「花蓮……! 花蓮っ!」
大声で彼女の名前を呼んでも、吹雪にかき消されて一寸先で声が途切れてしまう。足場も悪く、思うように動けない。寒い。雪って、こんなに冷たかったか? こんなに恐ろしかったか? たまに街中に降る雪を見て大はしゃぎしていた自分が世間知らずだったことを痛感する。雪は、決して美しいだけじゃない。人の命を簡単に奪う凶器にもなるのだということを、初めて知った。
自分でもどこまで歩いているのか分からないくらい進んでいた。もうホテルも見えなくなって、辺りは暗く、視界は吹雪で塞がれていく。もうダメかもしれない、と本気で思った矢先、「あやと……?」というか細い声が遠くから聞こえたのを、俺は聞き逃さなかった。
「花蓮!?」
声がした方を見ると、彼女が雪の中で突っ伏すようにして転げていた。花蓮の後ろは崖になっていて、思わず足がすくむ。ゆっくりと彼女の元まで進むと、力無く俺を見つめる彼女の目が、痛々しかった。
「花蓮! 大丈夫か!? 今助けてやるからなっ」
「足が……動かないの」
震える声で呟く花蓮は右半身が雪に埋まっていて、顔の半分まで真っ赤に染まっていた。このままでは凍傷で死んでしまう。命の危機を察知した俺は、急いで花蓮の周りの雪をかいていく。このペースでは間に合わないと分かった俺は、全身の力を振り絞り、手も足も全て使って、彼女を雪から脱出させようとした。
その時だった。
ガクッ、という嫌な感触と共に、彼女の半身が埋まっていた雪が、崖の向こうに滑り落ちた。と同時に、花蓮の身体がスローモーションのように斜めに傾いていく。
「わっ」
「花蓮!」
絶叫した俺は花蓮に向かって思い切り手を伸ばす。彼女も、最後の力を振り絞って俺の手を握った。崖の向こうに投げ出された彼女の身体を片手で支えるような形になり、俺の身体が下へと引きずられそうになった。
「んぐぐぐっ」
声にならないくぐもった呻き声が口から漏れる。腕がちぎれそうなほど痛くて、気を失いそうになった。それでも俺は、この手を絶対に離したくなくて、必死に彼女の手を握り続ける。
嫌だ! 花蓮を死なせたくないっ。
その一心で、俺は腕を伸ばし続ける。
「か、れん。絶対におれが、たすけてやるからっ」
掠れた声で必死に彼女にそう呼びかけた。口では虚勢を張っているが、実際は腕が限界に近かった。
だめだ。諦めるな。花蓮の手を離すな!
そう自分に言い聞かせるけれど、全身が引きずられて俺の身体ごと崖から落ちてしまう想像が頭をよぎる。
まずい。このままだと俺まで——。
恐ろしい想像に何度も身震いしかけた時、不意に俺の手を握る花蓮の手にぐっと力が入った。宙ぶらりんになった彼女に、まだこんなに力が残っていたのかと驚いた刹那、彼女がこう言った。
「綾人……もう、いいよ。ごめんね。ありがとう」
俺を見上げて涙を流しながら弱々しく微笑んだ彼女は、次の瞬間俺の手を自ら離した。
「え?」
何が起こったのか、事態を把握するのに相当な時間を要した。
目の前で重力に身を任せて落下していく彼女が、どんどん遠くなってやがて視界から消える。全身がぶるりと総毛立ち、息が止まりそうだった。
「は……うそ、だろ……。花蓮……なあ、花蓮……? わああああああっ」
あまりにもショッキングな出来事が目の前で起こったことで、俺の頭は完全にショートした。この事故の後、自分がどうやってホテルまで戻ったのかまったく覚えていない。俺と花蓮を探していた先生たちに保護された可能性もある。どちらにせよ、前後の記憶がおぼろげで、ずっと地に足がついていないような感覚だった。
花蓮を死なせたのは俺だ。
俺が花蓮を殺したようなもんだ。
修学旅行の前日に喧嘩なんかせず、旅行中、二人でずっと一緒にいたなら。花蓮は吹雪の中、林の向こうに取り残されることもなく、崖から落ちることもなかった。
はたまた、俺が自力で花蓮の周りの雪を排除しようとしなければ。救助隊が駆けつけるのを大人しく待っていれば。
俺が、花蓮の恋人じゃなければ——。
全身を駆け巡る後悔が、深い傷となって俺の脳に刻まれていった。
周りの人間は誰も、俺のことを責めたりはしなかった。俺の両親も、花蓮の両親も、どうしようもない事故だったんだよと、俺を慰めてくれさえした。
だけど、俺の中では最期に彼女が見せた表情が忘れられない。
花蓮はきっと、死んだ今でも俺のことを恨んでいるだろう。
どうして助けてくれなかったの、と泣いているだろう。
あの日からずっと、俺の中の後悔は拭えないままだ——。
***
鈴ちゃんのことが見えない。
昨日、祭りの夜に起こった出来事が、俺の中でずっと現実ではないような心地がしている。今日、鈴ちゃんに勧められるがままに病院に行った。鈴ちゃんは俺の隣にいてくれたけれど、俺はどうしても彼女の気配しか感じることができなかった。
