「お腹空いてたみたい」
 しばらくして戻ってきた真理愛は赤ちゃんを抱いていなかった。
「赤ちゃんは大丈夫?」
「うん、また眠っちゃった。オッパイ吸いながらトロンとした目になったと思ったら、す~っと寝ちゃったの。可愛かったわよ」
「へ~、見たかったなぁ。赤ちゃんのトロンとした目もそうだけど、小椅子の聖母のような優しい目で見つめているあなたの顔も見たかったわ」
「ふふふ。聖母のような目になっていたかしら」
「なっていたと思うわよ。だって、名前が〈まりあ〉だからね」
 2人は幸せそうな顔で笑い合った。
「でも、あの子が大きくなった時、日本がこのままだと心配なのよ」
 真理愛は打って変わって眉を寄せて、しかめっ面になった。
「さっきの話?」
「そう、男尊女卑の日本に生まれたのが良かったのかどうか……」
 彼女は立ち上がって書棚から1冊のファイルを持ってきた。
「これを見て!」
 新聞の切り抜きをファイルから出した。
「酷いと思わない?」
 彼女が指差したところに日本という文字があった。
「121位なんて信じられる?」
 憤慨したような表情で吐き捨てるように言った。
 それは世界経済フォーラムが発表した『2019年の男女平等ランキング』の表だった。1位がアイスランド、2位がノルウェー、3位がフィンランド、そして、スペインが8位。それから、アメリカが53位、中国が106位、韓国が108位、インドが112位で、日本が121位と記されていた。
「世界153か国中121位なのよ。なんなの、これ!」
 興奮して鼻の穴が大きく開いていた。
「これで先進国って言える?」
 眉間に皺が寄っていた。
 世界経済フォーラムが発表した『ジェンダー・ギャップ指数』は、経済、政治、教育、健康の4分野で女性の地位を分析して総合順位を決めているが、日本はいつも下位に低迷している。特に酷いのが政治の指数で、日本は144位となり、前年よりも更に19位下げていた。
「国会議員に占める女性の割合が約10パーセントで世界最低レベルなんだって。確かに少ないわよね。スペインを始めヨーロッパはほとんど30パーセント以上だし、中国で25パーセント、韓国でも17パーセントあるのよ。10パーセントなんて信じられない。それに女性の閣僚比率は約5パーセントで議員比率よりももっと低いのよ。もちろん、総理大臣に女性がなったことはないし、日本は本当に男社会というのがこれでよくわかるわ。こんな状況だから少子化が止まらないのよ。女性の気持ちを理解していないオジサンたちが政策論議してもロクなものは出てこないわよね」
 その通りだった。首相官邸のホームページには『すべての女性が輝く社会づくり』というキャッチコピーが大きく表示されているが、足元の議員比率を見るとそれが掛け声だけなのがわかる。こんな状況を放置したままで『日本はG7のメンバーとして世界をリードしています』と言っても説得力はまったくない。男女平等社会を早急に実現しなければ、早晩日本の成長は止まるだろう。いや衰退が始まるだろう。
「でも、どうしたらオジサン主導型社会を男女平等型社会に転換できるのかしら?」
 考子は思いを巡らせた。
「そうなの。簡単に答えが出れば楽なんだけどね」
 オジサン批判を繰り返した真理愛にも名案があるわけではなかったが、ヒントになる考えはあるようだった。
「女性の投票率を上げることが近道になるかもしれないわね」
 その通り、というように頷いた考子はスマホで投票率に関連する情報を検索した。
「あったわ。直近だと平成28年の参議院選挙の結果が出てる。女性が54.3パーセントで、男性が55.1パーセントよ」
 やっぱりね、というように真理愛は大きく頷いた。
「約半分しか投票していないのよね。これがもし三分の二になったらどうなるかしら。女性の投票率が10パーセント以上上がることになるから、かなりのインパクトだと思うわ」
「確かにね。でもどうすれば10パーセント以上上がるか、だよね」
 2人は睨めっこをするように見つめ合い、眉間を寄せて考え込んだ。すると考子が何かを思いついて、「そっか~」と言ってスマホで検索を始めた。
「あった。これだ。年代別投票率」
 画面を真理愛に見せた。すると彼女の顔がパッと明るくなった。
「本当。これよ、これ」
 画面には20歳から79歳までの1歳毎と、80歳以上の男女別投票率の一覧が示されていた。
