破れた最後の一ページ

「もしかして、葉月(はづき)?」

 記憶の中よりも大人びた、それでも見覚えのある懐かしい横顔に思わず声を掛ける。
 人違いだったらどうしようなんてことはこれっぽっちも頭に無くて、心の中では間違いないと確信していた。まさか大学のキャンパス内で出会う日が来るなんて。

「……飛鳥(あすか)?」

 目を丸くした彼女が俺の名前を口にして、それに大きくうんうんと頷く。途端、花が咲く様に笑顔になった葉月は嬉々として俺の手を取った。

「飛鳥! え、すごい! 久しぶり! 会いたかった!」
「俺も」
「元気だった? え、え〜ちょっとゆっくり話したい! この後時間ある?」
「今日の分の講義は全部終わってるから暇だよ」
「本当? 私の方は今一コマ空いてるから、良かったらカフェでも行かない?」
「うん、ぜひ」

「やったー!」と、葉月は両手で掴んだ俺の手を無邪気にぶんぶん振ると、「あ、ごめんつい」と慌てて手を離す。その一連の流れは小学校時代の葉月の仕草そのものだった。

「変わんないな、葉月は」
「そうかな。飛鳥もその落ち着いた感じ、変わらない様に見えるけど」
「そうかな……まぁ、そうなのかも」

 葉月と俺は同じ小学校に通っていた。その頃の俺達はすごく仲が良くて、どれくらい仲が良かったかというと、それは葉月の特別な秘密を二人で共有するくらい。それくらいにはお互い信頼していたし、心の距離が近かった様に思う。

「ところで葉月、今はどうなの?」
「うん?」
「未来の予言日記」
「わ、やっぱり覚えてたか!」

 学内のカフェに入ると、二人で向きあう形で席に着く。カフェ内は冷房が効いているけれど、暑いこの季節、テーブルに運ばれてきた氷たっぷりのアイスコーヒーはびっしょりと汗をかいていた。「予言日記か〜」と懐かしむ葉月のアイスカフェラテも、一口飲む度に机にまあるい跡を残している。

「私のとっておきの秘密だったからね。いまだに飛鳥しか知らないよ」
「そうなの? 俺、予言日記好きだったよ。まだやってるの?」
「ううん、もうやってない。あの日でやめちゃったんだよね」
「そっか……なんかちょっと残念だな」
「あはは。私達と言ったら予言日記だったもんね」


『——これ、未来の予言書なんだ』

 放課後、葉月の家に呼ばれた時のこと。鍵のついた机の引き出しから水色と黄緑の間の様な綺麗な色をした表紙のノートを取り出して、葉月はひっそりと俺に告げた。その仰々しい名前のついたノートを俺は緊張感を持って眺める。

『よ、予言書……?』
『そう。ここに書いてあることは必ず起こるんだよ。今日の分は、ほらこれ』

 と、見せられたその一ページ。そこには、日付と一緒に葉月のまるっこい字で書かれた“飛鳥と一緒に帰ってうちで遊ぶ”という一文が。

『ね? 合ってるでしょ?』
『……え?』
『じゃあ今から明日の予言をします』
『えぇ? ちょ、ちょっと待って』

 未来の予言というにはあまりにもラフなその一文に、『それって何か違くない?』と俺が突っ込むと、『何が?』と、葉月は首を傾げる。

『だって予言書っていうか、それじゃあただの日記の未来バージョン? 予言日記?みたいな。自分のやりたいこととか予定を書いてるだけじゃん』
『でもちゃんと起こってるよ。まだなのもあるけどそれはもっと未来の話だし』
『えー、なんか都合が良くない? それ……』
『…………』

 納得がいかない俺に対して、葉月が頬を膨らませて不満を露わにする。すると、無言でじろりとこちらを見た葉月が『分かった』と一言呟くと、ノートを俺に差し出した。

『じゃあ明日の予言は飛鳥が決めていいよ。何にする?』
『…………』
『なんでもいいよ。本当になるんだから』
『……本当に?』
『本当』
『なんでも?』
『なんでも!』
『そっか……じゃあ』

 さらさらっと、俺はそこに思いついた予言を書いて葉月に渡した。

『えっと、“失くしたシャーペンを見つける”? え、シャーペン失くしたの?』
『そう。気に入ってたのに全然見つからなくて落ち込んでる』
『どんなやつ?』
『ほら、前に葉月に見せたあの先が回ってとんがるやつ』
『大事にしてたやつじゃん!』

『それは大変!』、『絶対見つけようね!』と、やる気に満ち溢れる葉月の言葉にうんうんと頷いたけれど、絶対見つからないだろうなと心の中では冷めた目で見ていた。
 だって散々自分で探して見つからなくて諦めたのが先週だ。今更見つかる訳がないことをわかっていて、意地悪心から書いたのだ。
 なんとなく、なんでもその通りになるのだと、予言書だと言い張る葉月の真っ直ぐさが眩しくて否定したくなってしまったから。本当は、こんな意地悪なことをする必要なんてないはずなのに。

『明日、きっと絶対見つかるよ!』

 真っ直ぐな瞳で俺を見つめる葉月が両手でぎゅっと俺の手を握る。その手は強く、とても熱かった。


「——あの時の飛鳥、意地悪したよね」
「え、気づいてたの?」
「そりゃあわかるよ、私だって馬鹿じゃないんだから」

 あの時のことについて、罪悪感を抱きながらも一度も葉月に本当の気持ちをバラしたことも、謝ったこともなかった。

 ……葉月はあの時、わかってて頑張ってくれたんだ。

 笑いながら話す葉月の顔があの日の葉月と重なって、心の奥がぐっと押し潰される様に切なくなる。
 あの日の葉月は予言を現実にする為に、次の日の朝からずっと俺のシャーペンを探し回ってくれたのだ。全クラスの落とし物箱をまわり、職員室の前の学校全体の忘れ物置き場も見て、クラスメイトに聞き込みまでしてくれた。


