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 桜田が朝早く事務所に到着して車から降りた時、見たこともないような数の報道陣に取り囲まれた。戸惑っていると、紙を持った女性記者がマイクを突きつけた。
「これをご覧になりましたか? 何か弁明されることはありますか?」
 10本以上のマイクが桜田の口元を襲うように突き出された。
「えっ? なんのことですか?」
 桜田は泡を食った。何が起こっているのか、まったくわからなかった。その時、後ろから来た男性が紙を奪うと共に、桜田の腕を掴んで事務所の中に引っ張り込んだ。選挙対策本部長だった。彼は事務所の玄関に鍵をかけ、カーテンを閉めた。
「桜田さん、これは事実かね?」
 読み終えた本部長は桜田の目の前にファックスを掲げた。それを奪うように取った桜田の目に自分らしき人物の写真が飛び込んできた。それは、どれも破廉恥(はれんち)なものばかりで、形容しがたい気持ち悪い汗がじわっと体を覆った。すぐに文章を読んだ。自分の顔が青ざめていくのがはっきりとわかった。「なんてことを……」と声が出た途端、チラシを持つ手がブルブルと震え出した。
「こんなこと、」
 一転して顔が熱を持った。
「これは事実ではありません。身に覚えがありません」
 大きな声で否定したつもりだったが、声が(かす)れて喉声(のどごえ)のようになっていた。
「でも、この顔は桜田さんだよね」
 暗くてはっきりはしなかったが、そっくりのように見えた。
「よく似ています。ですが、私ではありません。信じてください。絶対に私では」
「だが、」
 言葉を(さえぎ)った本部長が顔をしかめた。
「もしこれが君ではないのなら、この写真が偽物だということを証明できるのか?」
 無実の証明を迫られた。しかし、それがどんなに難しいことであるかは桜田自身がよく知っていた。
「それは……」
 そのあとは声にならなかった。頭を抱えるしかなかった。
 桜田は本部長の勧めに従って当日の街頭演説を取り止め、今後の対策を事務所に缶詰めになって考えた。
 先ず、これを誰が作って誰がFAXしたかを突き止めなければならない。次に、この写真に写っている男が自分ではないことを証明しなければならない。その上で、警察に被害届を出さなければならない。
 桜田は、どうやって成し遂げるかを必死になって考えたが、どこからどう手を付ければいいのかまったくわからなかった。それに、本部長の疑わしそうな視線を感じて、心が折れそうになった。しかし、質問は続いた。
「桜田さん、この写真は本当に君ではないんだね?」
「間違いありません。このような女性と逢瀬(おうせ)したことは記憶にありません」
「酒に酔って記憶がないということも有りえるんだ。本当に違うと言い切れるんだね」
「はい。酒は好きですが、酔った勢いで女性を口説いたことはありません」
「間違いないね? 非常階段でキスしたり、女性のマンションに出入りしたことはないんだね?」
「絶対にありません。天地神明(てんちしんめい)に誓ってありません」
 彼は桜田を食い入るような目で見た。桜田の目が泳いでいないか確認するような目つきだった。桜田は視線を動かさなかった。本部長をしっかりと見つめ続けた。
「わかった。では次、奥さんのことは?」
「妻とは……残念ながらうまくいかなくなり、昨年離婚しました。今は大阪の実家に戻っています。しかし、ここに書いているようなことが原因ではありません。というか、このような事実はないのです」
「本当だね? 奥さんに暴力を振るったことも、自宅で奥さん以外の女性とセックスしたこともないんだね?」
「そうです。両方とも事実無根です」
「しかし、奥さんが泣いている顔写真はどうなんだ?」
 桜田はその写真を穴が開くほど見つめた。
「ん~、多分、この写真は本物だと思います。本物だと思いますが、誰がどこで撮ったものか……」
 まったく心当たりがなかったので何度も首を横に振ると、「わからないんじゃあ、否定しようがないだろう」と強い口調でたしなめられた。
「でも、事実無根なんです。全部嘘なのです。信じてください」
 そう訴えることしかできなかった。しかし、本部長は声を返してくれなかった。無実の証明をしない限り、彼に信用してもらうことはできないのかもしれない。
 居たたまれないような無言の時間が過ぎた。本部長は閉まったカーテンに目をやりながら何やら考えているようだったが、いきなりファックスを手に持って机の周りを歩き始めた。
「誰だ、こんなことをするのは……」
 呟きと共に立ち止まった本部長はファックスを机に置いた。その時、「ん?」という声が出た。と思ったら右手が動いて指差し、「これはどこの番号だ?」と呟いた。桜田が横に行くと、指差した先には送信先の番号があった。それを見た瞬間、桜田の口から「アッ」と声が出た。知っている番号だった。なんと、元の勤務先、夢開中学校の番号だった。
「えっ、なんで?」
 口が開いたままになった。
「中学校の番号というのは確かかね?」
 その声で我に返った桜田が頷きを返すと、「心当たりは?」と犯人捜しを促された。
 促されるまでもなく、自分を(おとし)める可能性のある同僚の顔を思い浮かべようとしたが、誰も浮かんでこなかった。常に上司や先輩を立ててきたし、後輩には優しく指導してきた。だから、敵を作るようなことはないはずだった。
 では誰だ? 誰が学校からファックスを送信したんだ?
 でもいくら考えても思い浮かぶ人はいなかった。心当たりは何もなかった。そのことを告げると、腕を組んでじっと考え込んでいた本部長が、「誰かが学校関係者を買収したのかもしれない」と謎解きをするような目になった。そして、「誰だ、そいつは?」と犯人を追い詰めるような目に変わった。「そんなことをする奴は……もしかして枯田か?」
 苦々しくその名を吐き捨てて、顔を歪ませた。桜田もその考えに異論はなかったが、証拠がない以上断言はできないと首を振った。すると、「今のところはね。でも、おかしいと思わないか? いきなり報道各社にファックスが送られて君は無実の罪を着せられようとしている。君を陥れようとしているのは間違いない。そんなことをやるのは枯田しかいない。だが、」とそこで言葉を切り、何かを探し当てるような目になった。そして、「そうか~」と呟いたあと、桜田に向き合った。
「選挙参謀かもしれない。こんな悪知恵の働く奴はあいつしか考えられない」
 そして、二度ほど頷いたあと、「絶対にそうだ。間違いない。あいつだ」と声を強め、すぐさま上着のポケットから携帯電話を取り出して操作を始めた。