この戦は後に稲生の戦いと呼ばれる。
信長軍が清洲から南東の於多井川を越えたところで、東と南から信勝軍に挟まれる形になり、ついに戦いが始まった。信長方の手勢わずか700人足らずに対し、信勝方は合計1,700人を擁していた。
信長は前もって名塚砦という砦を築いていて、そこで牽制を図った。 信勝方の家来らは名塚砦への攻撃に打って出て、信長がこれを迎え撃った。そして両者は稲生で激突する。
「大丈夫か、蘭丸。」
「あ、父上。」
ボーッと座っていると可成が声をかけてきた。蘭は苦笑して『何とか……』と呟いた。
「それにしても信勝さんはいないみたいだね。」
「そうみたいだ。有力家臣に任せて自分は末森城に隠っているんだろう。」
そう言って可成は少し残念そうな顔をした。
ここは信長が前もって造っていた砦の中。頑丈な壁に囲まれていて、戦場でも比較的安全な場所だ。といってもさっきから色んな人の怒声や悲鳴が聞こえてきて、更に言葉にするのも憚られるような音も漏れてくる。
蘭は耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、これはこういう雰囲気を体験させる為に信長が用意した舞台だと思って、震える体に鞭打っているのだ。
(それに、こうして可成さんが近くにいてくれる。)
蘭は隣の可成を見た。
信長は『自分の側にいろ』なんて言ったくせに、蘭をここに置くと早々に戦地に向かっていった。何でもじっとしていると血が騒いで、いても立ってもいられなくなるらしい。
「でもいくらここが頑丈だからって、大勢で攻められたら壊れちゃいますよね……?」
外の喧騒がさっきよりも近くなったように聞こえて不安になってきた。問いかけると可成はにっこりと微笑んだ。
「心配いらないよ。だってこの近くにいるのは柴田殿の軍だから。」
「……え?どういう事?」
「柴田殿はここ最近末森城の方に入り浸っていたんだ。信勝様の軍としてこの戦いに参加する為に。」
「信勝さんの軍として……?それって裏切ったって事?」
「違う、違う。逆だよ。」
「逆……」
考え込む仕草をすると、可成は蘭の肩をポンッと叩いた。
「柴田殿は忠実な信長様の家臣だよ。そして密偵の達人だ。」
「あ!まさか……信勝さんの軍として参加してるけど、本当は信長様の家臣、という事は……」
ハッとして壁の隙間から外を覗くと、勝家の大きな後ろ姿が木々の間から見えた。
「柴田殿は信勝様に反旗を翻して、必死にここを守ってる。……という事だ。」
「そうだったんだ……」
ここに敵が攻めてこないのは、勝家が守ってくれていたからだった。蘭は改めて勝家の方を向いた。
(ありがとう……勝家さん!)
「織田信長はここだ!逃げも隠れもしない。我こそはという者はかかってこい!」
その時、辺り一面に信長の太い声が響いた。それはまるで地鳴りのように、ビリビリと体中を駆け巡った。
「ちょっと、ちょっと!そんなでかい声出したら……」
慌てて声のした方を見ると、信長が馬に乗って禍々しいオーラを放っていた。
「ひっ!」
思わず喉がなる。隣で可成も固まっていた。勝家の軍も敵軍も、誰も動かない。味方の信長の軍でさえ、時が止まったようだった。
「……退避ーーー!!」
一瞬のような永遠のような時間はその一言で破られた。
それは敵軍の大将の声だった。
そこからは早かった。蜂の巣をつついたみたいにあっという間に敵軍はいなくなっていた。残ったのは信長軍と柴田軍だけ。
「た、助かった~……」
格好悪い事に蘭はその砦の中でへなへなとしゃがみ込み、結局勝家に担がれて清洲城へと帰還したのであった……
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