『——もういいよ。名前書いて無かった俺も悪いし』

 そこまでして、放課後になっても見つからなかったのだ。昨日までの意地悪な気持ちはすっかり消え去っていて、今ではこんなことを書いてしまった自分に対しての後悔しか無かった。

『現実にならなくてもいいよ。だってこの予言は俺のだから葉月の予言じゃないし』
『でも飛鳥の大事なシャーペンじゃん!』

 まるで宝物でも探しているかの様に葉月は必死になっていた。家庭科室、理科室、音楽室……全部の可能性を潰していくつもりの葉月が次に図書室の棚を確認していた、その時だ。

『! あ、あった!』

 本の棚の隅に置き去りにされたそれを葉月はついに見つけ出した。そういえば調べ物をする授業の時にシャーペンを持ち歩いてて、本を取る時に棚に置いた気がする。そのまま席に戻って本を読み始めて違うシャーペンを筆箱から無意識に取り出して……と、全部の記憶が繋がって、ここに置き去りにした事実を今、はっきりと思い出した。

『やった! これ飛鳥のシャーペンだよね!』
『……うん』
『良かった〜見つかって』

『はい、これ』と手渡されたそれを受け取ると、手の中にあるすっかり諦め切っていたはずのそれをじっと眺める。ここにあるのは正しく、あの予言書に書かなければ起こるはずのない未来の形だった。

『ね? 現実になったでしょ?』

 呆然とする俺を見てにっこりと笑う葉月の笑顔はまるで太陽の様に眩しくて、明るくて、暖かい。

『うん……葉月、ありがとう』

 書いたことが現実になる予言書。葉月の未来の予言日記。

『どういたしまして!』

 この日からそれは、俺達二人で現実にしていく予言日記となったのだった。
「——あれってさ、所謂やりたいことリストに近いよね。やりたいことや目標などを目に見える形で書き出しておくと良い、みたいなやつ」
「そうかも。予言日記にはこうだったらいいな、これやりたいな、みたいな自分の未来の予定を書いてたよね」

 大学生になってタスク管理をする為にスケジュールを整理する様になり、ついでに自分のやりたいことを書き出し始めてからふと思ったのだ。これってあの時の予言日記に似てないか?と。
 やりたいことリストとは、やりたいことを書き出すことで実現しやすくなり、新しい自分の側面にも気付けるという、自分の生き方と向き合う為の素晴らしい方法の一つだ。

「それを葉月は小学生の内から意識しないでやってたんだからすごいよ」
「いやいや! そんなすごい意思を持ってやってた訳じゃないからね。飛鳥もたくさん協力してくれたから、そのおかげで達成してきたんだし」
「……まぁ、デイリーミッションをクリアしていくみたいで楽しかったから」

 たくさん協力してくれた、という言葉に当時の自分を思い出して少し照れ臭さを感じる。
 俺は例のシャーペンの一件から予言日記への意識を改め、葉月の書いた内容を現実にする為に積極的に参加する様になったのだ。
 何故なら葉月の予言日記に書かれたものは、葉月の努力によって現実になっていくことを目の前で知ったから。それは新しく知った自分の力で明日を迎える方法で、それを実践する葉月の眩しさに子供ながらに感動したのを覚えてる。
 毎日更新される明日の予言。それを今日この時に葉月と共に現実に出来ることが、俺の予言を現実にしてくれた葉月の予言を叶えられることが、俺にとってとても誇らしく思えることだった。

「あ、そろそろ次の講義始まるから行かないと。飛鳥は帰るんだよね?」
「うん」
「あのさ、連絡先交換しない?」
「もちろん」
「やった! ありがとう」

「じゃあまたね!」と、明るい笑顔で手を振り次の講義へ向かう葉月を見送る。

 そっか、また会えるんだ……あの頃と違って。

 友達欄に増えた葉月のアイコンを見てじんわりと心が温まるのを感じた。あの時の別れの先にこんな未来が待っているなんて、今の今まで想像もしなかったから。

 そうだ、予言日記。

 急いで家に帰ると、引越しの際にも忘れずに持ち出した葉月の予言日記を引き出しから取り出した。これは別れの挨拶に来た葉月から受け取ったもので、その日から俺はこのノートを何より大事に保管してきた。

「懐かしいな……もう六年前になるのか」

 俺は小学校を卒業すると同時に、父親の転勤の関係で他の地方へ引っ越すことが決まっていた。事前に知らされてはいたものの、特に一緒に居ることの長かった葉月にはどう言い出したらと悩んでしまってなかなか言い出すことが出来ず、結局俺の口から言い出せたのは卒業式を翌日に控えた放課後のことだった。 


『——え……? 今なんて?』
『だから、明日卒業したら引っ越すから、もう葉月とこうやって会えるのは今日が最後なんだ』
『…………』

 葉月はその大きな目をこれでもかと見開いて、言葉を失った様に固まってる。その様子に驚いているのか、怒ってるのか、悲しんでいるのか、俺にはわからなかった。

『……葉月?』
『…………』
『えっと、ごめんね』
『……なにが?』
『え?っと……』
『…………』

 沈黙が続く中、『ごめん、先帰る』という言葉と共に走り出した葉月を俺はただ何も出来ずに見送る事しか出来なかった。こんな葉月を見たのは初めてだったから、動揺して身体が動かなかったのだ。
 葉月は、いつも前向きで笑顔が絶えない女の子だ。明るくて無邪気で、感情を表に出すのが得意なタイプ。そんな彼女がここまで嫌な気持ちを露わにする瞬間に今、初めて立ち会った。

