その後、真理愛に夕食を誘われた考子だったが、丁重(ていちょう)に辞退して駅への道を急いだ。混みだす前に電車に乗る必要があるからだ。しかし、ホームで待つ人は多くなっていたし、乗り込んだドアの周りに空いた席はなかった。
 迷わず優先席へ向かった。しかし、空きはなかった。次の車両へ移動しても同じだったので、探すのを諦めて仕方なく吊革を握った。
 目の前では若い男性が足を組んで座っていた。その横の若い女性はスマホをいじっていた。2人とも考子を一瞥したが、席を変わろうという意思は示さなかった。考子は窓に貼られている優先席のステッカーに目をやった。『おとしよりの方』『体の不自由な方』『赤ちゃん連れの方』『妊娠されている方』『マタニティーマークをお持ちの方』と表示されていた。そして『この座席を必要とされる方に座席をおゆずりください』と大きな字で記載されていた。考子はため息をついてバッグのストラップに目をやった。マタニティーマークがしっかり表を向いていた。そこにはイラスと共に『おなかに赤ちゃんがいます』という青い字が記載されていた。その字は〈気づいて!〉と主張していた。もう一度若い男女に目をやったが、彼らは気づかないふりをしているかのように自分の世界に浸っていた。考子はまたため息をついた。
「気がつかなくてごめんなさい」
 突然、高齢の女性が考子に声をかけて立ち上がった。若い女性の横に座っていた人だ。
「あっ、いえ」
 杖は持っていなかったが、見るからに後期高齢者という容姿だった。
「私は大丈夫ですので」
 考子が断ろうとすると、「次の駅で降りますから。それより急ブレーキで転んだりしたら大変だから早く座ってね」と考子の手を取って席へ誘導した。
 その様子を見ていた30代と思しき男性が自分の娘であろう小学生低学年くらいの女の子に大きな声で話しかけた。
「この席はね、優先席っていうんだよ。『おとしよりの方』『体の不自由な方』『赤ちゃん連れの方』『妊娠されている方』『マタニティーマークをお持ちの方』って書いてあるだろ。ここに書いてある人達は優先席を必要としている人たちなんだよ。だからこういう人たちがいたら席を譲らなくてはいけないんだよ」
 すると女の子が父親を見てニッコリ笑った。
「私ならすぐに代わってあげる」
 父親は嬉しそうな表情で大きく頷いてから、席に座り続ける若い男女に目を向けた。
「若い人や元気な人が優先席に座って、お年寄りや妊婦さんが立っているのはおかしいよね。人を思いやる優しい気持ちを持って率先して席を譲る人になろうね」
「うん、わかった。そうする」
 女の子の元気な声に押されるように若い男性が組んでいた足をほどき、〈冗談じゃないよ〉というように立ち上がった。その瞬間、考子の耳に「ちぇっ」という小さな声が届いた。それだけでなく、〈うるせえな~〉という響きが感じられた。若い女性は尚もスマホをいじり続けていた。