わたし 

 ママが泣いている……、
 わたしのちっちゃなハートがママの心痛を捉えたの。拉致問題解決の糸口がまったく見えないことへのいらだちと悔しさが伝わってきたの。わたしのハートがママの心痛と同期したの。すると、ある女性の顔が浮かんできたの。それはママが尊敬する女性だったの。緒方貞子さん。国連難民高等弁務官を務めた人よ。政治家や外交官の家系に生まれた彼女は導かれるように国際政治学者となり、大学で教鞭を執ったあと、日本人女性として初の国連公使となったの。そして1991年、日本人としてだけでなく世界で初めて女性として国連難民高等弁務官となったのよ。彼女の最初の仕事はクルド人避難民への対応だったの。湾岸戦争が勃発してクルド人はイラクから隣国トルコへ向かったのだけど、トルコが入国を拒否したから、国境付近にとどまらざるを得ないことになったの。そのことによって国連難民高等弁務官事務所の支援対象から外れてしまったの。酷いでしょ。国を逃れた難民だけを支援対象にしていたというのが理由なんだけど、緒方さんはそれに異を唱えたの。どういう状況であろうと難民は助けるべきだと強く主張したの。そして、国外へ逃れた避難民だけでなく、『国家によって生命と安全を保障されない国内避難民』も支援対象に加えたの。これは国連難民高等弁務官事務所の活動を根本から変える出来事となったのよ。
 その後も彼女は人間を助けるという仕事に全身全霊を捧げたの。旧ユーゴスラビア紛争やルワンダ虐殺など世界各地の紛争地域から逃れてきた難民の支援に奔走したの。時にはヘルメットや防弾チョッキ姿で現地に入ることもあったの。正に体を張って自らの使命を果たし続けたの。その勇敢な姿に多くの人が心を打たれて、難民支援の重要性を理解する人たちが増えていったの。
 世界には拉致被害者や難民だけでなく迫害に苦しむ多くの人がいるの。歴史的に有名なのがヨーロッパにおけるユダヤ人の迫害、アラブ諸国でのクルド人の迫害、シリア内戦における自国民への迫害なんだけど、最近でもミャンマーにおけるロヒンギャの迫害がクローズアップされているわ。迫害は現在進行形なのよ。そしてそれに苦しんでいる人の数は計り知れないの。紛争や迫害を逃れて家を追われた人の数は2018年で7,000万人に上ると言われているし、その50パーセントが18歳未満の子供なの。更に、家族や保護者とはぐれて一人で避難してきた子供は10万人を超えているの。彼らが生きていく術はあるのだろうかと思うと、わたしのちっちゃなハートがまた痛みを覚えたの。すると、誰かの声が聞こえてきたの。それはとても厳しい響きを持っていたわ。
「人道という言葉がある。人間として守り行うべき道のことである。それは、人間らしく生きる権利を守ることでもある。しかし現実はそうなっていない。民族に対する根強い偏見が世界中に広がっているのだ。中国によるウイグル族の問題、チベット自治区の問題、中東におけるパレスチナの問題など枚挙にいとまがないほどだ。それは人道に反する行為であるにもかかわらず、人が人を差別する愚行が今もまかり通っているのだ。多くの為政者が人の道を外れた行いを続けているのだ」
 声が消えた瞬間、わたしの特別な使命はこのことに関係しているかもしれないとふと思ったの。そしてそれはママから貰った遺伝子と意志に影響されているような気がしたの。ママのご先祖は政治家だったし、ママの尊敬する人は国連難民高等弁務官だったから、人の道を守る仕事がわたしの使命のような気がしてきたの。まだはっきりとはわからないけど、もしそうなら相当な覚悟を持ってやらなければならないわね。