『…………』

 もしかしたら引き止めるべきだったのかもしれない。でも自分の中に生まれた感情に飲み込まれて、俺はこの場を動けなかった。
 怖かった。明日で最後なのになんでこんなことになってしまったのだろう。俺は葉月に嫌われてしまったのかもしれない、そう思うと足元から真っ暗な底なし沼に飲み込まれていく様だった。
 もっと早く伝えていれば良かったのかな。でも早く伝えた所で悲しませてしまうことには変わりないし、寂しく思う時間が長引くだけかもと思うとどうしても言葉に出来なかったのだ。
 葉月を、悲しませたくなかった。

 ——明日が来るのが怖い。

 そんなことを思っても、変わらずに明日はやって来るもので。

『今までありがとう! 向こうでも頑張ってね!』
『応援してるからな! 頑張れよ!』

 卒業おめでとうの他に、俺にだけ渡される言葉の数々に返事をして、最後の別れの挨拶をする。
 結局、朝から一度も葉月と言葉を交わせなかった。冷たい態度を取られるのが怖くて、そっと視線を送っては、目が合う前に逸らしてしまう意気地無しの自分が居た。

 ……今日が、最後なのに。

 なんとか最後に話さないとと、重い頭をぶら下げる様に、とぼとぼと一人になった廊下を今更葉月を探して歩いている時だった。

『飛鳥!』

 飛び込んできたその声に、勢いよく俯いていた顔を上げる。

『葉月……!』
『あ、飛鳥! 待って!』 

 俺の所まで走って来てくれた葉月は肩を大きく上下させて息を整えてる。その両手には予言日記が抱えられていた。

『葉月、これ……持ち出して大丈夫なの?』

 なんで?とか、どうして?よりも先にそれを思った。だって予言日記は葉月の秘密だったはずだ。予言日記を読む時も書く時もいつも学校外で二人きりの時だけだったのは、葉月にとって他の人には絶対にバレたくないものだったからだ。
 卒業で明日からはここに居ないとしても、今はまだみんなが居る変わらない学校の廊下だ。誰かに見られるんじゃないかと息を整える葉月の代わりに辺りを確認しようとすると、『これ!』という言葉と共に俺の手にノートが触れた。

『これ! 飛鳥にあげる!』
『え……でも、大切なものなんじゃ、』
『大切だよ! 大切な私達の思い出だから飛鳥にあげる! 私達、たくさん現実にして来たよね』

 目の前の、ぱっちりと大きな葉月の二つの瞳がゆらゆらと揺れる。

『飛鳥は私の予言を現実にしてくれた。飛鳥は現実にする力がある人だから、きっと引越しても大丈夫。私も、飛鳥みたいにこれからも頑張る』

 押し付けるように俺に手渡すノートの上に、葉月の瞳からぽたぽたと涙が落ちた。俺がノートを受け取ると、葉月は自分の涙をぐっと拭う。

『飛鳥、今までありがとう』
『葉月、』
『さようなら』
『……あの、』
『さようならっ!』

 その力強い瞳に、言葉に、俺は自分の言葉を飲み込んだ。葉月は別れの挨拶をしに来たのだとわかったから。もう心を決めて、ここでその言葉を口にしているのだ。

『……ありがとう、さようなら』

 俺のその言葉を聞き遂げると、葉月は俺に背を向け去っていく。覚悟が決められたその背中に、俺は別れとは終わりのことで、これ以上出来ることはないのだと知った。その場に残されたのは、一冊のノートとそれを受け取ることしか出来なかった俺のただ一人。
 手元に残ったノートをそっと開いてみると、そこにはもちろん見覚えのある葉月の過去の予言が書かれていた。

 “新しい帰り道で帰る”

 通学路じゃない所を通ったら怒られるから、誰にも見つからない様にこっそり二人で探したっけ。結局めちゃくちゃ遠回りだったんだよな。

 “先生に感謝される”

 これは良いことしよう週間の時の一つだ。想像以上に簡単に先生が感謝してくれるものだから、もう良いよと言われるまでしつこく手伝ったんだっけ。

 “一番星を見つける”

 六時間目が終わってからずっと二人で空を眺めてたんだよなぁ。帰りが遅くなって怒られたけど、冬の澄んだ空気の中にきらりと現れた一番星はすごく綺麗だった。

 ……全部、全部覚えてる。あの日からずっと俺達は二人で現実にして来たのだから。

 懐かしさと切なさにぺらぺらと捲る手が止まらない。捲る度に日付はどんどん近付いてきて、ついに今日である最後の予言に辿り着いた。

 “飛鳥にさようならと言う”

『……っ、』

 それはたった一言。されどその一言の重さを、今この瞬間に改めて感じた。
 葉月は、さようならと伝える勇気を、覚悟を、予言日記に書くことでもらっていたのだ。だって予言日記に書いたことは現実になるのだから。
 さよならなんて本当はしたくない。でも、しなければならない。だってそれが現実だから。明日の自分がやるべきことだから。出来ないまま終わりにはしたくない。
 そんな葉月の心が今この予言から伝わってきて、俺の目からついに涙がこぼれ落ちた。
 俺も、葉月とのお別れは嫌だった。でもそれで悲しむ姿なんて見せたくないし、葉月の前では格好良い男で居たかったから。だから、ずっと自分から言えないでいた。

『……さようなら』

 呟きは、誰にも聞かれることなく涙と共にノートに染み込んでいった——。
 ——そんな別れを経て大学生になった俺は今、奇跡の様な偶然の出会いによって再び葉月と会うことが出来た。
 新しい俺達の明日が始まる、そんな予感がしてやまない。その予感を現実にしたい。現実にするといったら、この予言日記の出番だ。
 さようならのページで終わった予言の後、まだ何も書かれていない白いページが続いているのを見て、俺はそこに明日の日付と共に予言を書き込んだ。

