「おおー、水面近ーい! こんなところあったんだ! なんか秘密基地って感じでいいところだね。佳樹くんも落ち着いたみたいだし、効果テキメンだ」
「はい……本当に、色々迷惑かけてごめんなさい」
高架下まで自転車を押して、さらに纏めているとはいえ本を何冊も持ってくるのは中々ハードだったが、着いてしまえば日陰と涼風が心地よい。
時間が経ったこともあって涙も情動も収まり、ただただ羞恥心と申し訳なさが残った。
志木さんは僕の謝罪も全く気にしていない様子で、物珍しそうに周囲をウロウロして川面を覗き込んだりしている。なんだかその姿を見ていると気が抜けてしまう。
アスファルトに座り込むと忘れていた疲労感がどっと押し寄せてきた。
「ん、川なのにちょっと潮の香りがする? 海が近いからかな」
「えっと、ここは汽水域っていう海と川の混ざる所なんです。多分今は満潮なのかな、特に海っぽい香りになってますね」
「流石、博識だ……よく来るの?」
「嫌な事があるとここに来るんです。中学の頃は週一以上の頻度だったかも」
そこまで言ってから、言う必要のない暗くて恥ずかしい話をしてしまったことを自覚した。
でも少しくらいなら良いか、とも思った。明日で居なくなってしまう人に、それも散々情けないところを見せた後に何を取り繕うことがあるだろう。
「確かに、叫んだりしたら気持ちよさそうね『夕日のバカヤロー!』、みたいな」
志木さんも冗談めかして返してくれて、さらにその気持ちが強まった。なんとなく、この人には僕の誰にも話したことのない部分も知って欲しい。
そんな想いが湧いてきて、「叫んだりはしないんですけど」と前置きして自分の内に溜めていた言葉をぽつぽつと吐き出していった。
「汽水域って川の水流と海流が緩くぶつかるから止まって見えるくらい穏やかなんですけど、実は水中ではグルグル奔流が渦巻いてたり、塩分濃度とかも曖昧な感じなんですけど最後にはちゃんと川の水は海に流れていくんです。上手く言語化できてないかもしれないんですけど、そういう感じが好きなんです。月並みですけど『もう少し頑張ろう』って思えるんです」
「——なんかわかる気がする。私もここ好きだよ」
つい一方的に喋りすぎてしまったが、志木さんはそれを最後まで聞いて同意してくれた。こんな風に誰かに自分の心の内を包み隠さず話すのなんて久しぶりだ。こっちに越してきてから初めてかもしれない。
そんなことを考えていると、向日葵のような香りと共にフッと軽い風圧を肌に感じた。そちらを向くと志木さんがすぐ傍にしゃがみ込こちらを覗き込んでいた。
また顔が熱くなっていくのを感じる。
「本、ちゃんと全部あるか確認した?」
「えと、多分大丈夫です。それに無くてもまた買います。でもこれはマイナーで本屋にも全然置いてないし、緊急だったので」
手に持っていた鮮やかなターコイズブルーの海が描かれたソフトカバーを撫でると少しざらついた砂の感触がした。
「緊急?」
「一回ゴミに出しちゃって汚いし、そうじゃなくても思ってたよりボロだったんですが、すみません。これが志木さんに渡そうと決めたおすすめの本なんです」
「えー! そうだったの!?」
本を手渡すと、彼女は驚き半分、喜び半分なリアクションで受け取ってくれた。
拒否されても然るべきと思っていたから、それだけのことが心の底から嬉しかった。
「このサイズで硬い表紙じゃないの初めて見たかも。海外の本っぽい。どんなお話?」
「はい。訳本で、子どもたちが海賊の残した宝を探す冒険に出る、みたいな。ベタではあるんですが、目的の為に真っ直ぐ進む子どもたちの姿が魅力的なんです」
「おー、面白そうっ! 大切にするね。あっ、ちゃんと読むから安心してね。時間は掛かっちゃうかもだけど」
彼女は天に掲げるようにして本の装丁を眺めながらそう言った。
トラブルが挟まったせいか、自分でも驚くほどの安心感が全身に満ちていくのが分かる。我ながら単純だ。口角が勝手に上がって中々元に戻ってくれない。
