遠くの方にある関門が夕暮れで赤く染まっている。

 この町に似合う色が広がって、茉莉花(まつりか)の瞳に入り込む。
 昼と夜の間、不安定で寂しい時間を名残惜しいのか、住人の歩みはゆっくりだ。ふわりと夕餉の美味しそうな匂いを、風が運ぶ。

「茉莉花ちゃん、ほい。出来たよ」

 聞き慣れた花屋のおじ様の声に、無理矢理差し出されたモノへと視線を戻した。
 
 注文通りの花が、花束にされ美しく咲いていた。
 今日は彼岸花(ひがんばな)が良い、と店の内装担当から注文があった。
 一般的には望ましくない花らしいが、ここでは町の象徴でもあり大切にされている。嫌な顔どころか喜ばれる花だ。
 茉莉花も好きな花の一つである。

「ありがとうございます。こちらで足りますか」
「ああ。もらいすぎなくらいさ」

 優しいおじ様に、黒い手袋の上から花束を受け取る。
 ストールがずり落ちぬよう引き上げて、もう一度頭を下げてから歩き出した。

「茉莉花ちゃん、今日はお花だけかい? 美味しい果物があるよ」
「茉莉花ちゃんや、そろそろ食器の買い換えはいかが? 良い品が入ったんだ」

 市場が活気づく。市とこれから帰る花街は、夜が本番だ。
 朝など、しんっと静まっているが、夕暮れから少しずつ声量が上がり、賑わいを見せる。

 よっていきな、と誘ってくれるのは嬉しいが、一介の下働きの茉莉花にはお金などない。貴重品は仕事中には持たないし、仕事中の買い食いももってのほかだ。

「ありがとうございます。また瑚灯(ことう)さまに聞いておきます」
「ああ、きっと気に入る品だって言っておいてくんな」

 手のひらをふった。おそらく手。男の手は蛇だ、人間ではない。
 花送の住人は、あやかしが人間に化けていたり、そのままだったり、いまの男のように中途半端に人間を装っていたりと様々だ。

 異様な光景。普通なら腰を抜かすが、三ヶ月過ぎれば慣れる。あやかしも人間も、市も花街も、茉莉花に対して優しい。

 三ヶ月前――茉莉花は言葉通り、記憶も体もなくしていた。
 だが、とあるあやかしに拾ってもらい、名前と姿を与えられて今がある。

 そのときに意識が定まって、欠片ほど小さな記憶がひとつ、戻った。断片だが、一つの支えになっている。
 恩人と、映画のワンシーンのような記憶だけが茉莉花を形作っていると言っても過言ではない。

 その後、拾い主のあやかしが経営している店で下働きとして雇ってもらい、働かせてもらっている。
 行く場がなく、面倒な体質になってしまった茉莉花にとって、有り難い話だ。

(早く仕事に慣れて、恩を返さないと)

 よし、と自分に気合いを入れて花束を抱え直す。

 いつも通り声かけしてくれる彼らに返事しつつ、帰り道を進んだ。

 たまに見かける虚ろな何かに少しだけ意識を持って行かれるが、構ってはいけないよと言いつけられている。茉莉花では取り込まれてしまうだけだから。またひとり、何かが青い炎を持ってすれ違う。
 皆、少しずつ特徴が違うのに、識別が出来ない。ふるりと頭を振って、前を向く。

 ぽ、ぽ。提灯がひとりでに点いて、道を照らしていく。
 どうやら本格的に花街が動き出すようだ。

 店の中から同じ下働きの子や、客寄せのために披露(ひろう)される舞、楽器の奏でる音楽が花街を彩り、活気づいていく。

(まずい。遅くなっちゃった)

 猫耳をはやした女性の横を通り過ぎて、早足で向かう。
 明らか人外の男が、金魚を覗いているのを横目で見つつ、急いだ。

 すると、ひときわ大きく輝きを放つ建物に辿り着く。

 豪奢(ごうしゃ)な見た目、涼しげで清らかな川に朱色の橋。いつ眺めても、見事の一言につきる。これほど美しい建物を、他に知らない。
 茉莉花の感性では(お金が湯水のように使われてそう)ぐらいの感想しか出ないが。

 思わず立ち止まっていると、ふと、店前で気だるげな男を見つけて逃げたくなった。

 男は柱に背を預けて、煙管(キセル)をくわえる。
 そして、赤い唇からふぅと紫煙(しえん)を吐き出す様は老若男女の誰もが見惚れ、呼吸すら忘れさせるほど艶やかだ。むせかえる色香が全てを惑わせる。

