「はぁ~旨かった!さすがイチだよな~、お前も見習った方が良いんじゃないか?」
「うるさいわね!いいのよ、私は。イチが何でもやってくれるんだから。」
 イチの手料理でお腹いっぱいになった二人は、そう言い合いながらキッチンの方を見た。そこからは食器を洗う音に混ざって鼻歌が聞こえる。
「イチがやってくれるってお前……仮にも女だろ?嫁に行った先で困るのは自分だぜ?」
「今どき何処の家でも家政婦ロボットくらいいるでしょ。ていうか、私嫁に行く気なんてないから。」
「はぁ?」
「だってそうでしょ。お父さんの研究引き継ぐつもりで大学行きながらこうして助手してるんだし、結婚なんて考えてないわ。」
 きっぱりとそう言う蝶子。蘭は口を開けてそんな蝶子の整った横顔を見た。
「お前がおやっさんの研究を本気で受け継ぎたいって思ってるのは知ってたけど、女の幸せを犠牲にする覚悟があったとは思いもしなかったよ。」
 心底感心したっていう態度の蘭に、もはや蝶子の口からはため息しか出てこない。

 ノーベル賞を取った天才科学者の一人娘として父親の研究を絶やしてはいけないという使命感を持っているのは事実だが、結婚うんぬんはまた別の話だ。蘭にはあぁ言ったが……半分意地なのである。
 そりゃ好きな相手とできるならこの上ないが、それも希望的観測に過ぎない。
 目の前の能天気な顔を思いっ切り睨んでやった。

「そっちこそどうなの?歴史とやらの勉強は。」
「『とやら』って何だよ……まぁ楽しいよ、好きな分野だからな。」
 蘭の表情が綻ぶ。それを見た蝶子も内心で微笑んだ。

 蘭は東都大学の歴史学部の一年生。ちなみに蝶子は工学部の同じく一年生である。
 義務教育や高校の授業で歴史、主に日本史が廃止になって久しい今、蘭のように歴史に興味を持って学びたいという若者は年々減っている。しかしそんな中でもしぶとく残っている歴史学者はいて、蘭はそこのゼミに何とか入る事ができたのだ。
 昨夜の寝不足も日本史のテキスト、もといマンガ本を読んで余りの面白さについつい寝るのが遅くなったという経緯だった。

.