綾人くんを病院に連れて行ってから三週間、まともにご飯が食べられなかった。
 伯母さんと伯父さんは私に何があったのか聞かない。多分、お母さんのこともあり、いろいろと察してくれているのだろう。事細かく事情を聞き出さない彼らに、心底ほっとしている自分がいた。

「やっぱり来てないよね……」

 いつかと同じように、部屋に引きこもってスマホをぼんやりと眺める毎日。綾人くんから、一度も連絡が来ないことに落胆したのは何度目だろう。今は夏休みだけれど、三年生はお昼まで夏期講習がある。せめて学校だけでも行かなければ、と重たい腰と足を引き摺るようにして登校していた。
 それでも、学校ではようやく親しみを持てるようになったクラスメイトたちと、楽しく会話をすることができない。ずっと頭の片隅に彼の顔がこびりついているから。
 精気の抜けてしまった私を、一番に心配してくれたのは圭だった。
 私は圭が学校で話しかけてきても、まともに返事すらできない。圭は、あの祭の日に私と綾人くんを目撃しているから、彼に綾人くんとのことを伝えるのは気まずかった。
 家でも学校でもちょっとずつしかご飯を食べていないので、三週間で体重が三キロも落ちてしまった。一時的なものだとは分かっているけれど、耳鳴りや吐き気がして、部屋の中ではずっとベッドの上で過ごした。
 だけど、大好きなピアノを弾くことだけはやめられなくて。
 縮む視界の中で浮かび上がる白と黒のコントラストを見つめながら、鍵盤に両手を添えた。ピアノを弾いているときだけは、まともに息を吸うことができる。ピアノが自分に残された唯一の光だと思った。
 今日も学校から帰ってきてピアノを弾こうと椅子に座ったのだけれど、勉強机の上に置いていたスマホが震えていることに気づいて手を止める。

「誰だろう……?」

 もしかして、綾人くん?
 半分の期待と、半分の自制心をなだめながらスマホを手に取った。
 画面に表示されていたのは赤城圭という名前だ。
 圭……。
 きっと、学校で私の様子がおかしいから、気になって電話をしてくれたんだろう。圭からの電話に出るかどうか、散々迷った挙句、私は通話ボタンを押した。

「もしもし、圭?」

『あーやっと出た。もう寝てんのかと思ったよ』

 いつもの明るい調子で喋り出した幼馴染の声を聞いて、なぜだか胸がじんわりと熱くなる。

「……失礼ね。今何時だと思ってるの?」

『ん、三時だけど? 鈴のことだから昼寝してんのかと思うじゃん』

「しないよ。ピアノ弾こうと思ってたところ」

『ふうん』

 なかなか要件を言わずに些細なことばかり話してくる圭だが、彼なりに気を遣ってくれていることが分かる。圭が電話の向こうで息を吸う音に合わせて、私は吐く息を整えた。

「圭、何か用があるんだよね?」

 早く核心に触れて欲しくて私は彼に真意を問う。しばしの沈黙が流れたあと、ようやく圭は真剣な声色で話し出した。

『……ああ。この三週間、鈴の様子が変だから。サッカー部の練習の間も、正直集中ができなかった。鈴のことが気になってしゃーないんだ』

 いつになく素直な言葉が飛び出してきて、私は息をのむ。

『なあ、鈴。単刀直入に聞くけどさ、あいつと——あの男と何かあったんだろ? 違うか? 俺は鈴を小さい頃から見てきたから、大抵のことは分かっちまうんだ。だからさ、何か悩んでることがあるなら吐いちまえよ。俺は、ちょっとやそっとのことでお前を嫌いになんてならないから』

「圭……」

 彼の思いやりに満ちた言葉に、私は不意打ちをくらって固まってしまった。
 本当はずっと、不安で仕方がなかった。
 綾人くんから、このまま自分の存在を認めてもらえないんじゃないかって思うと、怖くて彼に自分から連絡を取ることもできなくて。
 自分の世界に引きこもってただひたすら時間が経つのを待っているだけの自分。
 綾人くんに会いたいし、会ってちゃんと話をしたい。
 でも、そんな簡単なことすらできなくなってしまったことが、あまりにも悔しくて切なかったんだ……。
 自分の気持ちに素直になってみると、両目の端から涙がぽろりぽろりと溢れ出てくる。「ううっ」と嗚咽すると、電話の向こうで彼が息をのむ気配がした。

「私……私は……、綾人くんとちゃんと話がしたい、だけなの。でも、できない。私はもう光を失ってしまったから。彼もきっと、私のことを見失うから……」

 私の目の病気のことや、綾人くんの視界に私が映らないことを、圭に直接伝えるのは難しかった。曖昧な表現しかできなかったけれど、圭はこれだけの言葉で何かを察してくれたらしい。

『……そうか。分かった。俺がなんとかする』

 と、固い声で呟いた。
 なんとかするって、どういうこと?
 そんな単純な疑問をぶつける間もなく、『また報告するから』と、彼はすぐに電話を切ってしまった。
 一人、部屋に取り残された気分になった私は、ピアノの鍵盤の上に落ちる雫を、タオルでごしごしと拭った。