今夏はかなりの暑さになりそうだ。焼き上がったパンにいちごジャムを塗りながら、テレビから垂れ流されるニュースキャスターの声に耳を傾け、ぼくーー九十九京介(つくも きょうすけ)は漠然とそう思った。

 夏休みの気配もすぐそこまで近づいてきた七月初旬。蝉の声はまだ聞こえて来ないものの寝苦しい夜も次第に増えてきた。毎年この時期になると「地球温暖化」の五文字が頭の中を掠めるのは学校教育の賜物だろうか。

 暑い=温室効果ガスが悪さをしているという単純な図式だけが頭の中に残っている。あるいはポイ捨てや食品ロスといった単語の連鎖。いずれも「そりゃ環境には良くないだろうさ」とは思うものの、それがどう作用して悪さをしているのかをぼくは知らない。

 まあ、環境活動家でもないのだから当たり前だが。むしろ、今は環境問題以上にぼくの頭を悩ませる問題があった。

 写真部の部誌に提出する作品をどう見繕うべきか。それが今のぼくに与えられた唯一の命題だった。

 パンくずで汚れた指をティッシュで拭い、卓上のスマートフォンに手を伸ばすと、画面上には現在時刻と幾つかのアプリの通知が表示されていた。時刻は八時半を指すところ。至高の休日になぜ早起きしなければならないのかと少しだけ苦々しい心持ちになった。

 ぼくは別に部活動には参加していない。ぼくの通う日和高等学校は部活動への参加が任意だったから。無気力かつ不熱心なぼくはこれ幸いと部活動への勧誘を全て断っていた。

 ではなぜ、そんなぼくが写真部の部誌に頭を悩ませなければならないかといえば答えは二つの要素から導き出せる。

 一、ぼくは写真部の部長と友人である。
 二、写真部は常に人手不足である。

 すなわち、強引にも写真部の手伝いをさせられることになったのだ。まったく、誠に遺憾と言わざるを得ない。そして、そんな相手からの連絡への対応が多少雑になったところで誰がぼくを責められようか。

 緑色に染まるチャットアプリをタップし、数少ない友人かつ写真部部長である相手、楠実里(くすのき みのり)とのトーク画面を開いた。

『おはよう! 今日はちゃんと起きれた?』

 着信時刻は数分前。

『なんとかね』

 一言だけ返信をして残りのパンを口の中へ放り込んだ。たまにはジャムも悪くない。いつもはバター派だが今度から日によって変えてみようか。そんなことを考えていると、再びスマホが独特な通知音を鳴らした。

『よろしい。また遅刻されたら叶わないからね』

 また。抑揚のない文章のはずなのにどこか嫌味たらしく見えるのは果たしてぼくの気のせいだろうか。以前、寝坊したことは既に謝ったはずだ。ならば、きっと気のせいなのだろう。

『次から気をつけるって言っただろ。それで、今日はどこに行けばいい?』

『いつものところ。よろしくね!』

 答えになっていない。そう思ったが、おそらくあそこだろうという場所が一つだけ思い当たったので特に確認することもなかった。違ったなら曖昧な返信を寄越した実里が悪いし、ぼくが責められる謂れはないはずだ。

 汚れた食器をシンクへ運ぶ。蛇口をひねると心地よい冷水が肌を伝っていった。今日もきっと外は暑い。億劫な気持ちを抑えるようにスポンジを手に取った。

 ☆★☆

 集合場所に指定された喫茶店〈ダルマ〉はその名に反してシックでレトロな雰囲気を纏っている。駅前という立地も相まって、客足は少なくないが同時に多くもない。

 長時間滞在してもそれほど迷惑にならなさそうという理由から実里と顔を合わせる際には真っ先にこの店が候補に挙がる。

 そういった理由も相まって「いつものところ」という曖昧な集合場所もなんとなく予想がついていた。ただ一つ、予想が外れていたことがあるとすれば今日の話題が写真部の部誌についてではなかったことくらいだ。

 目の前に俯きがちに座る男子に目を見やる。目が合うと慌てたように視線を下げられた。そんなにぼくは怖いだろうか。

「だからね、京介には仲人役を頼みたいわけよ」

 意気揚々といった様子で何度目かの説明を終える実里。申し訳ないが、何度聞いても意味がわからない。ぼくが? 仲人?

