数日後 市の部屋
「連絡こないですね。あの一回切りだったのかなぁ……」
「すみません……わたしの力不足で。」
「そんな!市さんが謝る事はないですよ。こっちこそごめんなさい。色々巻き込んでしまって……」
頭を下げる市を慌てて抑えて、蝶子も頭を下げる。そして顔を見合わせてどちらからともかく吹き出した。
イチから連絡がきてから数日。再び呼びかけがあった時の為に蝶子が市の部屋で一緒に寝起きするも、あれから何事も起こらない。筆と紙を肌身離さず持っているものの、いつくるとも知れない連絡をじっと待つのも疲れるものである。
蘭も毎日仕事が終わってから顔を出しては、何も成果がないと知ると残念そうな顔で帰って行く。まだまだ希望は捨てていないが、三人とも顔に疲れが見え始めていた。
「それにしても暇だな~この時代って本当に娯楽がないんですね。」
蝶子が伸びをしながら言うと、市が苦笑した。
「そうですね。わたしはこれが普通ですけど、濃姫様は未来では研究とやらをなさっていたのでしょう?それは毎日ですか?」
「うん。昼間は大学に行って勉強して、帰ってきたら父さんの実験の手伝いの日々だった。忙しかったけど充実してたな。自分で選んだ道だしね。」
「……羨ましいですわ…」
「え?」
ボソッと市が呟く。蝶子は隣を向いた。
「あ、ごめんなさい!つい……」
市が顔を真っ赤にして着物の袖で隠そうとする。蝶子は笑って首を振った。
「いいんですよ。そうやってどんどん本音を言っちゃって下さい。市さん、いつも私の話を聞くばかりで全然自分の話をしないんですもん。こうして仲良くなったんだし、色々教えて下さい。」
「でも……」
「私はもっともっと市さんの事が知りたい。それとも…私なんかには話したくないですか……?」
悲しげな顔をすると市は慌てて両手を振った。
「そ、そんな事はありません!ただ、こうして歳の近い方とお話する事に慣れてないので、どうすればよいのかわからないのです。わたしは元々口数の多い方ではありませんし、お話を聞いてるだけで楽しくて。決して濃姫様にお話したくないとか、そういう事ではございません。」
「あはは。わかってますよ。ごめんなさい、ちょっと意地悪しました。焦ってる市さん、可愛いですね。」
「かっ……」
益々赤くなって茹でダコみたいになった市はそのまま固まった。蝶子は一頻り笑った後、居住まいを正して言った。
「いつも蘭の話とか聞いてくれて本当に感謝してるんですよ。話す事で救われる時もあるし。だからもし市さんにも悩みとかあったら、私は力になりたいです。」
「濃姫様……」
「今すぐとは言わないですけど、市さんが話したいって思った時に声かけて下さいね。喜んで聞きますよ。」
蝶子がにっこり笑うと、市は少し潤んだ目で頷いた。
真面目な空気にお互い照れ臭くなって視線を逸らした瞬間、急に市がハッとした顔をして背筋を伸ばした。それを横目で捉えた蝶子が側にあった筆と紙に手をかける。
「濃姫様……」
「きた?」
「はい……」
小声で囁き合う。それに頷いた蝶子は卓に紙を置いて筆を取った。
「この前と同じです。『お嬢様!蘭さま!』と叫んでおられます。……あなたはイチさんですか?」
市が呼びかける。しばらく沈黙が流れたが、市が頷きながら蝶子の方を見た。どうやら本当にイチらしい。
逸る気持ちを抑えながら、蝶子は全神経を右手に込めた。
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