どうしようもない現実に打ちのめされた鈴ちゃんが病院から飛び出して行ってしまったあと、水崎という医者から聞かされたのは、この脳の誤作動に対する対処法だった。
「中原くん。もしこれからも羽島さんとの関係を続けていきたいと思うのなら、一度恋人関係を解消する必要があるかもしれません」
「それはつまり……鈴ちゃんと恋人じゃなくて、友達としてなら今までみたいに彼女のことが見えるようになるってことですか?」
「そうですね。そういうことになります。でもこれは、あくまで即席の対処法でしかありません。たとえ羽島さんのことを諦められたとしても、また別の誰かと恋人になれば、同じことになる——トラウマを解消しない限りは、これがずっと続いていくと思います」
「……」
医者が言うのは至極もっともな話で、衝撃を覚える傍ら、頭の片隅ではきっとそうなるだろうと冷静に考えている自分がいた。
俺は花蓮が亡くなってから、花蓮の死に囚われ続けている。それでも鈴ちゃんという別の女の子を好きになったのは、前を向きたいと思っていたからだ。
もうあんな悲しいことは二度と起きてほしくないから。次にもし誰かを好きになった時には、本気で素の自分を見せられる人じゃないと嫌だと思った。鈴ちゃんは俺のことをまっすぐな目で見つめ、俺の作ったお菓子を「美味しい」と涙しながら食べてくれた。それが、絶望の淵でもがいていた俺をどれほど励まし、勇気づけたか。
俺は鈴ちゃんに、心の底から救われていたんだ。
病院から去っていく彼女を引き止めることもできずに診察が終了し、俺は意気消沈しながら一人暮らしの家に帰宅した。
途中、銀行のATMに寄って、生活費用の通帳を記入すると、両親から五万円の仕送りが入っていた。
高校を中退して一人暮らしを始めると両親に宣言したのは、高校中退という親不孝な選択をした自分が、これ以上家族に甘えられないと思ったからだ。自分の食い扶持ぐらい自分で稼がなければ。両親はもちろん反対して、「このまま家にいなさい」と言ってくれたが、俺の気持ちがどうしてもそうさせなかった。何より、花蓮を亡くしたばかりで、両親も俺のことをそっとしておこうと思ったのか、最後には黙って頷いてくれた。
結果的には叔父さんのお店で世話になっているし、毎月両親から仕送りが来ている。一人で生きていくと誓ったのに、大人のみんなから助けられている自分が情けなくて、一人部屋で悔し涙を流した。
「……何が、一人で生きていく、だよっ」
叔父さんに雇ってもらえなければ、きっと俺なんてパティシエという好きな仕事をすることすらできていない。
好きな女の子の心さえ、守ってやれない。
「なんで、どうしてっ……」
吐き捨てた嘆きが、電気もつけていない誰もいない部屋で、闇に溶けて消える。今日は夕飯を作れそうにないからと、買ってきたコンビニ弁当さえ食べる気がしなかった。
翌日の月曜日から三週間、俺は仕事を休んだ。
その間鈴ちゃんとはまったく連絡が取れていない。あんな別れ方をしたので、彼女の精神状態が心配ではあった。でも、すべての元凶である俺の方から連絡をするのも憚られて、何もできない状態が続いた。
職場のバックヤードで叔父さんに全ての事情を説明すると、彼は渋い顔をして「そうか……」と呟いた。
「俺はさ、この前初めて鈴ちゃんと話をしたけど、この子なら綾人のことを支えてくれるんじゃないかって、期待してたんだよ」
「……うん」
「綾人がさ、あの事件から少しずつ立ち直って、やっとまた前を向けるようになったのは、相手が彼女だからだって思ったからさ。今すぐに考えを改めろとは言わない。でも、鈴ちゃんとはちゃんと向き合うべきだ」
「……そうだね」
叔父さんの言うことはあまりにもその通りすぎて、逆に俺の右耳から左耳へとすり抜けてしまう。
俺だって、できることならこのまま鈴ちゃんの隣にいたい。
サナギから美しい蝶に生まれ変わっていく彼女を、この目に焼き付けておきたい。
でも、そうすることがお互いにとってプラスになるのかと考えたら、違うような気がして。今は誰にも、自分と鈴ちゃんのことを決められたくなかった。
「また何かあったらすぐに連絡しなさい。俺は綾人のこと、可能な限りサポートするから」
「ありがとうございます……」
叔父さんの優しさが、胸に沁みて痛かった。俺はまだ他のスタッフが来る前にお店を出て、そのまま家に帰ろうと、駅まで一直線の道を進もうとしたのだが。
「おい、中原綾人」
不意に男の子の声がして、俺ははたと振り返る。
「やっぱり中原綾人、だな」
そこに立っていたのは鈴ちゃんと同じ光が丘高校の校章をつけた制服を着た男の子。祭りの日に数人の男子グループで鈴ちゃんに話しかけてきた私服の彼の記憶と面影が重なる。名前は確か、赤城圭くんだったか。彼女の幼馴染だと言っていた。学校終わりらしい彼は、キリッとした眉毛を吊り上げて俺を見据えている。
「きみは、赤城くん、だよね。どうしたの、こんなところで」