「なぜ」

「だからそれも説明したでしょ。拓海くんの好きな子とアンタが同じクラスなの」

 説明になっていない。あるいは、論理として破綻しているといってもいい。同じクラスだとなぜ見も知らぬ男子の仲人を引き受けなくてはならないのか。

「申し訳ないけどそういう話ならぼくに頼むのは間違ってるよ」

「そんなことないの。アンタが適任」

「知らなかったかもしれないけど、ぼくは恋愛とは無縁の男なんだ。自分の色恋もまともにできない人間が他人の世話なんかできるわけがない」

 何が悲しくてこんなことを言わなければならないのか。ほら、ぼくの言葉を聞いて実里の横に座るタクミ君も心なしか不安そうにしている。

 というか、そもそもだ。一体タクミ君と実里はどういう関係で、なぜぼくなんかを頼るなんて話になってしまったんだ。

「あの……実里先輩」

「んー?」

 おずおずとした様子でタクミ君が口を開く。実里のことを先輩と呼称しているあたり、彼は一年生でぼくより年下らしい。ということは、彼の想い人は二年生ということか。

「やっぱり、事情を話したほうがいいんじゃ……」

 秘密の会話とでもいうように実里に向けて話しかけるタクミ君。ただ、流石に真向かいに座っているぼくにも聞こえない声量で話すというのは難しいようで「事情を話したほうがいい」という部分がバッチリ聞こえてしまっている。

「話すべき事情があるわけだ」

 ぼくの発した言葉にタクミ君が肩を震わせた。顔を見ればしまったという文字が浮かんでいる。なんだか下級生をいじめているようで気分が悪いなあ。

「まあ、ないわけじゃないよ」

 悪びれる様子もなく実里が応える。

「なら、彼のいうとおり話すべきなんじゃないか? 人にものを頼むなら通すべき筋があるはずだ」

「でも、言ったところできっとアンタは信じない」

 オレンジジュースに刺さったストローを弄びながら実里は不機嫌そうに吐き捨てる。実里のこんな姿を見るのは珍しい。それほど言いたくないのか。

 小さくため息を吐き、注文していたコーヒーに手をつける。いつもと変わらないブラックコーヒーのはずなのに、どこかいつもよりも苦く感じて備え付けのスティックシュガーを開けた。サラサラとした粉が黒々とした液体の中に溶けて消えていく。

 さて、ぼくの信じないような事情とはなにか。実里が「信じない」と断言するならば、いくらぼくが頭を悩ませたところで答えが見つかることはないのだろう。なら、標的を変える方が早い。

「タクミ君……と言ったね」

 できる限りの柔和な笑顔を浮かべて話しかけた。しかし、当のタクミ君は先ほど同様に肩を振るわせ顔を引き攣らせている。いったい、僕が何をしたっていうんだ。

「君は実里の後輩だね。どんな関係なんだい?」

「えっと……」

 ぼくの言葉を受けてタクミ君は実里の方へ視線を彷徨わせる。指示が欲しい、といった感じだ。

「別に怖がらなくてもいいよ。単なる世間話さ。君の願いを叶えるにしろ、叶えないにしろ君のことは知っておくべきだろう?」

「はい。そう……ですね」

 実里が声を挟む気配はない。この程度の会話なら許されるらしい。

「えっと、改めて自己紹介が遅れてすみません。俺、あ、いや、僕、日比谷拓海っていいます。写真部所属で一年です。実里先輩は部活の先輩で、その恋愛相談みたいことをしてもらってます」

 なるほど、写真部の後輩だったか。それは実里が目をかけるわけだ。

「ぼくとはどこかで会ったことあったかな」

「いえ、ない……と思います」

「だよね。それじゃあ、なんでぼくなんかに恋愛ごとの話をする気になったんだい。結構プライベートな話じゃないの? そういうのって」

「えっと」

 再びタクミ君の視線が実里の方へと向く。言い方を変えてはいるが、要はぼくに相談している理由を話せと言っているのだから秘密の事情にも関わってくるのだろう。

「私が紹介した」

「だろうね。じゃなきゃ、接点がない」

「…………はぁ。わかった、いうから」

 両手をあげて降参といった様子。観念してくれたなら何より。

「最初から素直な方が印象はいいよ」

「今更アンタからの印象とかどうでもいいし」

 不貞腐れたようにいうのはやめて欲しいな。一息ついて、コーヒーカップを手に取る。食後だったこともあり、デザートとのセットにしなかったけれど少し甘いものも食べたくなってきた。