 “葉月とまた話をする”

 よし、やるぞ。

 あの日の葉月の覚悟を背負ったこの予言日記に、今度は俺が力を借りる。新しい明日を今度は俺が始めるんだ。


 次の日になると、大学へ向かう最中からずっと俺はそわそわしていた。だって俺は予言日記に書き込んだのだから、それを現実にしなければならない。
 多分葉月と受けている講義は被っていないだろうと思う。だって入学してから昨日までずっと葉月の存在に気がついていなかったのだ。この広いキャンパス内、一度も顔を合わせたことの無い人間なんてごろごろ居るだろうから、きっと葉月もその中の一人だったのだろう。
 大学生になると自分で単位の調整が出来るので、受けたい講義と一週間のスケジュールを決めるのは自分次第だ。朝から最後までずっと入れてる日もあれば、午前か午後だけの日もある。お互いの予定を合わせないで葉月と出会うことはとても難しいのだと、ずるずると午前中を終えた今、改めて感じた。

 どうしようか……葉月と話す、それだけのことも出来ないかもしれない。本当は自然と会えたらなと思ってたんだけど。

 だってその方が偶然を装えるし……なんて、相変わらず俺は格好つけたがりらしい。そんなことでは駄目だと、食堂で学食を食べながら取り出したのはスマートフォン。ここには葉月の連絡先が入っている。

 “こんにちは。昨日はありがとう”
 “葉月は今日大学来てる?”

 送ってから画面を閉じて、小さく溜息をついた。自分の葛藤が一瞬で終わりを迎えた瞬間だ……葉月はどう思うかな? 返信を待つ時間は苦手だ。あれこれ考えてしまうから。でも会えないまま終わってしまったら元も子もないし、もう俺は小学生の頃の俺ではないのだから変なこだわりは捨てるべき。その為の予言日記な訳なんだし、

 ブー、ブー

「!」

 返事だ!と震えるスマホを慌てて手に取り確認すると、嬉しいことに予想通り。その送り主は葉月だった。

 “こんにちは! 私も送ろうと思ってた〜!”
 “今日はさっき着いた所なんだ。午後から最後まで入ってる日”

 午後から最後までということは、もう講義が始まる所か。

 “じゃあ俺も最後までだから良かったら一緒に帰らない?”
 “え、嬉しい! そうしよ!”

 そして、後でね〜と猫が手を振るスタンプが送られてきて、俺は心の中でガッツポーズをした。
 ありがとう現代の機器。小学生の頃のあのお別れとは違うのだ。会おうと思えば会える今は何て素晴らしいのだろう。
 先程までの偶然会えないかなと、変な所にこだわっていた自分はもうすっかり居なくなっていた。




「あ! 飛鳥!」

「おまたせ〜!」と眩い笑顔でこちらに駆け寄る葉月と合流する。お互い最後の時間まで講義があった為、もう夕方を過ぎて辺りは薄暗くなっていた。

「葉月は大学まで電車? 徒歩?」
「電車。飛鳥は?」
「俺は徒歩。大学の側に部屋借りてるから」
「え、一人暮らし?」
「うん。実家はあの頃引越したままだよ」
「そうだったんだ……じゃあ今度遊び行っても良い?」
「え?……い、良いけど、何も無いよ」
「そんなことないよ。飛鳥が居るじゃん」
「でも、だったらうちじゃなくても会えるでしょ?」

 急な展開に、一人暮らしの男の家になんてと。しかも昔別れ際に泣かせてしまった大事な女の子を呼ぶのだと思うとなんだかどぎまぎしてしまい、つい思っていた以上の拒否感を醸し出してしまった。はっとした時には、葉月は少し寂しそうに「そっか、そうだよね」と微笑んでいて、その笑顔がちくりと心に刺さる。

 ……失敗した。嫌な訳じゃなかったのに。

 でも、今更嫌じゃないからと積極的に誘うのも違う気がして、「駅まで送るよ」と、話題を切り替えて歩き出すことしか俺には出来なかった。

 ……駄目だな俺。

 一緒に駅へ向かう最中、何事も無かった様に今日の出来事や、昔の思い出話を笑顔で話してくれる葉月に相槌を打ちながら、俺は先程の失態を引きずっていた。すると最寄駅になんてあっという間に着いてしまう。

「送ってくれてありがとう。またね」

 葉月が小さく手を振り改札へ向かおうとする姿があの日の別れ際の葉月と重なり、過去の何も出来ずに見送った自分が脳裏に蘇る。

 ——これじゃ、あの頃と何も変わってない。新しい明日を今度は俺が始めるんだって、決めたはず……!

「は、葉月!」

 背を向け一歩足を進めた葉月の手を取ると、驚いた顔をした葉月が振り返る。

「実は俺、予言日記始めたんだ。昨日から」
「え?」
「だからその、一緒にやらない? またあの頃みたいに二人で」
「…………」

 つい、引き止めたくて、繋ぎ止めたくて、何かを進めたくて、咄嗟に飛び出した言葉がそれだった。
 ……けれど。

「……やらない」

 そう言って、葉月は自分の手を取る俺の手にもう一方の手を重ねる。

「もうやめたの。だからやらないんだ」

 困った様に微笑む葉月から丁寧な対応をされ、俺はそれに「そっか」としか答えられず、

「じゃあ、またね」
「……うん、また」

 そっと葉月の手を離し、結局去り行くその背中を静かに見送ることしか出来なかった。

 ……なんでやめちゃったの?