時刻は午前八時。あと一時間もすれば学校が始まるのではないかという時間帯に、わざわざ『Perchoir』までやってくるなんて、俺に何か物申したいことがあるに違いない。彼が何を話に来たのか、大体の予想はついた。
「どうしたの、じゃねえよ。しらばっくれるな。お前、鈴に何したんだ?」
……ほら、やっぱり。
彼のまっすぐな視線は、今の自分にはまぶしすぎて。俺は咄嗟に目を逸らしてしまう。
「……別に何も。きみが心配するようなことは何もないよ。喧嘩もしてないし、今までどおり。ちょっと倦怠期かな? ってぐらい」
半分本当で半分は嘘だ。悪いとは思うけど、関係が希薄な彼に、俺と彼女についてすべてを話す必要はないと思った。
彼は俺の返事を聞いて、こめかみをぴくりと持ち上げた。完全に頭に来ている証拠だ。
「……お前、何言ってんの」
怒りに震える彼の声は俺の耳を浸透し、俺の中の彼女に対する罪悪感をむきだしにする。やめて。やめてくれ。それ以上、言葉を発さないでくれ。
「何もないなら、なんで鈴が泣いてるんだよっ。なんで鈴が傷つかなくちゃいけないんだ! この三週間、学校であいつの様子が変だから聞いてみたんだ。そしたら、はっきりとは言わないけど、お前と何かあったんだってすぐ分かったんだ! なあ、鈴の彼氏なんだろ? だったらちゃんと、あいつのこと守ってやれよっ! それが彼氏の役目だろ!!」
胸ぐらを掴む勢いで俺に詰め寄る彼。額の血管が浮き出て、今にも鮮血が飛び散ってきそうだ。
鈴ちゃんが、泣いてる。
分かってはいるつもりだったけれど、第三者から聞かされたことに心臓がドクンと大きく跳ねた。苦虫を噛み潰したような気分になり、目の前の男を直視できない。
「……クソッ」
俺が何も反応を示さないと分かると、手応えを感じられなくなった彼は掴んでいた俺の襟首を離す。勢いづいて後ろに倒れそうになった身体をなんとか制御した。
「これ以上お前に何を言っても無駄だってことが分かった。鈴の恋人だからって目瞑ろうと思ってたけど、もう容赦しない。俺の方が鈴を幸せにできる。鈴のこと、どうなっても知らないぞ!」
充血した目で俺を睨みつける赤城圭は、本気で鈴ちゃんのことが好きなんだろう。
今の自分に、この男に勝てるだけの自信はあるだろうか?
彼女の存在を認められないというのに、鈴ちゃんのことを幸せにできる自信が、ない。
「好きに、したらいい」
半ば投げやりとも取れる台詞が自分の口からこぼれ落ちた時、いよいよ彼の中で何かのリミッターが外れたかのように、怒りに震え出した。俺は、違う意味で震えが止まらない。
彼女を、この男に取られてしまうかもしれないという恐怖。
それでも、どこかで自分より、彼のような情熱的な人間とくっついた方が、彼女も幸せなんじゃないかって思ってしまう。
鈴ちゃん……俺は、鈴ちゃんのことがたまらなく好きだよ。
でも、鈴ちゃんを幸せにできるのは俺じゃないのかもしれない。
相反する気持ちに整理をつけることもできないまま、舌打ちして駅の改札口へと吸い込まれていく赤城圭の背中を遠く見つめていた。
綾人くんを病院に連れて行ってから三週間、まともにご飯が食べられなかった。
伯母さんと伯父さんは私に何があったのか聞かない。多分、お母さんのこともあり、いろいろと察してくれているのだろう。事細かく事情を聞き出さない彼らに、心底ほっとしている自分がいた。
「やっぱり来てないよね……」
いつかと同じように、部屋に引きこもってスマホをぼんやりと眺める毎日。綾人くんから、一度も連絡が来ないことに落胆したのは何度目だろう。今は夏休みだけれど、三年生はお昼まで夏期講習がある。せめて学校だけでも行かなければ、と重たい腰と足を引き摺るようにして登校していた。
それでも、学校ではようやく親しみを持てるようになったクラスメイトたちと、楽しく会話をすることができない。ずっと頭の片隅に彼の顔がこびりついているから。
精気の抜けてしまった私を、一番に心配してくれたのは圭だった。
私は圭が学校で話しかけてきても、まともに返事すらできない。圭は、あの祭の日に私と綾人くんを目撃しているから、彼に綾人くんとのことを伝えるのは気まずかった。
家でも学校でもちょっとずつしかご飯を食べていないので、三週間で体重が三キロも落ちてしまった。一時的なものだとは分かっているけれど、耳鳴りや吐き気がして、部屋の中ではずっとベッドの上で過ごした。
だけど、大好きなピアノを弾くことだけはやめられなくて。
縮む視界の中で浮かび上がる白と黒のコントラストを見つめながら、鍵盤に両手を添えた。ピアノを弾いているときだけは、まともに息を吸うことができる。ピアノが自分に残された唯一の光だと思った。
今日も学校から帰ってきてピアノを弾こうと椅子に座ったのだけれど、勉強机の上に置いていたスマホが震えていることに気づいて手を止める。
「誰だろう……?」
もしかして、綾人くん?