 腰より長い、絹のような黒髪を払い、紫水晶の瞳がつい、と流す。そのあだっぽさに、立っているだけで人が寄ってくる。

 客寄せだ。
 この世のものとは思えぬ、女と見紛う美丈夫は、己の美貌(びぼう)を最大限に利用する。

 彼が、茉莉花の恩人。人そっくりに化ける九尾、狐のあやかしである。

「――茉莉花」

 男の、す、と細まった紫の瞳が茉莉花を捉える。
 艶めく濡れた夜のような声。だが含まれたのは、咎めるのではなく、心配を(にじ)ませた優しいものだ。

 名前を呼ばれてぴんっと背筋を伸ばして、はい、と大きく返事をした。
 心が嬉しくてほわほわと暖かくなるのを感じる。顔には出ないのだろうけれど。

「すみません、遅れました」
「確かに開店前までに、とは言ったが。こんな夜遅く歩くのを許した覚えはねぇぞ」

 いくらここでも、女が一人で出歩くな。と唇に蠱惑的(こわくてき)な笑みを乗せた男に茉莉花は「はい」と殊勝(しゅしょう)に頷いた。

「最近は、白い花を異様に求めるやつ、人攫(ひとさら)い、強盗、色々物騒だからなぁ」
「ここは安全でしょう。花街ほど平和な場所はありません」
「だからって油断していい理由にはならないんだよ」

 こつんと軽く小突かれたが、痛みはない。

「ほら、さっさと支度しな。芍薬(しゃくやく)が心配あまりに倒れたぞ」
「マジですか」
「当たり前だろう。芍薬はお前に死ぬほど甘いからな」

(それは貴方も大概ですけど)

 恩人さまは何百年も生きるあやかしだ。茉莉花など赤子なのかもしれない。

 買い出しが遅くなったら外で待つ程度には。

 しかし茉莉花は飴玉もらって、ほいほいついて行く年齢ではない。指摘したところで、生暖かい眼差しで頭を撫でられるだけなのだが、いささか心外である。

「ん、ほら髪飾り曲がってるぞ」

 指摘されて、髪に触れる。
 どうやら【茉莉花】の花飾りが、とれかけているらしい。直そうと手探りでやってみるが不器用なせいか、上手くいかない。
 瑚灯が愉快(ゆかい)げに笑った。

「そら、直してやるから、かしてみな」
「ありがとうございます」

 瑚灯の手を煩わせるのに申し訳なさを感じながら、素直に差し出す。
 間違いなく自分がやるより、手早く済ませるだろう。
 忙しい彼の時間をこれ以上、奪いたくない。

「お前の髪は綺麗でいいな。花飾りがよく似合う」
「そうですか?」

 最低限な手入れしかしてない、茶色の髪をつまむ。
 美しいというのは、艶やかな烏の濡れ羽色した瑚灯の髪のことを指すだろう。絹のような手触りだろうと一目でわかる。

「いいんじゃないか。優しい色で、お前によく合ってる。俺は好きだ」

 髪色を褒められたのは初めてのせいか、心からわきあがる感情が溢れ出そうになる。

 嬉しくてたまらない、泣きたくなるほど、褒められただけだろうと、自分の気持ちは勝手にはしゃぐ。
 嬉しさと、名前のわからない不思議な思いがふわふわと、茉莉花を包みこんだ。

 おそらく顔に出ていないのだろう、茉莉花は言葉で「ありがとうございます。すごく嬉しいです、私も好きなので」と伝える。
 抑揚がない声音が棒読みのようだったが、瑚灯にはちゃんと伝わったらしい。

「そうか。なら大事にしな。……よしできた。今日も別嬪(べっぴん)だな」
「瑚灯さま、あまり女性を持ち上げると勘違いされますよ」
「安心しな。相手は選んでいるさ」

 本気にする女性には言わないのか。なんというか流石だ。流石すぎて少々たちが悪い。

「さて、――俺も一仕事しなきゃな」

 紫煙をくゆらせた瑚灯が、凄艶(せいえん)な顔立ちに蕩けるような笑みと蜜のような声を出す。

 それだけで一斉に皆の視線が奪われた。
 大声ではないのに、一瞬にして纏う雰囲気に飲まれていく。

 雪のような白い肌に、赤い提灯の色がうつる。小首をかしげれば、烏の濡れ羽色の髪が頬にかかった。朱と橙色の彼岸花のピアスが、耳元でしゃらりと揺れて煌めく。

 皆が足を止めて見惚れ、感嘆の声があがる。
 そして吸い込まれるように『狐花(きつねばな)』に入っていった。なんという吸引力。

「せっかく外に出たんだ。ちょいと手伝いしなきゃ叱られちまう」

 ふふ、と紅色の唇が弧を描き、熱っぽい吐息をこぼす瑚灯に、頷いた。

 誰が怒るのか。花街にある店のほとんどが、瑚灯が経営しているのに。
 茉莉花の無駄な思考の間にも客は途切れず入っていく。蟻の行列のごとく続々と。

(効果抜群だ。今日も大繁盛(だいはんじょう)間違いなしだな)

 すごすごと裏口へと向かう。

 従業員専用入り口は、少し離れた場所だ。急がないと、本気で怒られてしまう。いや怒られるだけならまだいい、芍薬姉の過保護が発動したらえらい目に合う。下手したら外に出さないと言い出しかねない。
 どうかそうなりませんように、祈りながら支度を急いだ。

 大忙しの狐花での仕事の始まりである。