家に帰ると新が出迎えてくれた。
「早かったのね」
 新はニコニコしていた。
 考子が手洗いとうがいを済ませてリビングに行くと、テーブルの上にマスクが並んでいた。
「えっ、買えたの?」
 考子が目を丸くした。
「うん。病院では無理だったんだけど、友人の調剤薬局で分けてもらえたよ。7枚だけだけどね」
 箱売りのものは売り切れていたが、高額な1枚入りが残っていたのだという。
「でも結構深刻なことがわかったよ。医療関係者向けのサージカルマスクも品薄らしいんだ。それに防護服も入手が難しくなっているらしい」
 友人の薬剤師によると、原因は生産体制にあるということだった。マスクの8割が輸入品で、その9割近くが中国産なので品薄が起こったというのだ。
「中国で新型コロナの感染が広がって一気にマスクの国内需要が高まったから輸出量が半減したらしい。つまり、日本にとっては半減とまではいかないけど輸入が大きく減ったことになる。需要と供給のバランスが崩れたのが今回の品薄の原因らしいんだ」
「それは医療用も同じなの?」
「そうなんだ。医療用もほとんどは輸入品らしい」
「そうなの。知らなかった。マスクはほとんどが国産だと思っていたからびっくりだわ」
「そうだろ。僕もびっくりしたよ。でもこれって大変なことなんだよね。供給を中国に頼っているということは、生殺与奪(せいさつよだつ)を中国に握られているということだからね」
「生殺与奪……」
 聞き慣れない言葉に考子は息をのんだ。
「安全保障という観点からは大きな問題だと思うよ。国民の健康が中国に握られているということだからね」
「でもどうしてそんなことが」
「それは自由貿易のせいだよ。生産の最適化という言葉があるけど、日本で作ると割高になるものは外国で作ることになるよね。実際に工場を中国や東南アジアに移した企業は多いんだよ。それに工場は移さなくても技術指導だけして外国の現地企業に作らせて輸入する企業も多いから、日本産のマスクはどんどん減っていったんだよ」
 訳知り顔ですらすら話す新を驚いたような表情で考子が見つめると、彼はペロッと舌を出した。
「これは全部友人の受け売りなんだけどね」
 でも話を止めることはなかった。新は自らに言い聞かせるかのように言葉を継いだ。
「サプライチェーンを抜本的に見直すべきだと思うよ。今まで安全保障というのは軍事的な攻撃に備えることばかりを考えてきたけど、それだけでは十分じゃないということが今回のことでわかったよね。生活必需品の供給が止まったら国民の健康と安全に多大な影響が出るということを多くの人が実感したと思うんだ。だから、今までのような売上と利益という観点だけでなく、安全保障という観点からもサプライチェーンを見直さなければならないんだよ。そのためには国と企業が連携しなければならない。各自バラバラでは抜本的な見直しはできないからね」
 医師というより政治家の顔つきになった新の力説が続いた。
「危機こそチャンスなんだ。抜本的な変革ができるチャンスなんだ。新型コロナに右往左往しないで、アフターコロナを見据えた新たな戦略を立案すべきなんだ。そして世界のどこよりも早く実行すべきなんだ。千載一隅のチャンスを見逃してはいけないんだ!」
 新の顔が紅潮していた。それを見て、考子は政治家の妻になったような錯覚に陥ったが、それも悪くはないと、選挙カーで声を枯らして夫の応援をしている姿を思い浮かべてニヤッと笑った。