 実里とタクミ君との話が終わったら久しぶりにバニラアイスでも食べようか。マドラーでコーヒーをかき混ぜながら、そんなことを考えていると実里が小さく口を開いた。

「…………アンタのこと好きなんだって」

 力なく呟かれたその言葉に心臓がドクンと跳ね上るのが感じられた。充分に冷房の効いた室内であるはずなのに、嫌な汗が頬を伝う。

「……えっと、それは誰が?」

「……話の流れでわかりなさいよ。拓実くんの好きな子が、よ」

 口に出してから「しまった」と思ったが、実里は存外に気にした様子もなく答えた。どうやら、地雷は踏まずに済んだようだ。

「それは、えっと、本当に?」

「……私は知らないけど。……アンタ、小津ちゃんってわかる?」

 実里からの突然の質問に虚をつかれたが、それも一瞬のこと。おずという名を頭の中で検索してみる。すぐには漢字が思い浮かばなかったが、少し悩んでから思い当たるものがあった。

「あぁ、四組の」

「そ。あの子が言ってたらしいの」

 四組の小津さん。確か、下の名前は「三奈子」だったか。一年の頃は同じクラスだった筈だ。どこの学校にもいそうな噂話が好きな女の子で、ってああ、そういうことか。

「それは……なんというか」

 信憑性があるね、と続けようかと思ったがその先は言葉にならなかった。

「そういうこと。だから、アンタにも協力してもらおうと思ったの」

 なるほど、今ので大体の話の流れは理解できた気がする。タクミ君は恋敵になり得るぼくを味方につけることで自身の恋路を有利に進めようと画策したのだろう。そして、たまたま恋愛相談していた写真部の部長がぼくと知り合いだった。

 この事実を知った時、彼はきっと膝を打ったはずだ。なんて幸運なんだ、と。そして、この話をぼくに持ちかけた実里の思惑もまた、朧げながら理解できる気がした。ただ、これはあまりに……。

「なんとなくだけど、事情は理解したよ」

「なら」

「それでも。ぼくの答えは変わらない」

 チラリとタクミ君に視線を向ける。この話、一番の被害者は彼なのではないだろうか。そう考えると今からいう言葉も憚れるが、言わないわけにもいかない。

「そういったことにぼくをあまり巻き込まないで欲しい。それだけさ」

 できるだけ平常を装ったはずなのに、自分でも気がつくほど冷めた声音になってしまっていた。

「なんでよ」

「なんで、と言われてもね……」

 ムスっとした様子の実里の言葉に苦笑しながら応える。……理由なんて、実里が一番知っているはずなのに。

「わかるだろう? 実里なら」

「………………」

 お互いに傷口を避けるような迂遠な会話。これでいったい、誰が得をするんだろうか。

「えっと……あの……?」

 それまで黙っていたタクミ君が困惑した様子で声を上げた。目の前で行われている会話の意味がわからない様子だ。もちろん、わかられても困るけど。

「ごめんね、タクミ君。そういうわけで今回、ぼくは力になれそうにないや。わざわざ時間をとらせてしまったみたいだけど、この件はなかったということに……」

 そこまで言って、微かに声が聞こえた。それは別に心霊現象云々というわけではなく、目の前からのものだった。すなわち実里の声ということになる。

「……なにかいった?」

 藪蛇だ。ぼくの中で警鐘が鳴っていた。あるいは虫の知らせというやつかもしれない。おそらく実里は碌なことを口走らないだろう、という虫の知らせ。だが、その時のぼくは迂闊にも実里に話を振ってしまった。

「アンタも……そろそろ進みなさいよ……」

 ピシッ、と。空気が緊張したことがわかった。それはもしかしたらぼくと実里の二人の間だけだったのかもしれない。ただ、少なからずぼくには室内の温度が下がったように感じられた。

