「洋太、これだけは覚えておいてね。青色は進んでいいよの安全の色。黄色は気をつけましょうの注意の色。赤色は止まりなさいって危険の色よ。進んでいいのは青色だけなの。黄色でも止まらなきゃダメなの。覚えといてね」

 昔、幼稚園児だった頃の僕に、母さんが教えてくれた言葉だ。手を繋いで買い物へ行く途中、信号機について教えてもらった。

「この世界はね、この三つの色が支配をしてるのよ」

 そんなことを呟いていた母さんを、僕は不思議に思った。

「どこに行っても、どれだけ歳をとっても、この3つの色だけ間違えずに覚えていられたら、洋太はきっと真っ当で幸せな人生を歩めるわ。おじいちゃんになっても忘れないでね」

 母さんは僕の頭を撫でて、青色に変わった信号機に向かって歩き出した。

「この世界は三つの色が支配している」母さんが言った言葉は歳を重ねるごとに意味をなしてきた。そして、母さんが少し変わった人だと言うことも理解するようになっていった。人はそこまで、『色』に執着していない。赤だから何だ。別に赤色が好きだからと言って、危険を暗示しているわけではないし、青色が好きだからと言って、オープンマインドを持っているわけでもない。きっと、赤青黄に支配されていたのは母さん自身だ。そして、その母親に育てられた僕も同じだ。

 「やっぱり、洋太くんって水色似合うよね」

 花火大会の日、待ち合わせ場所で待っていると、彼女がそう言って、一人呆然と立ち尽くしていた僕に話しかけてきた。
 
 「え?ああ別に…」
 「ねえどう?似合う?」

 彼女は両手を広げて、紺色の浴衣に黄色の花が大きく描かれている浴衣を満足そうに見せてきた。いつも下ろしている髪が綺麗にまとめられていて、それはそれは綺麗だった。

 「んー、似合ってる」
 「ちょっと何今の間!頑張って準備して来たのに〜」
 「似合ってるって!綺麗だよすごく」
 「言わされてる感すごーい、まいっか!いこ」

 彼女はくるっと前を向き、僕の斜め前を歩き始めた。歩き始めて5分くらい経ったところで、人がどんどん増え始め、屋台の光が見えてきた。

 「いちご飴食べたいな〜」
 「いいじゃん、食べようよ」
 「洋太くんは何食べてた?昔」
 「僕はー、たませんとか?焼きそばとかかな」
 「あー!たませんねー!美味しいよね〜」

 好きなだけ食べたいものを買い、手すりにもたれて二人で突っ突いた。途中で買った炭酸水が、開けた瞬間に溢れ出てきて、僕の服に飛んだ時は、二人して大笑いをした。笑いながらもすかさずハンカチをくれた彼女に、心が浮いた気分になった。

 「もうすぐじゃない?」
 「ほんとだ!あと1分!」

 僕たちの目の前を通り過ぎていったカップルの会話で、やっと花火が始まるんだと知った。この時、この際花火なんてどうでもよくなっている自分に気がついた。

 突然、彼女が立ち上がった。

 「まだ何か食べたいの?」

 そんな呑気なことを言いながら、彼女の視線の先に目を向けると、一人の女性が手にいちごのかき氷を持って立っていた。僕の母さんとそんなに変わらない年齢のように思える。

 「お義母さん…」

―ヒュ〜ドン
 
 彼女のその言葉が合図かのようなタイミングで、花火が始まった。
 距離感と空気感。彼女のお母さんではないことは明らかだった。と言うことは…
 
 「翠ちゃん、久しぶりね」
 「はい…」

 義母は僕に、全身を舐め回すような視線を送った。目が合った瞬間、謎の緊張感があった。

 「せっかくだし、少し話しましょ」
 「はい…洋太くん、ごめんちょっと待ってて」
 「うん、俺は全然…」

 義母の後ろについて下駄のカラカラと言う音を立てて歩いている彼女の背中はすごく小さく見えた。


 一度手すりに腰をかけ直したものの、居ても立っても居られなくなった僕は、彼女が食べたいと言っていたいちご飴を買って、辺りを探してみた。近くの神社の前を通りかかった時に、彼女らしき横顔が見えて思わず立ち止まる。
 居た!と思うのと同時に、義母が彼女の足元目掛けて、持っていたかき氷を投げつけた。
 声にならない驚きから足が前に進まない。と言うのも、二人はまだ話し終えていなさそうだったからだ。あの冷たい目線は、今僕が行っても逆効果でしか無いだろう。

 「蓮を返してよ!!!私の蓮を…奪ったくせに」

 花火の音で聞こえずらい中、それだけははっきり聞こえた。彼女は頭を下げている。

 「そんな言い方は無くないですか!!」

 頭で考えるより先に、動いたのはいいものの、義母に睨みつけられ、しまったとも思った。その瞬間、義母は泣きながら去って行った。
 ついさっき僕の服を拭くのに使った彼女のハンカチで、彼女の浴衣の裾についたかき氷のシロップを拭く。何も考えず、咄嗟に拭いたことで、いちごの赤いシロップがハンカチに移ってしまった。

 「あ、ごめんこれ…」

 と見上げた時に初めて、彼女がまだ頭を下げていて、涙を堪えていたと言うことに気がついた。
 僕は立ち上がり、彼女を抱きしめた。それでも彼女は泣かなかった。強く強く拳を握って、深呼吸をしているだけだった。