半分の期待と、半分の自制心をなだめながらスマホを手に取った。
画面に表示されていたのは赤城圭という名前だ。
圭……。
きっと、学校で私の様子がおかしいから、気になって電話をしてくれたんだろう。圭からの電話に出るかどうか、散々迷った挙句、私は通話ボタンを押した。
「もしもし、圭?」
『あーやっと出た。もう寝てんのかと思ったよ』
いつもの明るい調子で喋り出した幼馴染の声を聞いて、なぜだか胸がじんわりと熱くなる。
「……失礼ね。今何時だと思ってるの?」
『ん、三時だけど? 鈴のことだから昼寝してんのかと思うじゃん』
「しないよ。ピアノ弾こうと思ってたところ」
『ふうん』
なかなか要件を言わずに些細なことばかり話してくる圭だが、彼なりに気を遣ってくれていることが分かる。圭が電話の向こうで息を吸う音に合わせて、私は吐く息を整えた。
「圭、何か用があるんだよね?」
早く核心に触れて欲しくて私は彼に真意を問う。しばしの沈黙が流れたあと、ようやく圭は真剣な声色で話し出した。
『……ああ。この三週間、鈴の様子が変だから。サッカー部の練習の間も、正直集中ができなかった。鈴のことが気になってしゃーないんだ』
いつになく素直な言葉が飛び出してきて、私は息をのむ。
『なあ、鈴。単刀直入に聞くけどさ、あいつと——あの男と何かあったんだろ? 違うか? 俺は鈴を小さい頃から見てきたから、大抵のことは分かっちまうんだ。だからさ、何か悩んでることがあるなら吐いちまえよ。俺は、ちょっとやそっとのことでお前を嫌いになんてならないから』
「圭……」
彼の思いやりに満ちた言葉に、私は不意打ちをくらって固まってしまった。
本当はずっと、不安で仕方がなかった。
綾人くんから、このまま自分の存在を認めてもらえないんじゃないかって思うと、怖くて彼に自分から連絡を取ることもできなくて。
自分の世界に引きこもってただひたすら時間が経つのを待っているだけの自分。
綾人くんに会いたいし、会ってちゃんと話をしたい。
でも、そんな簡単なことすらできなくなってしまったことが、あまりにも悔しくて切なかったんだ……。
自分の気持ちに素直になってみると、両目の端から涙がぽろりぽろりと溢れ出てくる。「ううっ」と嗚咽すると、電話の向こうで彼が息をのむ気配がした。
「私……私は……、綾人くんとちゃんと話がしたい、だけなの。でも、できない。私はもう光を失ってしまったから。彼もきっと、私のことを見失うから……」
私の目の病気のことや、綾人くんの視界に私が映らないことを、圭に直接伝えるのは難しかった。曖昧な表現しかできなかったけれど、圭はこれだけの言葉で何かを察してくれたらしい。
『……そうか。分かった。俺がなんとかする』
と、固い声で呟いた。
なんとかするって、どういうこと?
そんな単純な疑問をぶつける間もなく、『また報告するから』と、彼はすぐに電話を切ってしまった。
一人、部屋に取り残された気分になった私は、ピアノの鍵盤の上に落ちる雫を、タオルでごしごしと拭った。
翌日、学校で夏期講習の授業を受けた後、圭が私の教室までやってきた。
「鈴、ちょっと話がある」
目が合った途端、真剣な声とまなざしで私をじっと見つめてくる圭。教室では話しにくいと思い、四階の特別教室前の廊下まで二人で歩いた。ここなら、放課後はほとんど生徒が通らないからちょうど良い。
「圭、どうしたの」
いつになく固くなっている圭の姿を見て、圭が何を言おうとしているのか、大体想像はついた。でも、あくまで私は圭の口から話の核心について聞きたかった。
「今朝、あいつと話したんだ。ケーキ屋の前で」
「え?」
あいつ。圭がそう呼んだ人が、誰のことなのかすぐに分かった。以前、圭に『Perchoir』のことを話したことがあった。
「わざわざ、『Perchoir』まで行ったの?」
「ああ。そうじゃないと、あいつの顔を見られないと思って」
「……」
圭は、綾人くんに会いに行ったんだ……。
私がこの二週間、会いたくても会えない彼に。でもどうしてそんなこと。
「どうしてって、思うだろ? そりゃ、昨日あんなふうに電話で泣かれたらほっとけないだろ」
「……」
圭の痛いくらいの優しさと思いやりが、私の胸をずきんと締め付ける。どうして圭は、そこまでして私のことを——。
「あいつのこと見損なったよ。鈴が泣いてるって伝えても、無反応だった。自分と鈴の間にはなにも問題なんて起きてないって様子で、ひたすら無視して。だから言ってやったんだ。俺の方が鈴を幸せにできるって。あいつは、好きにしたらいいって言った」
暴力的なまでに吐き出される圭の言葉を、私はただ茫然と聞いていた。
綾人くんが、圭に私のことで「好きにしたらいい」と言ったこと。
信じられない。でも、彼が今どれだけ心に葛藤を抱えているかを思えば、彼を責めることはできない。
「……だから、だからさ。俺、もう言っちまおうと思って。俺は、お前のことが好きだ。もう何年前からか分からない。小さい頃からずっとそばにいて、気づいたら好きになってた。お前と離れてた時期もあったけど、毎日会いたくて仕方がなかった。頑張って光が丘高校に合格して、またそばにいられるんだって、すげー嬉しくて。でも、俺には鈴に告白する勇気がなかった。ずっと友達だと思ってたやつから、急に好きだって言われても、鈴を混乱させちまう。最悪、友達にすら戻れなくなるかもしれないって思ったら、怖かったんだ。でも、綾人ってやつに鈴を取られてから、やっと気づいたんだ。もう誰にも、鈴のこと渡したくないって」