「ええっと……」

 面倒なことになったな、とは口が裂けても言えない。まさか、今日こんなことになるとは。朝の星座占いをもう少し注視しておくべきだった。まったく、山羊座は何位だっただろうか。この様子だと高順位ということはなさそうだ。

 取り止めのない思考の中でぼくはチラリと実里の方を見た。ぼくを見つめる実里の瞳には怒りとも哀しみともつかない不思議な色が浮かんでいる。そんな顔をしないで欲しい。君には笑っていてほしいと、そう思ったからこそぼくは……。

「あのー……」

 横からの声にハッと我に帰る。ここにいるのはぼくと実里だけではないのだ。見ればタクミ君は非常に居心地悪そうにしていた。当たり前だ。

「……ごめん」

 小さく実里が謝罪の言葉を口にした。

「いや、ぼくも……なんかね」

 なんだろうね、と口籠もって苦笑する。別に笑いたいわけではない。ただ、空気を壊さないための空元気だ。

「まあ、とにかくぼくは協力はしないってことでよろしく頼むよ」

 ぼくの言葉に今度こそ実里は小さく頷いた。横にいたタクミ君も同様に頷いたのを見て、心底悪いことをした気持ちになった。タクミ君からすれば巻き込み事故もいいところだ。

 ぼくはカップを手に取り、中身を一気に飲み干して立ち上がった。砂糖を入れたはずなのに妙な苦味が口の中に広がり、一瞬顔を歪めた。

「これ、ぼくの分ね」

 財布から自身の分の代金をテーブルに置き、傍らに置いていたトートバッグを手に取り、最後に実里とタクミ君を一瞥して、ぼくはその場を後にした。

 ☆★☆

 喫茶店〈ダルマ〉を出てから数分後。先ほどのぼくと同じように店を後にする二人ーーもちろん実里とタクミ君だ、を遠目から確認する。

 どうやら、実里は駅の方に用事があるらしく店の前で二人は別れていた。好都合だ。そう思い、ぼくは一人で歩き出したタクミ君に声をかけた。

「やあ、さっきぶり」

「え?」

 驚きの表情を浮かべるタクミ君。まあ、当たり前だろう。先程が初対面だった先輩がなぜか自分を待ち伏せしていたらぼくだって狼狽える。

「少し話がしたいと思ってね。この後、時間いいかな」

「だ、大丈夫です」

 〈ダルマ〉にいた時から思っていたけど、タクミ君はきっと素直で良い奴なのだろう。でなければ、実里が恋愛相談なんかに乗るわけもないが。

「……歩こうか」

「はい……っす」

 駅前から大通りをまっすぐ進む。ここら辺は都会というにはビルが少なく、田舎というにはマンションが多すぎる。ぼくたちは少し進んだ先の十字路を右に曲がり、人通りの少ない道へと入って行った。

「さっきは驚かせてごめんね」

「いえ、全然大丈夫です」

 あくまで気にしてないという風にタクミ君は応える。

「まあ……見てたらわかると思うけどぼくと実里の間には微妙に、かつ面倒な問題があってね」

「はあ」

「どうして、そんなこと自分に話すんだって顔だね」

「え、いや、そんな」

 慌てたように手を振るタクミ君は存外わかりやすい性格をしている。

「お詫びと等価交換、それから取引、とでも言っておこうかな」

「えーと、すみません。ちょっとよく」

 わからなくて、と続けようとするタクミ君を制して話を続ける。

「まずはじめに。〈ダルマ〉で気まずいを思いをさせてしまったお詫びとして、アレがなんの話だったのかを教えるのが筋だと思った。それから、等価交換。君の淡い恋心を知っておきながら素気無く願いを断っただけじゃあまりに不公平だろうから、ぼくの弱みも教えておこうと思う。そして、最後に」

