あの織田信長に面と向かって『お前らは一体何者だ?』と凄みのある声で言われた蘭は心底震えた。
 元いた世界に戻れないならせめてここに置いてもらえないかを死ぬ気で談判しようと決めた心が呆気なく崩れ、もうこのままその冷たい瞳に殺されたいとさえ思った。
 あのタイムマシンが壊れた今、自分達にはそれしか道はない。絶望的な気分で俯いた時、ため息と共に優しい声が聞こえた。

「名は何という。」
「え……?」
「名前だ。まさか名無しの権兵衛っていうんじゃないだろう。」
 おどけた口調の信長に茫然としていると、少し離れた所にいた人物が小声で囁いた。
「名乗って下さい。」
 それに小さく頷いて蘭と蝶子は震える声で言った。

「藤森……蘭です。」
「濃田蝶子です……」
「字はどう書く?」
 信長の言葉に何処から出てきたのか和紙と筆が二人の前に置かれる。戸惑いながらもそれに書いて良く見えるように掲げた。

「蘭に蝶子か。ところでお前らは敵方からの密偵などではないのだな?まぁ見た目は全然そういう風には思えんが。」
「密偵……?いいえ、僕達はただ気づいたらあの山にいただけで……」
「ふむ。」
 信長はそう短く唸ると徐に立ち上がって近づいてきた。
「え?……え?」
「じっとしてろ。すぐ終わる。」
 近づいてこられてその余りのオーラに腰が引ける。そんな蘭の様子にも構わず、信長はしゃがみ込むと蘭の顔をじっと見た。そしてゆっくりと目を閉じる。
 しばしの沈黙――

「?」
「……なるほど。そういう事情か。よし、わかった。光秀、この二人に部屋を与えてやれ。それと着替えも用意しろ。」
「はっ!承知致しました。」
 急いで出ていく光秀を何が何だかわからない頭で見送っていると、肩を叩かれた。
「ひっ……!」
「そんなに恐がらなくてもいい。取って食ったりしない。」

(いや、さっきのあの冷たい瞳を見た後じゃ説得力ないから!!)
 心でそう叫んでいると、信長は元の位置に戻って無造作に着物の袖から扇子を取り出した。それを勢い良く開いて閉じる。パチンッという小気味良い音が鳴った。

「お前達は今日からここで暮らす事にする。お前は蘭だから蘭丸。その方は濃田の濃を取って濃姫とでも呼ぼう。濃姫は……」
 そこで言葉を切ると信長はそこにいながら、蝶子の方に手を伸ばしてさっきと同じ様に目を瞑った。
「……やはりな。」
 しばらくして目を開けた信長はニヤリと口角を上げると、蘭の方を見ながら言った。

「俺もそろそろ妻を()とらないとと思っていたのだ。しかし中々いい女がいなくてな。あちこちから縁談はあったが、どれもこれも結局は自分の家柄を上げる為に俺に嫁がせたいっていう魂胆が見え見えで……それならいっその事、生涯独り身を貫こうかと思っていたんだが。」
 そこで一旦言葉を切ると、視線を蝶子に戻してにこりと笑った。

「濃姫。お前は俺の妻になれ。」
 先程の冷たい瞳よりも背筋が凍る笑顔だった……

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