ずぶり、ずぶり、と圭の口から溢れる想いを聞く度に、心臓を刃物で抉られるほどの痛みが襲いかかる。なに、これ。なんなの、どうしてこんなに痛いの……。
圭の気持ちにはなんとなく気づいていたし、それほど自分を好きでいたくれたことはとても嬉しい。もし私が、圭と同じ気持ちであったなら、今この場で人目も憚らずに彼を抱きしめているに違いない。
でも、そうか。
私は、この告白を痛いと思ってしまうくらい、今ここにいない彼のことが好きなんだ……。
圭の胸に飛び込むのは簡単だ。でも、心がそれを許さない。圭に告白されてようやく気づくなんて、私は本当に馬鹿だ——。
四階の廊下の窓から、一陣の風が吹き付ける。私の顔が、髪の毛で覆われて、一瞬視界が遮られた。髪の毛がこそばゆくて、きゅっと目を瞑る。次にゆっくりと瞼を上げた時、縮む視界の中で切り取られた圭の緊張した面持ちが、すっと目に飛び込んできた。
圭はずっと変わらない。
変わらずにそばにいてくれるね。
私はそんな圭がいたから、あの人に恋ができたのかもしれない。
「圭、ありがとう。すごく嬉しい。圭の気持ち、まっすぐに胸に届いた」
圭の眉がぴくりと動き、半分俯きかけていた顔を持ち上げる。トンネルの中から、希望の光が見えたかのように、瞳に滲む少しの期待が、美しいと思った。
「でも……ごめん。私、やっぱり綾人くんが好きなの。どうしようもないくらい。綾人くんは、私に希望の光を見せてくれるから。だから……彼が私を見失っても、私が彼を探す。まだ私は完全に光を失ってないから、きっと彼を見つけられるって、今気づいたの」
「鈴……」
期待から落胆へと変わっていく圭の顔を見るのが、正直辛かった。
でも、ここで本心をひた隠しにすれば、余計に圭を傷つけてしまう。まっすぐに私への想いをぶつけてくれたからこそ、正面から伝えなければいけないと思った。
「圭、好きって言ってくれて、本当にありがとう。気づかせてくれてありがとう。私は彼を支えるって決めた。彼に堂々と会いに行けるように、大好きなピアノを頑張って、夢を見つける。それでまた、彼の視界に、入れたら嬉しい」
現状は何一つ変わっていない。
今でも綾人くんは、私の姿を認めることができないんだろう。
そんな絶望的な現実に、私自身打ちひしがれて、ずっと殻に閉じこもっていた。でも、そんな私の殻を破いてくれたのが圭だ。このまま、綾人くんと向き合うことから逃げたくない。
「……そっか。あいつのこと、本気で好きなんだな。じゃあ、俺が出る幕はないな」
泣き笑いのような口調でさらりとそう言ってのける圭の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。私は、胸に残る痛みを真正面から受け止める。圭はきっと、もっと痛い。だから今ここで、私が泣いたらダメだ。
「鈴、頑張れ。俺はいつどんな時でも、お前の味方だよ。そんで、もしあいつのこと嫌になったら、また戻ってこいよ!」
冗談みたいに笑い飛ばして「じゃあな」と手を挙げて走り去っていく圭。遠くなっていく彼の背中を見ながら、「ありがとう」と心の中で何度も呟いた。
圭、本当にありがとう。
傷つけてごめんね。
でも私、諦めないから。
わがままかもしれないけど、見守ってくれたら嬉しい。
窓の外で、ツクツクボウシが鳴いている声が耳に響く。今までもずっと鳴いていたはずなのに聞こえていなかったのは、圭と真剣に気持ちをぶつけ合っていたからだろう。
綾人くん、私、あなたに会いたい。
どうやったら会える?
どうやったらまた幸せな恋人同士に戻れる?
綾人くん……。
今ここにいない彼を思いながら、廊下の端まで歩く。彼は今、これまでどおりお店で夢に向かって修行に励んでいるのだろうか。私のことを忘れて一直線に——。
ただでさえ狭い視界の端が、涙でどんどん滲んでもっと狭くなっていく。階段で転げ落ちそうになりながら、一気に一階まで降りる。
諦めるな、私。
絶対に綾人くんに、もう一度会いにいく。
そのために、今できる私のすべてをぶつけよう。
真昼間の太陽の下、彼と再びつながるために、胸に決意を秘めて、駅までの道を走った。
家に帰ってから、私は近所のピアノ教室を探し始めた。
私も綾人くんのように、夢に向かって全力で走ってみたかった。彼が追い求めるものを、少しでも肌で感じていたい。ジャンルは違えど、夢を追うということを知って、綾人くんの心に近づきたいと思った。今の私にはそれぐらいしかできない。でもこれは、大きな一歩だ。
ピアノ教室はいくつか見つかったけれど、どの教室も一ヶ月で一万円ほどの月謝がかかる。私のお小遣いは月五千円だから、貯金をすればなんとか払えるかもしれない。でも、少し貯金が貯まるまで時間がかかる。伯母さんに話してお小遣いを上げてもらう? ピアノ教室に通いたいと訴えてみる? うーん、どちらも伯母さんに気を遣わせてしまうし、これでは自分で努力をしたと言い難い。
となれば、取れる手段は一つだ。
ピアノ教室と共に、アルバイト先を探すことにした。
レストラン、カフェ、塾講師、居酒屋、コンビニ……いろんな職種があったが、目の病気を抱えている私にとって、接客業はかなり不安だ。それならばコールセンターや工場など、直接お客さんと接しない仕事はどうかと思ったけれど、どちらも高校から帰ってきてこなせるような仕事ではなさそうだ。
「どうしよう……」
ネットで見つけた求人サイトには似たような職種ばかりで、自信を持ってできそうな仕事がない。やっぱりアルバイトは無理なんだろうかと諦めかけた時、ふとある記事が目に留まった。
#文字単価一円/一文字。一記事三千文字〜。初心者歓迎! あなたの人生体験を記事にしませんか?