「これを選んだ決め手とかあったの?」
「色々悩んで、今朝パッと浮かんだので実は決め手はなくて……本当に思い知りました、僕全然志木さんのこと知らないなって。何が好きとか、逆に苦手だとか」
「そんなこと無いと思うけど……じゃあ、確かめようか!」
「確かめるって?」
志木さんは本を傍らに慎重に置くと勢いよくこちらに向き直った。
勢いに気圧されそうになるが、よく考えればこれが彼女の平常運転だった気もする。そしてそれに振り回されることに慣れて、あまつさえ楽しんでいる自分がいるのも確かだ。
「私が今から嘘か本当か微妙な自分語りをします。佳樹くんはその真偽を当てるの。“噓発見ゲーム”だね」
「嘘発見? 知らないゲームです」
「今考えたオリジナルだからね。最初は簡単で、徐々に難しくなるから! 外したらそこでゲームオーバーです」
「えー……何問でクリアとかは」
「えーっとじゅ、いや五問とか? では早速第一問!〈私はピーマンが大好物である〉……はい、嘘か本と——」
「いや、前めちゃくちゃ残してましたよね。〈嘘〉です」
突然、脈略無く始まった“嘘発見ゲーム”は思っていたより緩くて簡単で、つい笑ってしまった。
「せ、正解……よーし、これならどうだ。第二問! 〈私は少女漫画より少年漫画の方が好きである〉」
「〈本当〉。オススメのリスト、調べたらほぼ全部バトルかスポーツものでした」
「正解! ちゃんと調べてくれて嬉しー! 絶対読んでね」
それから二問、これもまた彼女と過ごした日々を思い返せばすぐに分かるような非常に簡単な問題がテンポよく続いた。
次で最後の問題、さすがに難しいものが来るかと少し身構えたが肝心の問題が中々出題されない。
「佳樹くんは将来の夢とかある?」
かと思えば、突然こちらに質問が飛んできた。
急にどうしたのかと彼女の方を見ると「目標とかでもいいけど」と補足を加えるだけで、決してふざけているとか問題が浮かばないから誤魔化しているとか、そういう雰囲気ではなかった。
さっきまでのお遊びの空気は完全に鳴りを潜め、彼女は変わらぬ笑顔でありながらどこか遠くを見るような目をしていた。
「……出版社とか、小説に係わるところで働きたいな、とは思ってます。書くのは無理なので、編集者とか」
流れに任せるように口から出たのは、誰にも言ったことが無かった頭の中にしかなかった漠然とした夢だ。今初めて形になった気さえする。
志木さんは噛み締めるように「編集さんかー」と繰り返す。
「いいね。すごく向いてると思う。整理して話すのも上手だし、意外とズバズバ意見言えるし、何より本大好きだもんね」
志木さんはそう言ってはにかんだ後、太陽光を割れた鏡のように乱反射する水面をじっと眺める。
僕は何も言えないまま、遠くで鳴く一匹の海鳥の声を聞いていた。
ほんの数秒の沈黙の後、彼女は静かに話を始めた。
「私ね、このままでいいのかなとかあの日のあの言葉は言うべきじゃなかったなーとかウジウジ悩んだり、考えなしに動くくせに本当にやりたいことには及び腰だったりするんだけど」
「え、〈嘘〉ですよね」
「まだ問題ですらないんですけど! これは本当で、前提だよ。ここからが最終問題です」
そう言うと彼女は再びこちらに顔を向けた。
「でも、〈この二週間でちょっと変われたかもって思ってる〉……はい、嘘か本当か」
「〈本当〉——だと嬉しいです。少なくとも僕はそうです。志木さんのおかげで色々頑張ろうって思えました」
正解不正解の声もなく、彼女は膝を抱えて顔を埋めてしまった。一瞬、無言の間が流れる。
彼女はしばらくそうしていた後、勢いよく顔を上げた。今までのどの笑顔とも違う優しい微笑を湛える彼女と目が合った。
何故かその表情を見た瞬間、僕の心臓は苦しく切なく縛り上げられたような感覚がした。
「私は佳樹くんのことが好き」
「……〈嘘〉」
「——えへへ、そろそろ帰ろうか。母さんに心配されちゃう」
僕と志木さんはそれから帰ってからもほとんど喋らず、彼女が『みかみ』で過ごす期間が終わりを迎えた。