偵察魂 

「日本の博士号取得者が減っている、か……」
 新は両手で鼻と口を覆って新聞記事のグラフを食い入るように見ていた。
「何か言った?」
 ブツブツ独り言を言っている新に考子が近づいてきた。
「日本だけ博士号取得者が減っているんだって」
「本当?」
 考子が横に座ってそのグラフに目をやった。
「本当だ。アメリカも中国も大きく増えているのに、日本だけ減ってる」
「そうなんだ。ドイツやイギリスやフランスや韓国なんかも増えているのに、日本は何やってんだろ」
 苦々しい顔になった新に考子が追随した。
「これは大問題ね」
「そう思う。日本がいかに専門性を重視していないかという現れだよ。というか、専門性の重要性を理解していないんだと思うよ。ほら、ここを見てよ」
 新が指差したのは、日米の年収比較だった。
「アメリカでは4卒者と博士課程卒業者では年収が1.7倍も違うのに、日本では1.2倍ほどしか違わないんだ。これじゃあ、お金と時間をかけて博士号を取得しようとは思わないよね」
「本当ね。高学歴者を高収入で処遇するのは世界の流れなのに、日本はその流れから完全に外れているわね」
「なんて言うんだっけ、それのこと」
「ん?」
「その~、世界の標準から外れて日本国内だけの最適化が進むことを……」
「ガラパゴス?」
「そう、それ、ガラパゴス化。経営者は誰もが『グローバル競争を勝ち抜く』と言っているのに、実際やっていることはガラパゴス経営なんだよ。情けないよね」
「本当にそう。だからせっかく苦労して博士号を取得しても企業に就職しようとは思わなくなるのよ。投資に見合うリターンが少ないし、入社したとしても評価が低いのだから当然よね。そういう状況だから私みたいに研究者になるしか道は残っていないのよ」
「うん。ここにもそれが書いてある。博士号取得者の75パーセントが大学などの研究機関に所属しているんだって」
「悲しいわよね、せっかく身に付けた専門性を評価してもらえないなんて」
 考子が頬を膨らませた。すると、数年前のことが急に思い出された。
「私の友達にデジタル分野で博士号を取ったとても優秀な人がいるんだけど、彼女が電機メーカーの採用面接を受けた時に何を聞かれたと思う?」
「それは当然、大学院で専攻した専門分野に関することじゃないの」
「いいえ。そんなことまったく聞かれなかったのよ。聞かれたのは、組織の中でうまくやっていけるかどうか、つまり、人間性に関することとか、コミュニケーション能力に関することとか、そんなことばかりだったんだって。彼女は自分が専門誌に発表した論文について質問が来ると思って一生懸命準備したのに、全部無駄になったって憤慨していたわ」
「ふ~ん」
 新は〈信じられない〉というふうに両手を広げた。
「面接官は何を考えているんだろうね」
「そうでしょう。信じられないわよね。専門性のなんたるかをわかっていない人に面接させてはいけないのよ。本当、バカみたい!」
 考子が当時のことを思い出して自分のことのように憤慨すると、新は〈わかるわかる〉というふうに首を縦に振った。
「それで、その友達は?」
「『日本に居ても将来が開けない』と言って、さっさとアメリカへ渡って行ったわ。今はアメリカの超有名な研究所で働いているの」
 考子が口にしたのは、知る人ぞ知る超エリートしか採用しない研究所だった。
「凄い! そこって世界最先端の研究をしているところだよね。そこで認められたんだ。凄すぎる。でも、そんな優秀な人材を日本は逃しちゃったわけだよね。本当にバカだよな」
「そうでしょう。あり得ないわよね。せっかくの希少な人材を流出させたのだから責任を取ってもらいたいと思うわ」
「その通りだよ。でも一番の被害者は彼女だよね。日本に愛想を尽かせているんじゃないの」
「そうなの。だからもう日本には帰ってこないって言っていたわ。向こうで出会ったアメリカ人の研究者と結婚したから、アメリカで骨を(うず)めるんだと思うわ」
「そうだろうね。そういう話を聞くとなんか虚しくなってくるね。イノベーションの担い手になるべく努力してきた博士号取得者を評価できないでいると、日本は後進国に後戻りする可能性だってあるね」
「そうだと思うわ。私は博士号を取得したし、あなたも6年間の教育を受けて医師になって頑張っているけど、これから生まれてくる子供たちに同じ道を歩んで欲しいなんて言えなくなるかも知れないわね」
「そうだね。でも、子供たちには専門性を身に付けて欲しいから、大学院で博士号を取得してもらいたいよね。ただ、そうなるとアメリカへ行かせるしかないかもしれないね。君の友達みたいな嫌な思いはさせたくないから」
「そうね。日本を捨てなさいって言ってるみたいで辛いけど、その選択肢は真剣に考えた方がいいかも知れないわね。でも……」
 2人が目を合わせた。その途端、互いに同じことを考えていることを理解した。2人の頭の中は、これから生まれてくる子供の教育費のことでいっぱいになっていたのだ。