「人生体験を記事に?」
そこに書かれていたのは、自分のこれまでの経験をなんでもいいから記事にするという仕事だ。一文字一円という報酬はわかりやすいが、これまであまり文章を書いたことがない私にとって、三千文字を書くのがどれくらい大変なことなのか、あまり想像がつかない。
でも、この仕事なら人目に触れずにお金を稼ぐことができる。
一記事三千文字なら、一ヶ月に四記事書けば、一万円以上稼ぐことができる。しかも、学校終わりの好きな時間に仕事に取り組めるのだ。
求人内容をじっと見つめていた私は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
この仕事なら、私にも挑戦できるのではないか。
散々考えた末に、プロフィールを打ち込んで、「応募する」ボタンを押した。
応募した仕事は二日後には採用を受けて、早速仕事に取り掛かった。人生体験がテーマなので、私は自分の目の病気のことについて書き綴る。
『私は、網膜色素変性症を患っています。視界の端がぼやけてどんどん見えなくなる病気です。この病気と闘いながら、一つの夢に向かって進むことを決めました』
体験談を書いている最中、何不自由なくこなしていた動作の一つ一つが困難になったことを思い、泣きそうになった。だけど、まだ私にはこうして文字を打つこともできているのだ。まだ。まだ今は頑張れる——。
夢中で書き綴った記事は、意外にもすぐに三千字を超えた。もともと、心の内側であれこれと考えることが多かったのが、功を奏したのかもしれない。
記事を書くと同時に、いくつか体験授業に行ったピアノ教室の中で、一番自分に合う先生のところへ通うことにした。月謝は月末に渡すことになっているので、アルバイトと同時進行で先生からピアノを習い始めた。
先生は、私が網膜色素変性症だということを知ってとても驚いていた。でも、すぐに優しく微笑んで、
「盲目の方の中には、聴覚に優れている方が多くてね。そういう方ほど素晴らしい演奏をするの。だから鈴さんもきっと、上手くなれるわ」
と教えてくれた。
私は伯母さんの家に転校する前までピアノを習っていたので基礎はできているものの、細かい指の運びや、曲の細部までこだわる力がまだ足りていなかった。先生の教室に通うたび、先生はその曲に込められた作者の想いや、鍵盤をどれくらいの力で抑えるなど、とても細かい内容まで指導してくれた。一人で練習していたのとはまったく違う。私は、自分のピアノがメキメキと上達していくのを肌で感じていた。
週一回のレッスンの日以外は、部屋でピアノを猛練習した。伯母さんから「最近頑張ってるわね」と言われて、誇らしい気持ちになる。けれど、まだ足りない。もっと、もっと、上手くなって、ピアノで生きる道を探したい。だから、先生の厳しい指導にも必死に食らいついた。
一ヶ月が経った頃、記事の仕事で初めてのお給料が入った。ちょうど四記事書くことができたので、稼いだお金でピアノの月謝を支払って一息つく。翌月も、また次の月も、仕事とピアノ、もちろん学校の勉強もすべてに精を出していたので、忙しすぎる毎日だった。でも、心はずっと満たされている。綾人くんと、まともに連絡すら取れないほど忙しいのに、夢に向かって突っ走っている自分が、誇らしかった。
そうしている間に季節は巡り、十月半ば、秋も深まる時期に差し掛かった。
世間は半月後に迫るハロウィンの華やかな空気に彩られている間、私は受験する大学を決めた。伯母さんの家からは通えない東京の大学だ。奨学金を借りて、一人暮らしをしようと思っている。そう伯母さんと伯父さんに告げると、「鈴ちゃんの決めたことなら」と応援してくれた。
綾人くんとの関係を除けば、私は将来への道を着実に進んでいるように見えた。
……でも。
「あれ……おかしいな」
いつものように学校から帰宅して一通り勉強をした後、ピアノの前に座るといつもよりもぐっと視界が狭まっているように感じた。なんだろう。普段は視界の四分の三見えているのに、急に半分しか見えてなくなっている。ゴシゴシと目を擦り、何度も瞬きを繰り返しても、やっぱり変わらなかった。
焦りながら鍵盤に指を触れて、練習中のショパン『幻想即興曲』を弾き始める。右手や左手の動きが鍵盤の端の方に広がるたびに、見えないというストレスに打ちひしがれそうになった。それでも、指が鍵盤の位置を覚えているのでなんとなく演奏することはできる。だが、これまでよりも圧倒的にミスタッチが増えたのは間違いなかった。
「なんで急に……」
医者は、数年かけて進行する病気だと言っていた。
こんなに突然見えなくなるなんて思ってなかった。
「……っ」
たまらなくなって、鍵盤から指を離す。最後に響いた不協和音が部屋の中で余韻を残した。
「嘘でしょ……こんなの、嘘だ」
とめどなく溢れる涙が鍵盤の上を濡らしていく。木製の楽器は水分に弱い。普通なら慌ててハンカチで拭くのだけれど、今はそんな気にすらなれなかった。
ダン、と鍵盤をぐちゃぐちゃに押さえつけると、不快な音がジワリと響き渡った。どうして? このままピアノを練習して、勉強を頑張って大学に合格して。在学中もピアノに励んで、ピアノで生きる道を探そうとしていたのに。
私には、そんな些細な夢を追うことすら、許されないのだろうか……。
翌日、昨日のこともあり学校を休んで病院に向かった。担当の足立先生は私の目の検査をした後、渋い顔をして言った。
「病気が、思ったよりも早く進行していますね。ちょっと稀に見るケースで、もう少し詳しく見なければ分かりませんが……。羽島さん、この様子だと白杖を使った方が良いかもしれません」
「そんな……」
白杖を持って、この先一生生活する?