 心の中で葉月の背中に尋ねてみても、答えなんて返って来ない。言葉に出来なければ彼女に届かないのはわかっているけれど、その質問を口にすることは出来なかった。
 だって、葉月は俺の知らない顔をしていた。あんな傷付いた様な切なげな表情、初めて見た。

 ——葉月の表情が頭の中から離れない。

 昨日偶然出会って、昔と変わらない葉月がそこに居たことがとても嬉しかった。
 葉月は俺の知っている葉月のまま、ずっと前を向いて今日まで生きて来たのだろうとすぐに思ったし、あの頃の様にまた一緒に歩んで行く毎日を過ごせるのだと信じた自分がそこに居た。
 けれど、現実は違った。
 それはそうだ。だってあの頃の俺達は小学生で、今の俺達は大学生。法律上成人している年齢である。葉月だってもうあの頃と違って当たり前なのだ。
 俺は……俺は、どうなのだろう。
 俺はあの頃と何か変わったのだろうか。あの頃はいつも葉月が明日に導いてくれていた。葉月はいつも、未来の提案をする。そういえば今回初めて葉月と会った時もそうだ。葉月からカフェに誘ってくれたし、連絡先の交換だってそう。俺はずっと頷いていただけ。
 今度は俺がって、予言日記の力を借りて声を掛けてはみたものの、結果、この通りだ。何一つ前に進んでいないし、むしろ下がった様な気がする。

 こんなこと、始めるべきじゃなかったのかな。

 俺には向いて無いのかもしれない。失敗しかしなかった今日にどん底まで落ち込んでいく自分を感じる。

 ブー、ブー

「? 誰だろ」

 スマホが連絡があることを通知する為に震えているので手に取ると、画面には葉月のアイコンが。
 びっくりしてすぐに開くと、

 “今日は誘ってくれて嬉しかった。送ってくれてありがとう”

 と、あんな空気で、あんな別れ方をした俺に対して、葉月はお礼のメッセージを送ってくれた。
 うじうじ悩んでばかりで、気の利いたこと一つ出来ない情けないこんな俺に。

 ——もう、情けない俺はここで終わりにしよう。

 決意と共に俺は予言日記を取り出した。返事をする前にここに書き込んでしまおう。弱い俺が逃げ出さない様に。

 “葉月と二人で出掛ける”

 良し!と気合いを込めた俺は改めて画面と向き合うと、どきどきしながらメッセージを記入し、送信した。

 “こちらこそありがとう。良かったら次は一緒に出掛けませんか?”

 きっと俺の家より楽しいと思う、と書いた分は送ることなくすぐに消した。もうそういう言い訳みたいなものは無しだ。俺は格好良く前を向きたい。

ブー、ブー

「!」

 “嬉しい! 行きたい!”

 送られて来たにっこにこでほわほわの犬のスタンプを見て、同じ様に喜んでいる葉月の笑顔が頭に浮かんだ。可愛いなと心が和んで、俺も自然と笑顔になっていた。
 あれから何度かやり取りをして、お互いの予定が合う来週末に出掛ける約束を取り付けることが出来た。行き先は水族館。暑い中ずっと外を歩かなくていいからちょうど良いよねとあっさり決まったけれど、完全にデートの行き先じゃないかと、内心どきどきしていた。
 いや、デートの行き先って、二人で出掛けることをデートと呼ぶ人も居るんだから別に変では無いんだけど、なんていうか、男女二人で行くとなると恋人同士で行く場所っぽいイメージがあるから……葉月があまりにもあっさり受け入れるから、余計にどきどきしてしまう。だって俺達はあの頃のような小学生の二人では無い。
 そう、あの頃の二人では……じゃあ今の俺は、葉月とどうなりたいんだろう。

 そんなことを考えながら当日までの数日間、予言日記を続けていた。“当日の予定を立てる”とか、“葉月をお昼ご飯に誘う”とか、成し遂げられそうな予言ばかりだったけど、それでも、現実に出来ると嬉しくていつの間にか毎日続いている。
 そろそろページが少なくなってきたな……と、明日の分を書きながら残りの枚数をめくっていくと、ぎざぎざと破り取った形跡のある最後のページが目に入った。
 それはもらった時からのもので、初めて気づいた時は間違えた分を破り取ったのか、メモにでも使ったのかと思い、特に気にしないままノートを閉じて今日まで何も思いもしなかった。
 けれど今になって考えると、何かおかしい気がする。
 だってあの葉月が鍵のついた引き出しに大事にしまっていたノートだ。そんなノートにメモなんてするだろうか。一枚どうしても切り取らなければならなかったとして、こんなびりびりと跡が残る様に破り取ったり——いや、なんでも丁寧に大切に扱う葉月だ、そんなことは絶対にしないと思う。
 もしかしたらこのノート……予言日記は、俺が思っている以上の大切な何かが隠れているのかもしれない。
 あの時さようならと涙を流しながら俺に手渡した葉月。一体、どんな気持ちでこれを俺に託したのだろう。あの日から予言日記をやっていない葉月は、やらないと決めた葉月は今、何を思うのだろう。この最後の一ページには一体、何が書かれていたのだろう。
 葉月のことをちゃんと知りたい。今も昔も、全部全部。

「……よし、書いた」

 “葉月ともっと近づく”

「……抽象的過ぎるか?」

 でも今の自分の願いを明日の予言にしようと思うとこんな言葉にしかならなかった。もっと葉月の心の側にいきたい。そんな思いをその一文に込めたのだ。


 そして、二人で出掛ける当日。夏の清々しさを感じる爽やかな晴天。

「飛鳥! おまたせー!」

「今日こそ私が先だと思ったのに〜」と肩を落とす葉月は集合時間の十分前にやって来て、「俺も今着いた所だよ」なんて答えたけれど、俺はというとその二十分前にはここに居た。つまり集合時間の三十分前である。
 なんかもうそわそわしてじっとしていられなかったのだ。毎回こんなに早く来ている訳では無いけれど、今日はたくさん葉月と話たいことがあると思うとつい……心の支えにと、予言日記まで持って来ている始末である。

