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 一方、枯田は街頭演説を一切しなかった。固定票の取りまとめに奔走していたのだ。関係の深い企業や組織を何度も訪問し、票固めに万全を期していた。更に、桜田へ1票たりとも票が流れるのは許さないという強い姿勢で関係者に発破をかけ続けた。「完膚なきまでに叩き潰せ!」と。
 しかし、浮動票の怖さを枯田は知らなかった。選挙という戦いを経験したことがない彼には固定票しか頭になかった。何故なら、浮動票は一切目に見えないからだ。氷山の隠れた部分のように、その大きさがわからない。だが、目に見える固定票の何十倍、何百倍もの大きさがあるのだ。枯田がそれを知るのは、選挙戦も終盤に差し掛かった頃だった。
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 いけるぞ!
 桜田陣営の誰もが手応えを感じていた。日を追って聴衆が増え、演説に対する声援が大きくなっていたのだ。
 固定票を持たない桜田は圧倒的に不利な状態からスタートしたが、斬新な政策に共感する女性や枯田市政に不満を持つ若者を中心に支持が集まり始め、更にそれがSNSによって拡散していった。小さな湧水が大河になろうとしていたのだ。
(改ページ)
          *  *
 やばい!
 大きな声を出した選挙参謀の顔が歪んだ。投票率が大きく跳ね上がり、浮動票の多くが桜田に流れるとの予測が全国紙の地方版に載ったのだ。枯田陣営に衝撃が走った。
「どうなっているんだ!」
 枯田の怒鳴り声が選挙事務所に響き渡った。
「固定票は完全に固めたのですが……」
 票読み責任者の声が消え入りそうになった。
「だったら、なんで?」
 枯田が彼の胸ぐらを掴んだ。
「そう言われましても……」
 自分の責任ではないと、枯田の手を振り解こうとした。
「間抜けが!」
 責任者を突き飛ばすと、彼が腰から落ちた。ドスンという感じで尻もちをついて顔を歪めた。次の途端、冗談じゃない、というふうに大きく首を横に振った。やってられない、という意思が顔全体に広がり、立ち上がって枯田を睨みつけた。物凄い形相だった。興奮して目は血走り、鼻水が出ていた。
「バカ野郎!」
 声にならない声を残して事務所を出て行った。
「くそっ!」
 後姿を目で追いかけていた枯田の貧乏ゆすりが激しくなった。タバコに火を点けようとしたが、百円ライターを持つ手がブルブル震えて、タバコの周りをさ迷っているだけだった。それをなだめるかのように選挙参謀が彼の肩に手をかけ、外国製ライターの火を差し出した。枯田は一口吸ったが、すぐに床に捨てた。そして、これでもかというくらい大げさにその煙草を踏み潰した。枯田の目には、煙草が桜田に見えていた。
 一方、選挙参謀は顔色一つ変えず、近くにいた腹心を呼んだ。そして、2枚の紙を渡して耳打ちをした。腹心は頷き、紙を大きな封筒に入れて足早に立ち去った。その後姿を見送った選挙参謀が意味ありげに呟いた。
「明日の朝が楽しみじゃの~」