そんな未来がすぐそこまで迫っているとは考えず、先生の言うことを信じられない気持ちで聞いた。
「なんとか、治す方法はありませんか!?」
いつになく私が取り乱したせいか、足立先生の表情に苦悶の色が滲んだ。先生を困らせていると分かっていても、迫り来る非情な現実に、打ちのめされそうだった。
「最初にも話した通り、治療法は確立されていません。本当に、私としても悔しい限りです……。せめて羽島さんの生活が不自由にならないように、全力でサポートします」
悔しそうな先生の表情を見て、熱くなっていた頭がすーっと冷えていくのが分かった。
「すみません、先生……。私、どうかしていました。白杖、考えてみます」
「いえ……病気のことで苦しいと思うのは普通のことです。またいつでも相談に乗ります」
何もできない無力さに肩を落とした先生の姿が脳裏に焼き付いた。先生は、近くに盲人福祉施設のライトハウスがあるからと教えてくれた。私はそこで、二週間ほど白杖を持って歩く訓練を受けた。初めてのことで戸惑いを隠せない私に、相談員の方たちは優しく指導してくれた。
いざ、白杖を持って路上に出てみると、思いの外使うのに躊躇う自分がいた。
白杖を持っているところを、知り合いに見られたらどうしよう。
恥じることは何もないはずなのに、高校生の自分が白杖を持って歩くことに、羞恥を覚えた。
「綾人くん……」
もう三ヶ月近く、彼と連絡が取れていない。でも、私はずっと彼に私の夢を見せたくて、頑張ってきた。
だけどもう、無理かもしれない。
夢に向かって一直線に進めると思っていた。多少ハンデがあっても、それすら乗り越えて、生きていこうと誓った。私が彼の光になればいいんだって。
綾人くん。
私は、あなたに会えない。
夢を見つても、すぐに失ってしまうような私が、あなたに合わせる顔なんてない。
白杖をひた隠しにして学校に登校したあと、トイレの個室の中で涙が枯れるほど泣いた。
『私の未来に、もう光はないかもしれない。本気でそう思った瞬間でした』
赤城圭が再び俺の元にやって来たのは、十月三十一日、ハロウィンの日だった。
俺は一ヶ月前から仕事に復帰していた。鈴ちゃんと距離を置いたことで、少しだけ冷静に自分を見つめることができるようになった。叔父さんにこれまで休んでいたことを詫び、再びパティシエという夢に向かって修行に励もうとしていた時だ。
「久しぶりだな」
繁忙期のこの時期にやってきた赤城圭は、前回見た時と違い、長袖のワイシャツを着ていた。部活帰りなのか、涼しい季節にも関わらず額にびっしょりと汗をかいている。
お客さんの波が減った閉店三十分前、すっかり日も暮れて閉店作業に追われている時間帯だった。
「赤城くん。俺に何か用? もしかして、ハロウィンケーキを貰いに来たんじゃないよね?」
「アホか。そんなんじゃねえ。お前に用がなくちゃ、こんなところで電車降りねえよ」
「それもそうだね。……悪いけど閉店まで待ってもらえる?」
俺の提案に納得してくれたのか、不貞腐れた様子で彼は外のテラス席に座った。
それから三十分間で閉店作業をし、同僚が帰っていくのを見送る。テラス席で頬杖をついている赤城圭の前に、ケーキの箱をトンと置いた。
「なんだよ、これ」
「売れ残りのハロウィンケーキ。この間のお詫びもかねて、よかったら食べて」
箱の中から取り出したのは、オレンジ色のスポンジの上に、オバケの砂糖菓子やチョコレートでできたカボチャが乗ったショートケーキだ。毎年人気のハロウィン・オレンジケーキ。一つだけ売れ残ってしまったので、彼に食べてもらうのにちょうど良かった。
「こんなもんで俺を懐柔しようってか?」
「まさか。俺は純粋に、自分が作ったケーキの感想を聞きたいだけ」
俺の回答が腑に落ちなかったのか、むすっとした表情のまま、彼はケーキにかぶりついた。一口目でショートケーキの半分くらいの量を食べる。豪快な食べっぷりに、俺は「おお」と感嘆の声を漏らす。
赤城圭はもぐもぐと口を動かした後、ケーキをじっと見つめる。それから、何かのスイッチが入ったかのように残りのケーキも貪り食べるようにして口に入れた。どうやらお気に召したみたいで、自然と笑みが溢れてしまう。
「……うまかった」
唇の横についたクリームを拭うと、彼はボソッとそれだけ呟いた。
「本当に? それは嬉しいよ」
もっと捻くれたやつだと思っていたのに、素直な感想に驚きを隠せない。
「ああ。これ、お前が作ったのか? 普通に、プロの味じゃん」