「じゃあ行こっか!」

 そんな無闇に緊張している俺とは正反対に、葉月はいつもの明るさで俺の手を取り入り口へと導く。わ! 手を繋いでる!なんて思ってしまう俺はもう頭の中が葉月のことでいっぱいいっぱいだった。

「見て! ちっちゃい魚だらけ! 花びらとちょっと似てるよね」
「うん、綺麗だね」
「大きい蟹って水族館で見ると宇宙人感ない?」
「水槽内の照明落としてるしね。海で会ったらどうなんだろう」
「ペンギンだ! 陸でじっと動かない間に頭の中で独り言言ってそう」
「そうなの?」
「そうそう。飛鳥みたいに」
「俺みたいに……え、俺みたいに?」

 急に自分が会話の中に登場して驚きながら葉月の方を見ると、ふふっと笑いながら「でもそうでしょ?」と俺に訊ねるので、少し考えながら「そうかも」と答える。確かに俺は頭の中の独り言が多いタイプだ。

「飛鳥ってさー、ペンギンに似てるよね」
「どのペンギン? コウテイ? フンボルト?」
「あはは! 種類とかじゃなくて! じっと考え事してのんびりしてる人かと思ったら、実はすごいスピードで解決していくタイプだったりする所」
「……そうかなぁ」
「そうだよ。飛鳥はこうと決めるまでたくさん考えるから、その分決めた時に迷いなく真っ直ぐ突き進んでいける人だよ。水に入った途端すごい速さで泳いでいくペンギンみたいに」
「…………」
「あ、この先でイルカのショーあるよ。行こう!」

 葉月に手を引かれながらもう一度ペンギンに目をやると、ガラスの向こう側を横切る様にペンギンが泳いでいった。滑らかなのに鋭く自在に、目を引く気持ちの良い速さで。
 俺に……似てるかな。俺もあんな風にスマートに動き出せたらなとは思うけど。
 葉月の感覚はいつも新鮮で、その目から見た俺はいつも自分の思う自分とは違うものに見えた。たくさん考えて動けなくなってる自分は自覚がある。今もそうだ。葉月に聞きたい事があるけれど、言い出すタイミングが掴めないでいる。俺は葉月のこととなるといつも、特に格好悪い。



 イルカのショーを終えると、ちょうど昼食の時間だった。館内のレストランは混雑していた為、一度外に出て事前に調べておいたレストランへと向かうことにすると、葉月は「調べてくれてありがとう」と嬉しそうにお礼を言ってくれた。
 料理が届いてからもずっと葉月は楽しそうで、水族館の生き物の中で言ったら葉月はイルカに似てるなと思った。海の生き物の中で一番楽しそうに笑っているのがイルカだなと今日の水族館で感じたから。元気で明るくて感情が表に出る葉月にそっくりだ。
 
「…………」
「……飛鳥?」
「……ん?」

 だから、最近の葉月の中には明るさ以外の感情が顔を見せる瞬間があることも知っている。それは予言日記に関わる話の時に顔を出すのだと気づいていた。俺は色々察するのが苦手だけど、葉月の気持ちだけはちゃんとわかるつもりだ。葉月の笑顔の違いにだって気付けるのは、今も昔も変わらない。
 葉月の中には俺に話していない何かが隠れている。それが知りたくて、聞きたくて、心の中にずっとあったそれを訊ねるのは今がそのタイミングかなと思った。

「何か考えてる?」
「……聞きたいことがあって」
「何?」
「……無理なら良いんだけど、あのさ。この間俺、予言日記始めたって言ったでしょ?」
「……うん」

 予言日記。その単語を出した瞬間、やはり葉月の纏う空気が変わった。しんと辺りに真剣な雰囲気が漂う。

「その予言日記の最後のページが破れてるのが気になって。それってもしかして、葉月がもう予言日記をやらないことと何か関係があるのかなって」
「…………」
「気になり出したらキリがなくて、ずっと葉月のことを考えてるんだ。だから今日、葉月に聞きたいと思ってたんだ」
「……そっか」

 はっと葉月の視線と俺の視線が絡まる。

「それが知りたかったんだ」
「うん」
「だから今日誘ってくれたんだ」
「うん……え? いや、違、」
「いいよ、教えてあげる。なんでやめちゃったかというと、それは現実にならないことがあったから。あれはね、もう予言書じゃないんだよ」
「……え?」

 あまりの衝撃に、葉月の言っていることへの理解が追いつかなかった。
 そんな俺を悲しそうな瞳で葉月は見つめながら、

「だからね、そこには思い出しか残ってないんだよ。予言日記じゃなくて、ただの日記。小学生の頃の私達しかそこには居ないの」
「…………」
「だから今の私にはそれは必要ないんだよ」
「……じゃあ、今の葉月は何を叶えたいの?」

 現実にならないことがあったからやめたと葉月は言った。予言日記は今の葉月にとってはもうただの日記だと——でも、俺にとっては違う。

「俺にとってはずっと大事な予言日記だ。これは葉月の思いが詰まった、俺と葉月の現実が、未来が、ここにある。俺は今もその時の思い出に力を貰ってるし、現実にするその思いを信じてる。だから叶わなかった願いがあるならまた俺が葉月の願いを叶えたい」
「…………」
「俺、葉月のこともっと教えて欲しいんだ。今の葉月のことも、昔の葉月のことも。葉月のことが全部知りたいからなんでも話して欲しいし、悲しい顔をさせたくない」
「……なんでそこまで思ってくれるの?」
「なんでって、だって俺は葉月のことが、」