 そこまでを一息に言い切ってタクミ君の方に向き直る。いつになっても、ぼくは言い訳だけは一人前だ。こういうところを実里は直せと言っているのに。

「取引。君の願いにできる限り協力しようと思う。もちろん、〈ダルマ〉で聞いた話さ。だから、その代わりといってはなんだけどぼくの相談にも乗ってはくれないかな」

 ぼくの言葉にタクミ君は数巡だけ目を瞬かせた後に「えっと、わかりました。できる限り」と、なんとも頼もしい返事をしてくれた。

 歩いているうちに河川敷に辿り着く。対岸に掛かるそれなりに大きな高架橋が目立つ場所だ。ぼくはなんとなく、本当になんとなくその下に目をやった。

 日陰になった高架下は薄い闇に支配されていた。陽光すら届かない暗闇はどこか不気味に映った。

「最初に聞いておきたいんだけど、タクミ君はぼくと実里の関係をどれほど知っているのかな」

「えっと、幼馴染だってことは少しだけ……」

 自信なさげにタクミ君が答えた。おそらく、実里はぼくとの関係を少しだけ話しているようだ。

「それさえ知っておけば十分さ。そう、ぼくと実里は幼馴染なんだ。小学生の頃に知り合ってね。中学、高校と同じ学校に進学している」

 これは別に示し合わせたわけではない。少なくともぼくは。実里が狙っていたのだとしても不思議ではないが、そんな話をしたことはないから真相は不明といっていい。

 「さて」と一拍。ここからの話は正直、初対面の後輩にするものではない自覚がある。だが、ぼくもそろそろ一歩踏み出す時のようだったし、実際に〈ダルマ〉で「進め」と実里に言われてしまった。

「ぼくと実里にはもう一人、幼馴染がいたんだ」

 タクミ君は「へえ」とそんな曖昧な反応をしていた。まあ、気づかないならそれでいい。

「ただ、ぼくたちと同じ高校には通っていなくてね。今は離ればなれになってるんだ」

「なるほど。その人はどんな人なんですか?」

 社交辞令的な質問だ。けれど、今はそれがありがたい。

「運動が良くできてね。サッパリとした性格でぼくとは正反対みたいなやつだったよ。容姿にも優れていて、女子人気も高かったらしい」

「それは、すごい人ですね」

「ああ、すごい人だったんだ」

 本当に。ぼくでは届かない人間が身近にいた。それは幸であり、同時に不幸でもあった。優越感と劣等感は併存することをぼくは知っている。

「俗に、男女の友情は成立するか? という命題がある」

 いきなり話を変えたーーぼくとしては変えたつもりはないけれど、ぼくに一瞬だけ面食らったタクミ君だったが、すぐに「たしかにありますね」と応えた。

「君はどう思う」

「まあ、成立するんじゃないっすか。俺も何人か女子の友達いますし」

「ぼくも基本的にはそう思う」

 まあ、ぼくに友人と呼べるほど親しい女子はいないから真偽の確かめようはないけれど。一番親しいはずの実里は幼馴染だし。

「ただ、基本ではない場合もある。それが、ぼくと実里ともう一人の幼馴染、久坂蓮という男子の三人だった」

「……面倒なことになりそうっすね」

「率直な意見ありがとう。ぼくもそう思うよ」

 河川を見下ろせる堤防の上に立つ。歩みを止めたぼくを見て、タクミ君もまた歩みを止めた。陽光を浴びた川面が淡く煌めいている。

「そして、実際に面倒なことになった」

 よくある痴情のもつれだとは言いなくなかった。少なくとも、あの時のぼくらにとってあれは限りなく真剣で、ひどく困難で、苦々しくもあり、にも関わらずどこか甘美な、言葉になんてできない日常のワンシーンだった。

「この先のことは他言無用でお願いするよ」

「っす」

 タクミ君はどこまでも真面目だった。

 「えっと、三角関係とはまた違うんだけどね。色恋沙汰に関する話なんだ。えーと、誰のことから話そうか。……なんだか、少し気恥ずかしいな。タクミ君、よく君は知らない先輩に自分の恋のことなんて話せたね」