「20代、30代が低いわね」
 真理愛が指摘した通り、20代はすべての年齢で投票率が40パーセントを切っていた。30代も50パーセントを上回る年齢は皆無だった。
「それに比べて60歳以上は高いわね。概ね三分の二を超えているわ。凄い!」
 考子が驚きの声を発した。
「鍵は20代、30代の女性ね。彼女たちをどうやって投票所に行かせるか」
「それには行かない理由を掴まなくっちゃ」
 考子の指がせわしなく動いて、瞬く間に目当ての情報を探し出した。
「なるほどね。衆議院選挙と参議院選挙では若干違いがあるけど、『選挙に関心がない』『適当な候補者も政党もない』『仕事があったから』『私一人が投票してもしなくても同じだから』というのが上位に来ているわね」
 やっぱりね、というような表情を浮かべた真理愛の頭にはすぐに対応策が浮かんだようだった。
「『仕事があったから』への対策は、期日前投票の周知徹底よね。それと、駅や会社の近くの身近な投票場所の確保かな」
「問題は『選挙に関心がない』『適当な候補者も政党もない』『私一人が投票してもしなくても同じだから』という理由への対策よね」
「そうね。投票と自分の生活向上が密接に結びつかないと投票所へは行ってくれないかもしれないわね。でも、これは難しいわね。その解決策を提示できる女性候補がいないと興味すらわかないかもしれないし。そうなると魅力あふれる女性候補の発掘が必要か~。まてよ、そもそも立候補している女性がどのくらいいるのかな?」
 話が根本に戻ってしまったので考子はまた指をせわしなく動かしたが、その指が止まった瞬間、大きなため息が出た。
「ダメだわ。立候補者自体が少ない。直近の参議院選挙でいうと28.1パーセント。前回より3.4パーセント増えているけどまだまだ少ないわね。全体の四分の一をやっと超えたくらいだから。それに最大政党である自民党は15パーセントしかないの。これじゃあ女性議員数は増えないわね」
「ということは、先ず女性候補者数を大幅に増やすことが必要ね。そのためには政党ごとに候補者数を男女同数にするルール作りがいいかも知れないわね。それと、数だけ多くても仕方ないから、女性の生活向上に直結する政策を立案する能力のある魅力的な女性候補の発掘が必要よね。そして20代、30代の女性に対する啓発活動ね。この3つをセットでやる必要があるわね」
「う~ん、そうだけど……」
 残念だけど頷けないわ、というふうに考子が顔を曇らせると、真理愛も同じような表情になって声の調子を落とした。
「そうなのよね。言ってはみたけど、それを実現させるのは簡単ではないわね」
 2人から声が消えた。偉そうなことを言っても自分が立候補するわけではなく、女性の生活向上に直結する政策立案ができるわけでもなかった。せいぜい投票所に行くことが関の山だった。真理愛は子育てが始まったばかりだし、考子は出産を控えている。それに新型コロナの感染拡大がある。自らが政治活動に参加するのは無理だった。
「女って大変よね~」
 真理愛から思わず愚痴のようなため息が漏れた。
「そうなのよね。でも、それを言ってたら何も変わらないし……」
「でも、子育てを放棄して、仕事を辞めて、政治の世界に飛び込むのは無理だし……」
「う~ん、そうなんだけど……。でも、子育てをしながら、仕事をしながら、政治活動をすることってできないのかしら」
「そうね~、それができたら言うことないんだけどね」
 真理愛は頬杖(ほおづえ)をついて、また大きなため息をついた。そして「そんなロールモデルがいればね~」と半ば諦めの視線を考子に送った。
「ロールモデルか~」
 そう呟いた途端、脳裏に一人の女性が浮かんだ。
「いるわよ。いる、いる」
 急に元気になった考子にびっくりして真理愛が少しのけ反った。
「産休を取った女性の首相がいたじゃない」
 すると、アッというような表情になった真理愛が記憶の引き出しを手当たり次第に開けていった。
「思い出した。ニュージーランドの首相だ」
「そうよ、なんて言ったっけ……、え~っと、そうだ、アーなんとかっていう人よ」
「アー、アー、アー……」
 2人が首と両手を縦に振りながら「アー」と何度も口に出して思い出そうとした。
「アー、アー、アー、アーダーン!」
 真理愛が正解の引き出しに辿り着いた。
「そう、アーダーン首相だ!」
 考子が真理愛の手を取って上下に揺らした。