 はっとして、その続きを慌てて飲み込んだ。それは今、この場で知った自分の思いだった。

 ……そっか、だから俺、もっと葉月に近づきたかったんだ。
 考えれば当たり前のことだった。むしろ何故今まで気付かなかったのか自分でもわからない。

 俺は、葉月のことが好きだ。

 だから、葉月のことが知りたかった。
 だから、葉月の予言を現実にしたかった。
 だから、葉月に格好良く思われたかった。
 だから、葉月ともっと近づきたかった。
 だから、葉月の願いを叶えたいと思った。
 
 俺の行動も感情も全て、だからの先に繋がっていく。それが自然で、当然の答えであると心が納得していた。

「……飛鳥?」
「え? あ、あぁ……えっと」

 じゃあ、どうやってそれを葉月に伝える?
 今この場で? 今気付きました感満載の状態で? でも俺の葉月への思いはそんなに簡単なものじゃない。
 小学生の頃からずっと心に絡まっていたはずのその思いは、今気付いたからと簡単に葉月に告げられる様なものじゃない。

「……ねぇ飛鳥」
「……うん?」
「実はこの後行きたい所があるんだけど」
「あ、うん。どこ?」
「大学の側の河川敷」
「わかった、行こう……えぇ? か、河川敷?」

 何かの聞き間違いかと聞き返す俺の目に、にっこり笑った葉月の笑顔が飛び込んできた。突然のその提案に頭の中がちかちかして思考がままならないでいると、「ねぇ、覚えてる?」と葉月が俺に訊ねる。

「子供の時さ、河川敷で一緒に予言考えてたよね」
「……“秘密基地を見つける”」
「そうそう! 漫画で見る様なちょうど良い空き地なんて全然なくてさ、結局河川敷の高架下を私達の場所に認定したんだよね!」

「懐かしいな〜」と当時を思い返している様子で頬杖をつく葉月。つられる様に俺の頭の中にも当時の俺達が浮かび上がる。河川敷の高架下で陰に隠れる様にこっそり二人で並んで座ると、葉月の取り出した予言日記を覗き込む様にして確認していた。そこはまるで二人だけの世界だった。

「大学の近くにもあるんだよ、河川敷。知ってた?」
「……うん。俺もたまに散歩しながら懐かしいなって思ってたから」

 今でもそこを通る度に俺達の面影が見える様だったから。つい暇を持て余したり、落ち込むことがあった時には足を運んでいた。

「今から行かない? ここから三十分くらいだし」
「良いけど……まだ真昼間だから結構暑いよ?」
「高架下なら陰で涼しいよ。ね? そうだったじゃん」
「……うん。まぁ、そうかも」

「じゃあ決まり!」という葉月の明るい声で俺達はレストランを出て、真っ青な夏空の下、河川敷へと向かうこととなった。
 電車に乗って大学の最寄り駅で降りると、葉月が道案内をする様に俺の手を引き目的地まで連れて行く。俺達は、いつもそうだった。考え事をして立ち止まっている俺を、葉月はいつも笑顔で前へ引っ張っていってくれる。


『——安心して考え事してて良いよ』

 そう言って俺の手を引く葉月はいつも、俺の考え事を邪魔しない様に答えがまとまるまで黙って静かにしてくれていた。葉月はお喋りが大好きなのに。

『嫌じゃないの?』
『何が?』
『待ってる間。つまんないだろうなって思うんだけど……』
『全然! わくわくしてる! だって飛鳥の答えが聞けるから!』


 ——そうか。葉月は俺の答えを待ってるんだ。

 大人になった葉月が今、あの頃の様に黙って俺の手を引き目的地へと導いている。あの頃と全く同じ状況に、さすがの俺にも葉月の気持ちが伝わった。
 葉月は今、俺が飲み込んだ言葉を彼女に伝える為の時間を作っている。きっと俺は言葉にするのだと信じて。
 俺の思いは今気付いたからと簡単に告げられる様なものじゃない。先程のそう感じた心は間違っていないと思うけど、でも今わかる範囲だけでも、今伝えられる部分だけでも伝えることが出来たなら、きっと葉月は喜んでくれるだろう。だって昔から葉月はそうだったから。

 葉月が、俺を待っている。
「着いたー! 早く日陰に入ろう!」
「うん。葉月、水持ってきた?」
「持ってる持ってる。ちゃんと飲まないと熱中症怖いもんね」

 並んで座ってほっと息をつくと、爽やかな風が高架下を流れていった。川の近くだからか、風もいつもより冷たく心地よく感じる。

「懐かしいね……」
「うん……」

 太陽の日差しが反射して水面がきらきらと輝く。それを葉月は頬杖をついて眺めていた。その横顔はあの頃の女の子ではなくすっかり大人の女性のもので、胸がぎゅっと締め付けられる。

「あのさ、葉月……」
「うん?」
「えっと……」

 大丈夫。まだ格好良くまとまってはいないけれど、今わかる範囲でいい。俺の答えを、今までの思いを、今葉月に伝えよう……いや、伝えたい。

「……これ。見て欲しいんだ」

 俺が取り出したのは、一冊のノート。

「え、これ……」
「そう。持ってきてたんだ」

 俺と葉月の予言日記。

「さっきも言ったけど俺、今予言日記書いてるんだ。あの日の続きから」

 そう言ってページをぺらぺらと捲り、あの日の続き、葉月と俺が再び出会った最初の日のページを開く。すると葉月は隣から覗き込む様に俺の書いた予言を一つ一つ読んでいった。