 お寺のベンチに二人で座った。無言でいちご飴を彼女に託した後、近くにあった水道でハンカチを洗い、彼女の足についているシロップを拭き取った。そしたら、「ありがと」と彼女が小さい声で言うもんだから、僕は「ううん」とだけしか言えなかった。

 「いちごのかき氷が好きなんだって」
 「…え?」

 しばらく沈黙が流れて、僕は不甲斐ないくらいかける言葉が見つからなかった。そんな僕の心の内を見透かしたのか、彼女が急に話し始めた。

 「蓮くんのお兄ちゃんの息子。今日で3歳の誕生日だったみたい。いちごのかき氷が好きで、花火が始まっちゃうのに駄々をこねたから、仕方なくお義母さんが買いに行ったんだってさ」
 「そ、そっか。だからかき氷持ってたんだ」
 「…3歳かあ。無事に産まれてたら、3歳だったな、私と蓮くんの子供も」
 「…そうだね」

 かける言葉が見つからない。無駄に勉強ばかりしてきた頭をフル回転しても、気の利いた言葉すら思いつかない。

 「どこから聞いてた?話」
 「あ、いや、ほとんど花火の音で聞こえなかったよ。最後の怒鳴ってた声は聞こえたけど…」
 「そっか…お義母さんはね、悪い人じゃないんだよ。むしろすごくいい人だったの。私にもほんとに良くしてくれて。子供ができたので結婚しますって言いに行った時も、真っ先に私の体調を心配してくれた。でも私が流産して、蓮くんがああなってから、変わっちゃった。お義母さんもショックで、悲しくて、どうしようもないんだと思う。わかるの気持ちが」
「だからって言っても、あんな言い方されたらさ…。翠さんも、ていうか翠さんの方が…」
「悲しみに順位はないの。誰の方がとか…言わないで」
 「ご、ごめん…」

 確かに彼女の言う通りだ。悲しみに順位をつけてはいけない。つけられない。僕はなんて無神経なことを言ったんだろう。

 
 しばらく神社で時間を過ごしてから、屋台が並んでいるところまで二人で歩いた。さっきまでの出来事が夢だったかのように、コロッと元気になった彼女は、いちご飴が相当好きなのか、あっという間に食べてしまい、途中で「欲しい?」と聞かれたけれど、僕は遠慮した。
 
 「花火全然見られなかったね〜ごめんね私のせいで」

 帰り道、結局あまり集中して花火を見られなかったことに彼女は詫びを入れてきた。

 「見れたよ、クライマックス。僕はあれさえ見られたらそれでいいと思ってるから」
 「確かに、最後のあれはすごいよね」
 「うん、すごい」
 「あ、ちょっとまってて」

 そう言って彼女はコンビニへと入って行った。
 なんとなくぎこちない会話。
 彼女は義母に他に何を言われたのだろう。これは今、僕が踏み込んでいい問題なのか?彼女から見た僕は、どう言う存在なんだ?

 どうして僕に、話してくれないんだろう。

 「はい、どーぞ」

 俯いていた僕に、彼女はキンキンに凍ったアイスを差し出した。いつも半分こにして食べているアイス。生まれて初めて、人と分け合うことの幸福感を教えてくれたアイス。

 「あー、やっぱ美味しいねこれ」

 満足そうに食べている横顔。
 この夏、一番良く見た景色。


 「翠さん」
 「ん?何?」
 「浴衣…似合ってます。すごく綺麗です」
 「え?何、知ってるよ!さっき言ってくれたじゃない」
 「違くて、さっきはなんか、こう冗談っぽくしちゃったから」
 「あー、本当に思ってるよってこと?」
 「うん」
 「何それ、そんなの分かってるよ〜洋太くんの気持ち伝わってるって」
 「分かってない。翠さん分かってないです」
 「ちょっと、何急に。分かってないって何が?」

 彼女の浴衣の黄色い花が、僕に止まれと言ってくる。 

 止まれ止まれ止まれ。

 この僕にとっての最後の夏休み。気がつけば翠さんとの思い出だらけだ。
 一緒に行った図書館。
 アイスを食べながら歩いた堤防。
 トト丸さんと遊んだ公園。
 そして、このアイスクリーム。

 …もう、止まったままなのは嫌だ。
 
 「僕、翠さんに惹かれています」
 「え?」
 「きっと初めて会った日からずっと、翠さんが…」
 「ちょ、ちょっと待って!!」

 一世一代の告白が遮られた。焦っている彼女の表情を見ると、冷や汗が出る。

 「私…私は…」

 失敗だ。間違えた。今じゃなかった。間違えた。

 「違う。ごめん、ごめんなさい。…僕帰ります」
 「え、ちょっと洋太くん!」

 僕はすぐにその場を離れた。この時は気が動転していて、冷静じゃなかった。
 家に帰って考えてみると、夜なのに家まで送っていかなかったこと、アイスクリームのお金を返していないこと、彼女が何か言いたげだったのに聞かなかったことが気になって仕方がなかった。

 ―さっきはごめんなさい。家に着きましたか。

 と、メッセージを送ると、

 ―こちらこそごめんなさい。うん、帰れたよ。

 と、返信が来た。そしてそれが、彼女との最後の会話になった。