知していたオフィリアにとっては、ここに来れば使い魔がいることなど、百も承知だったはずだ。それなのに、なぜ来たのか。なぜ、あそこまで拒絶しておきながら、こもれびの杜に足を踏み入れたのか。
 カクスケは、手の中の塩むすびをじっと見つめたまま、静かに口を開いた。
 「コタロー殿。……もし、キョウコ殿が病にかかり、それを治せる御方様が『ゴミ捨て場』の奥に住んでいたとしたら、コタロー殿はどうされますか?」
 「え?」
 「ゴミ捨て場は臭いし、汚い。近寄りたくもない場所で御座います。しかし、そこに行かねば、大切な家族は助からない。そのようなときに、コタロー殿は如何なさいますか」
 「それは……鼻をつまんででも行くさ。背に腹は変えられないからな」
 「それと同じで御座います」
 カクスケは、自嘲気味に笑った。「エルフの方々にとって、拙者共使い魔は『ゴミ』や『泥』と同じなのです。ヴェルチンシア様のご病気は、エルフの里ではどうにもならなかった。だから、藁にもすがる思いでここに来たので御座いましょう」
 「……泥、か」
 「はい。泥道を歩くのは不快ですが、歩けないことはありませぬ。それに……」
 カクスケは夜空を見上げて、言葉を継いだ。「あの方々は、こう思っていたはずです。『まさか泥を片付けもせず、そのままにしておく家主はいまい』と」
 ハッとした。そういうことか。オフィリアにとって、俺がカクスケを仲間として扱っていること自体が想定外だったのだ。
 客が来るなら、主人は掃除をする。それと同じ感覚で、「エルフが客として来るなら、主は当然、不快な使い魔を裏に隠すなりして、環境を整えるだろう」と高を括っていたのだ。
 だからこそ、カクスケの姿を見た途端、彼女はあそこまで激昂した。言うなれば「掃除もしていない汚い部屋に通された」と感じたのかもしれない。
 「……舐められたもんだな、俺も」
 俺は悔しさに唇を噛んだ。結果的に俺が、彼女たちのその傲慢な予想どおりの行動をとってしまったことが悔しい。
 俺は、カクスケを隠した。そして隠したにも関わらず、失敗した。俺はカクスケを泥扱いし、その上で使い魔やエルフの尊厳を傷つけ、なにもかも失ったのだ。
 「コタロー殿……」
 カクスケが、小さく俺の名を呼んだ。「拙者があの方々に頭を垂れたのは、コタロー殿に命じられたからではありませぬ」
 「……え?」
 「あの場において、エルフの方々を怒らせて帰らせてしまえば、コタロー殿が作ろうとされていた場所は破綻しておりました。……まあ、結果的には破綻してしまいましたが」  
 カクスケは苦笑した。
 「ですが、あの瞬間、拙者は決めたのです。コタロー殿の夢を守るために、拙者は喜んで泥になろうと」
 俺は言葉を失った。カクスケは、諦めという感情だけで動いていたわけではなかった。俺の夢を守るために。俺の顔を立てるために。カクスケ自身の意思で、プライドを捨てて、泥をかぶってくれたのだ。それを俺は、可哀想な被害者だと決めつけ、一方的に憐れんでいた。なんて、浅はかなんだ。
 「……かっこいいな、お前」
 自然と、そんな言葉が出た。
 「へ?」
 「俺なんかより、ずっと大人で、ずっと強えよ。……俺は、自分の理想を押し付けるだけで、お前の覚悟に気づきもしなかった」
 俺は残りの塩むすびを口に放り込んだ。やっぱりしょっぱい。喉が詰まりそうになって、無理やり飲み込んだ。
 「カクスケ。……悪かった」
 「コタロー殿……」
 「今回は、俺の完敗だ。エルフたちの介護も失敗した。お前にも辛い思いをさせた。……いいとこなしだ」
 俺はそう言ってそっぽを向いた。情けない姿を、カクスケに見られるのが恥ずかしかった。だが、カクスケは、そっと言った。
 「この塩むすび……美味しゅう御座います」
 顔を上げると、カクスケが塩むすびを両手で持ち、大切そうに齧り付いていた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
 「コタロー殿が握る飯は、いつも温かくて、口の中で旨味が弾けるような心地に囚われまする」
 「……大袈裟だな」
 「いいえ。……コタロー殿が握ってくださった、拙者のための飯ですから」
 彼は、一口一口、噛みしめるように食べている。
 目頭が熱くなった。
 世界は変えられなかった。エルフと使い魔のあいだの確執もなくならなかったし、新しい企ても失敗した。そんな情けない俺でも、カクスケのようについてきてくれる存在がいる。見捨てられたわけじゃない。だとすると、やはりカクスケは手下などではなく、仲間なのだ。他のやつらがどうあろうとも、俺はカクスケと対等の立場で関わり合っていたい。
 「……また、作るよ」
 俺は鼻をすすって言った。「具なしの塩むすびだけどな」
 「はい。それが最高で御座います」
 カクスケは笑った。それは、卑屈な愛想笑いではなく、年相応の少年が見せるような、少し泣きそうな感じの笑顔だった。
 現実は厳しい。明日はどうなるかわからないし、エルフたちとの関係は修復不可能かもしれない。それでも過ぎていく時間のなかで俺たちは出来ることをひとつひとつ積み重ねていかなければならないと、しみじみとそう思った。