「“葉月とまた話をする”」
「一緒に帰ったあの日のやつだよ」
「“葉月と二人で出掛ける”」
「これは今日実現して……って、声に出して読むのやめてくれない? 恥ずかし過ぎる」
「ふふっ。“葉月をお昼ご飯に誘う”“葉月の予定を聞く”“葉月の、”」
「わー! だからやめてってば!」
「あははっ、だって嬉しくて!」
「俺をいたぶるのが?」
「違う違う! 私のことばっかりなのが!」

 きらきらと輝く様に笑う葉月は、とても、とても嬉しそうで。

「……そうだよ。俺、ずっと葉月のことばっかり考えてるよ。今も、昔も」

 そんなに喜んでもらえるなら、もっと早く伝えられたら良かったと、後悔するほどで。

「俺、葉月のことが好きだよ。当たり前過ぎて気づけなかったくらい、ずっと葉月のことが好き。これからもきっと、ずっとずっと」

 だから、心の中にいっぱいになったこの思いを、そのまま声に出してみた。言葉にすると単純で当たり前な文章になってしまったけれど、結局何をどう頑張って考えてもきっとこんな言葉になってしまうのだろうなと感じた。だったら、新鮮なまま、心に生まれたまま言葉にして渡せた方が、きっと良い。
 これで良かったのだ。今日、このタイミングで気がつけて、伝えられたことがきっと最善で最良の方法だったのだ。

「…………」

 じっと黙った葉月が予言書に目をやると、そこには今日の予言が書かれていた。

 “葉月ともっと近づく”

「……飛鳥は、あの頃の私達と変わっちゃっても良いの?」
「変わるものだと思う。だってもう俺達は小学生の二人じゃないんだから。でも、変わらないものもあると思う」
「……何?」
「相手を大切に思う気持ち。気づいてなかっただけであの頃から俺、ずっと葉月のこと好きだから。葉月は?」
「…………」
「俺のこと大切に思ってくれてなかった?」
「……大切だったよ。すごく大切で、大好きだった」

 そう言うと、葉月は自分の鞄から手帳を取り出すと、カバーの間に挟んであった綺麗に折り畳まれた紙を俺に手渡す。それは一ページ分のノートの切れ端で、開くとそこには一言、見覚えのある丸っこい字で書かれていた。

 “飛鳥のお嫁さんになる”

「これ……」
「うん。予言日記の最後の一ページ」

 俺の手元にあるノートを捲り、最後のページの破られた跡とその紙の破れている部分を重ねると、ぴったりと合わさった。

「実はね、一番最後に書いた予言は、全部の予言を現実にしてノートを使い切ったら本物の未来になるって、始めた時からずっと心に決めてたんだ。だから毎日の予言も最後のページの為の験担ぎみたいなものだったの」
「……じゃあ、俺とやってる時も書いてあったの?」
「うん。気づかなかったでしょ? 飛鳥って変な所鈍いから」
「…………」

 それについては何も言えない俺に対して、葉月は「今の飛鳥には自覚あったんだ!」と笑っていた。そしてふと視線を川の方へやると、自分の膝に頬杖をついて穏やかな表情で語り出す。

「私、予言日記に対して本気だったんだよね。本気だったから……まさかこんな形で終わるだなんて思いもしなくて。飛鳥が引っ越しちゃうって知って、もう現実にならないんだって悲しいのとショックなのと、なんか裏切られた様な気持ちも全部、心の中でぐちゃぐちゃになってそのページだけ破り取ったの。それで、こんな気持ちになるくらいならもうやらないって、その時に決めたんだ」

 葉月は、背負っていたものが綺麗になくなったような、洗い立ての微笑みを浮かべていた。

「ノートも側にあると悲しくなるからさようならの時に飛鳥にあげた。飛鳥の中で素敵な思い出のまま取っておいて欲しかったから。で、破り取ったこのページも捨てちゃおうと思ったんだけど……なんか、捨てられなかったんだよね。これを捨てたら本当に全部なくなっちゃうんだと思うと、ずっと捨てられなかった。もしかしたらって思いながら、未練がましく手帳に挟んで持ち歩いてたんだ、お守りみたいに」
「……そうだったんだ」

 ずっと、葉月の願いはこのノートの一番最後のページで現実になる日を待っていた。けれどそれは諦められ、破り取られることで終わりを迎えたのだった。
 それが叶わなかった、現実にならなかった葉月の予言。葉月が予言日記をやめて、もう始めない理由。

 けれど——また、俺達は出会うことが出来たのだ。

「ねぇ、飛鳥」

 頬杖をついたまま、くるりと葉月がこちらを向く。

「この私のずっと捨てられなかった予言。これは現実になりますか?」

 “飛鳥のお嫁さんになる”

「……してみせます。その日が来るまで隣にいてもらえる様に、これからも頑張ります」
「ふふっ、私も! 現実にしてもらえる様にこれからも頑張ります!」

 弾ける様な笑顔。それは再び出会えてから今日までずっと待っていた、一番輝く葉月の笑顔だった。

 ——これは、俺と葉月の予言日記だ。

「私ね、前にも言ったけど、飛鳥が居ればどこでも楽しいの。そこに飛鳥との思い出が出来るから、どんな場所でも特別になるの。今回の河川敷みたいに」
「……うん。俺も。葉月が居ればどこでも楽しい」

 ここにまた、二人だけの新しい予言を書き足していこう。
 二人でならきっとまた現実にしていける。そして最後の一ページを越えた先を、一緒に作り上げていこう。

「これからもたくさん作っていこう。俺達二人の思い出と、新しい未来を」

 そこにはきっと、素敵な明日が俺達を待っているから。

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