偵察魂 

「どんな子になってもらいたい?」
 夕食が終わって後片付けを済ませた新に、大きくなってきたお腹を擦りながら考子が視線を向けた。
「そうだな、将来は僕と同じ医者の道に進んでもらいたいけど、それはあとの話だから、先ずは元気な子だね。はち切れんばかりの健康な子。それから、賢い子。頭の回転が速い子がいいね。それに、俊敏な子。運動神経抜群だと嬉しいね。それと、優しい気持ちを持っている子。思いやりのある子だったら言うことないね。それから~」
 新の口からどんどん理想の子供像が出てきた。
「欲張りね。お腹の中で赤ちゃんが驚いているわよ」
「そうかな。そんなに欲張ったつもりはないんだけどな」
 まだ言い足りなそうな顔の新が口を尖がらせた。本当は医学の道に進んで将来はノーベル賞の医学・生理学賞を取ってもらいたいと思っていたのだ。
「私はね」
 彼の尖った口にチュッとして考子が話し始めた。
「世の中の役に立つ人になって欲しいの。それも集団の中の一人ではなくてリーダーシップを発揮する人になってもらいたいの。具体的に言うとね、地球を守るプロジェクトのリーダーになってもらいたいの。つまりね、地球の救世主になってもらいたいのよ」
 新は尖らせていた口をすぼめて、真剣な表情で話の続きを促した。
「このまま人口爆発と環境破壊が続いたら地球の生態系は大きなダメージを受けてボロボロになってしまうわ。今でも多くの種が消滅しているけど、そのスピードがどんどん速まっていくの。スタンフォード大学やプリンストン大学、カリフォルニア大学バークレー校の専門家グループの報告によると、今地球史上6回目の大量絶滅が始まっているらしいの。それは6,600万年前の恐竜絶滅以来のことなんだって。それ程速いペースで生物種が失われているのよ。その研究では、人類の活動が始まった前後の種の消滅速度の比較をしているんだけど、人類が現れて活動を始めてから種の平均消滅速度は114倍になっているの。つまり、人類のあらゆる生産活動が他の生物の脅威になっているってことなの。狩猟、森林の破壊、ダム建設、河川のコンクリート化、農薬の使用、化石燃料の消費、プラスチックの廃棄、オゾン層の破壊、温暖化、大規模な山火事、猛威を振るう台風、酸性雨、砂漠化、人類が直接間接に関与している行為が地球とすべての生物を苦しめているのよ。このままでは地球は持たないわ。死の星になってしまう」
 考古学や進化生物学を専攻して地球科学に高い関心を持っている考子の最大の危惧は種の消滅だった。顔には憂いを通り越した深刻な表情が浮かんでいた。
「あまり深刻に考えると胎児に影響するよ」
 新が考子の肩に手をかけて微笑みかけた。
「でも遠い遠い未来のことではないのよ。この子が生きているうちに起こりうることなの」
 新は、考子の中で育つ命の旅路を脳裏に思い浮かべた。
「2020年に生まれて100歳まで生きるとすると、2120年か……」
 呟いてみて、考子の心配が絵空事ではないことを思い知った。
「2050年の世界人口は97億人、2100年は112億人と予測されているのよ。100年後の世界は今の1.5倍の人口を抱えているの。その人達が食べていくためには、そして、豊かな生活をしていくためにはどのくらいの生産活動が必要だと思う? 私には想像もつかないわ」
 考子が大きく首を横に振ると、新は同意するように何度も頷いた。
「今よりもはるかに強く地球環境に負荷をかけるようになるのは間違いないね。そうなると確かに種の消滅速度は速くなってしまうんだろうね」
「IPBES(生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム)という専門家グループは約100万種の動植物が絶滅の危機に瀕していると発表しているの。100万種よ。それも現時点のことだから人口が今の1.5倍になったらどうなると思う?」
 2人は同時に大きく頭を振った。
「大変な時代をこの子は生きていくことになるんだな……」
「そうよ、そうなの。だから私たちは今直面している危機を後送りにしてはいけないの。そして種の消滅を他人事みたいに考えてはいけないのよ。この世の中は生物の相互依存で成り立っている事に気づかなければいけないの。1つの種が他の種に影響することを忘れてはいけないの。巡り巡って自分の身に降りかかることを肝に銘じなければならないの。人類存亡の危機に瀕した時になって気づいてもその時はもう手遅れになっているのよ。人類という種も例外ではないこと、絶滅する可能性があることをみんなが強く認識しないと大変なことになるの」
 新は大きなため息をついて身に着けていたエプロンに視線を落とした。すると、そこにプリントされた文字が揺れて、何かを訴えかけるような声が耳に届いた。