「ありがとう。でもまだまだ修行中なんだ。店長から、『綾人は全体的に器用だけど、最後の詰めが甘い』ってよく言われる。もっと、お客さんに喜ばれるケーキを作りたい。それが俺の夢なんだ」
「そうか……そりゃ、惚れるわけだ」
「え?」
遠い目をしながら呟く赤城圭の様子に、俺は目を瞬かせる。
トワイライトの薄闇の空に、ぼんやりと月が浮かんでいた。
「鈴、お前にとことん惚れてるんだよ。俺さ、前に鈴に告白したんだ。ちょうど、ここでお前と話した次の日に。俺の方が鈴を幸せにできると思った。……でも鈴は、お前のことがやっぱり好きなんだって。夢を見つけて頑張る姿をお前に見せるんだって。バイトしてお金貯めて、ピアノのレッスンまで通って、すごく頑張ってた。お前に、光を見せてあげられるようにって——」
とくん、とくん、とくん。
心臓の音がどんどん大きくなる。
鈴ちゃんと交流が途絶えてから、三ヶ月が絶とうとしている。その間、俺はずっと彼女から目を背けてきた。そうすることでしか手に入らない平穏があったから。
でも、鈴ちゃんは違ったのか。
鈴ちゃんは、ずっと俺のことを考えて、俺を励ますために夢に向かって進んでいた?
鈴ちゃんだって、目の病気で辛い思いをしているはずなのに。
俺は、そんな鈴ちゃんに何一つ希望を与えてあげられない。逃げてばかりで、鈴ちゃんと向き合おうとしていなかった。
「でもあいつ、最近様子が変なんだよ。俺には隠してるつもりみたいだけど、あいつが落ち込んでるのなんてすぐに分かっちまう。学校に行く時、白い棒——あの、目の不自由な人が使う棒があるだろ? それを持ってて、裏道にさっと入っていったんだ。見間違いじゃなかった。俺、びっくりして何も声をかけられなくて。鈴は俺を避けてるから、鈴が何に悩んでるのか、俺は分からないんだ……」
絶望の滲む声で赤城圭が話し出す。
鈴ちゃんが、白杖を持っていただって?
彼女の病気はそれほど早く進行するものだっただろうか。
驚きと同時に、胸に鋭い痛みが走る。
ああ、どうして俺は。どうして鈴ちゃんが大変な時に、彼女のそばにいてあげられないんだ。
「……頼む。中原、お前が鈴のそばにいてやってくれ。俺じゃ、意味ないんだよ。俺じゃ鈴を、救ってあげられない。鈴に光を見せてあげられない。たぶん、お前じゃなきゃダメなんだよっ」
棒立ちになっている俺の両腕にしがみつくようにして、赤城圭は鼻水を垂らし、俺に懇願するようなまなざしを向けた。その目に宿る光の珠が、彼が鈴ちゃんを想う気持ちを映し出す。俺なんかよりずっと、強くて美しい想い。俺は、鈴ちゃんのために、何ができる?
「赤城、圭くん」
キリキリと痛む胃から搾り出すようにして、彼の名前を呼ぶ。
俺は……本当は悔しかったんだ。
鈴ちゃんのことを本気で好きなのは俺なのに。
鈴ちゃんを幸せにできる自信があったのに。
鈴ちゃんの姿が見えなくなって、自分自身に絶望していたんだ。
彼女のそばにいたいのに、そばにいればお互いが辛くなってしまう。
だから逃げた。彼女の姿が見えないことを、悩まなくて済むように。彼女の前から姿を消した。訪れた安寧の日々は退屈で、何かが欠けていた。
こんなふうに、鈴ちゃんのことを心から想うきみを見ていると、俺は胸が張り裂けそうになるんだ……。
鈴ちゃんをいちばん想っているのは俺じゃなきゃ、ダメなのにって。
「俺は……鈴ちゃんのそばにいても、いいのかな」
口から溢れ出た言葉は、自分でもびっくりするくらい弱く、まるで自分の言葉じゃないみたいだった。
「当たり前だろっ。認めたくないけど、お前じゃないとダメだ」
当然のように肯定してくれる好きな人の幼馴染は、鼻水をずずーっと啜った。
「……分かった。その言葉を信じる。俺は、鈴ちゃんに会いに行くよ」
「そうしてくれ。……鈴のこと、頼んだぞ」
いろんな想いがあったに違いない。今、赤城圭の胸の中は、夕暮れ時の空が群青色に染まっていくみたいに、さまざまな色が混ざっているだろう。俺は、そんな彼の複雑な気持ちを背負って、彼女に会いに行かなければならない。
「赤城くん、ありがとう。それから、先日は失礼な態度とってごめん。またみんなでご飯でも行こうよ」
「ふん、やだね。俺は鈴と二人でご飯に行く」
こんな時にまで悪態をついてくる彼の根性に、俺は思わず笑ってしまった。
鈴ちゃんのそばに、彼のような友達がいてくれて良かった。
心の底からそう思える瞬間だった。