偵察魂 

 ティータイムが終わり、考子と真理愛は音を小さくしてテレビを見ていた。
「しばらく海外旅行はお預けだから、テレビの旅番組で我慢しているのよ」
 子育て中というだけでなく、新型コロナが猛威を振るっている状況ではどうしようもないわよね、というふうに肩をすくめた。
 テレビにはパリの街並みが映っていた。昨年放送分の再放送のようだった。
「憧れのパリか~」
 真理愛はシャンゼリゼ通りを颯爽(さっそう)と歩く美しいパリジェンヌの姿に魅せられていた。
「でも、私たちは選ばなかったのよね」
 考子は、悪い選択じゃなかったわよね、というように唇の端を上げた。
 2人共旅行が大好きだった。高校卒業後、大学は別々だったが、アルバイト料を貯めては2人で日本全国を回った。そして卒業記念旅行は2週間、行先はヨーロッパと決めて、具体的な訪問地を話し合った。
 その中で最初に候補に挙がったのは、大都市だった。パリ、ウィーン、ローマ、マドリード、アムステルダム、コペンハーゲン、プラハ……。しかし、お上りさんのような観光地巡りをする気はないということに気づいて、サイコロを振り出しに戻した。
「私はイタリアに行きたい。特にフィレンツェ」
 大学院で考古学を専攻することを決めていた考子は、ヒトが進化することによって生まれてきた創造物、つまり芸術にも高い関心を寄せていた。特に数多くの名作が生み出されたルネサンス時代の美術品に魅せられていた。だからフィレンツェという都市名が彼女の口から発せられたのは自然なことだった。
「私はマラガにする」
「マラガ?」
 真理愛の言う都市名がどの国のものか考子にはわからなかった。
「スペインよ。アンダルシア地方。地中海沿いのリゾート地でもあるの」
 アンダルシアと聞いて大体の位置が想像できたが、「グラナダやセビーリャは有名だけど、マラガって聞いたことないわ」と首を傾げると、真理愛が理由を説明した。
「ピカソが生まれた所を見てみたいの」
 ピカソは1881年にマラガで生まれていた。だから今でも生家が残っており、美術館もあるのだという。
「私、ゲルニカが大好きなの」
 ゲルニカ、それは、内戦状態にあったスペインでナチス・ドイツ軍が無差別爆撃を行い多くの一般市民を殺戮した町であり、その事実を知ったピカソが理不尽な軍事作戦に怒りと憎悪を表した絵画の作品名であり、一般市民や動物たちの絶望と苦悩と悲しみを描くことによって反戦の意を表したピカソの代表作だった。
 法学部在学中に司法試験に合格して弁護士を目指していた正義感の強い真理愛はその絵のことを知り、その背景を深く理解することによってピカソに関心を持つようになり、その生家へ行ってみたいと思うようになったのだという。
「決まりね」
 2人は納得顔で同時に大きく頷いた。
 こうしてイタリアのフィレンツェで1週間、スペインのマラガで1週間、計2週間の卒業旅行が決定したのだった。
 そんなことを思い出しているうちに旅番組が終わったので真理愛はテレビを消した。そして書棚からアルバムを取り出してテーブルの上に広げた。
「わ~、懐かしい。フィレンツェだ」
 巨大なドームが特徴の大聖堂(ドゥオーモ)の前でピースサインをして写る2人の写真を指差して、考子は大きな声を出した。
「シー」
 真理愛は唇に人差し指を立てて考子を(いさ)めた。
 またやっちゃった、と考子は右手の拳で頭を叩く真似をした。そして口にチャックをする振りをした。
 それを見てフッと笑った真理愛がアルバムをめくると、絵の写真が現れた。それは考子が一番好きな絵だった。『小椅子の聖母』。ラファエッロが1514年に描いた傑作で、円形画(トンド)の中にマリアと聖母子と聖ヨハネが描かれており、特にマリアの眼差しは何人(なんびと)をも惹きつける優しさを湛えている。
「考子は30分近くこの絵の前から動かなかったわよね」
 当時のことを思い出した真理愛が小さく肩を揺すって笑った。
「だって、彼女に見つめられたら動けなくなって……」
 写真に吸い寄せられるように顔を近づけると、「はい、おしまい」といきなり真理愛がアルバムを閉じた。そして、「また動けなくなったら大変だからね」と考子の鼻をチョンと突いた。
 考子は不満気に鼻を膨らませたが、それを気にかけることもなく真理愛がスペイン愛を語り始めた。
「マラガへ行ってからスペインへの関心が高まって色々な事を調べたんだけど、日本とはまったく違うことがわかったのよ。なんだと思う?」
「いきなりそんなこと聞かれてもわかる訳ないし……」
 突然話題が変わってついていけない考子は口を尖らせた。
「女性に関することよ」
 真理愛は男女平等ランキングについて話し始めた。
「スペインは男女平等ランキングでベストテンに入っているのよ。しかも女性議員比率は40パーセントを超えていて、更に、女性閣僚比率に至っては65パーセント、つまり三分の二が女性なの。世界でもトップクラスらしいわ。凄いわよね。それに比べて日本は」
 真理愛の頬が膨らんだ瞬間、赤ちゃんが泣きだした。
「あら大変。お腹が空いたのかな? それとも、オシッコかな?」
 彼女は小走りにベビーベッドのある部屋へ向かった。