 もごもごと要領を得ない言葉を紡ぐ。頭の中を整理する時間が必要だったから。もう一度だけ高架下に目をやって、深呼吸をした。よし、心は決まった。

「ぼくは実里のことが好きだったんだ」

 驚くと思ったのにタクミ君は案外平気な顔をしていた。少し悔しいな。誰にもバレてないと思ったんだけど。

「そして、驚くことに実里もぼくをその辺の男子以上には好いていてくれていたんだ。こんなことをぼくが口にするとなんだか自意識過剰みたいに聞こえるけど事実さ」

「両思いならよかったじゃないすか」

「そうだね。事がそれだけで終わるならば、だけど」

 ですよね、と。なんとなく話の続きを理解してくれていそうなタクミ君は苦々しそうな顔で頷いた。

「さっき話した完璧超人みたいな幼馴染、久坂蓮は誰のことが好きだったと思う?」

「……まあ、流れ的に実里先輩、ですかね」

「正解」

 というか、この話に女子は実里一人しか出てこない。心底、残念なことだけど。

「先に断っておくとぼくも蓮も、そして実里も、誰一人として悪者なんかじゃなかった」

 全員が全員、お節介な世話焼きで、自分よりも他人のことを優先するようなやつだったからこそ、拗れてしまったものがある。

「何度も質問して悪いけど君から見て、実里の容姿はどれほどの評価に値する?」

 自分で言っておいて、随分な質問だとは思った。ただ、これは結構大切なことだ。

「美人ではありますよね。可愛い系よりも」

 いい答えだ。ここでタクミ君が「六〇点じゃないっすかね」なんて言い出したらぼくは話を打ち切っていた。

「客観的に見ても実里の容姿は優れている。そして、蓮は女子人気の高い、いわゆるイケメン男子だった。そして、なぜかその二人と共に行動している平々凡々なぼく」

「……ああ」

 思わずと言った様子でタクミ君は声を漏らした。それを失礼などとは思わなかった。その発想に至ることは話の流れからも、あるいは少し考えればわかることだったから。

「周りの声というものは当人たちにとってはそれなりに煩わしいものだよ」

 ぼくは努めて笑顔で言った。もうすぐ蝉の鳴く季節だ。きっと、昨年と同様に騒々しく鳴き出すのだろう。ぼくは昔から蝉があまり好きではなかった。

「美男美女が含まれた幼馴染グループの三人が色恋に悩んでいるというウワサが立った。学校という小さなコミュニティの中では、そうした話題が注目の的になることも全く不自然じゃない。果たして誰が誰を好きなのか。やっぱり外野は興味津々になる。そして、こんな話をするんだ」

ーー実里と蓮ってお似合いじゃない?ってね。

 ぼくは笑ったが、タクミ君は神妙な顔のままだった。

「これは何もおかしいことじゃない。なぜなら、ぼくもそう思ったんだから」

 いや、そう思ってしまったんだから。

「それで、先輩は実里先輩と……」

「ああ、付き合うなんてことはなかったね。ぼくが断ってしまったから。人には人の、身の丈にあった生活があるという話さ」

ーーごめん、やっぱりぼくじゃ無理なんだ。本当に……ごめん。

 あの時の言葉を今でも一言一句覚えている。そして、実里の怒ったような泣いたような顔も。

 実里の気持ちに背を向けて、蓮の気持ちを優先すると宣い、自分の気持ちすら押し殺した。とんでもない大嘘つきが誕生した遥か昔の話だ。

「それ以来、ぼくは恋愛ごとが微妙にトラウマになってしまってね」

 おそらく、実里がぼくに恋愛相談の話を持ちかけたのには意図がある。他人の恋愛に関わることでトラウマを克服し、再び……なんて。実里らしい荒療治じゃないだろうか。

「……その、蓮先輩って人と実里先輩は何もなかったんすか?」

 おずおずとタクミ君が疑問を口にした。聞いていいのか測りかねていたようだった。

「…………何もなかったんだよね。何も。ほんとに、なにしてんだか」

 苦虫を噛み潰したようにぼくは答える。これが誰も悪者がいなかったという所以。

 実里のことを考えて身を引いたぼく。
 周りの評価など気にせず心に従った実里。
 自分の恋心を殺して幼馴染を続けようとした蓮。

 ぼくらは互いにすれ違い、行き違った。誰か一人でも違う行動ができていれば。今更そんなこと言っても遅いのはわかっているが、少しだけ悔やんでしまう。

「……とまあ、そんなつまらない話さ」

「つまらないなんてことは……ないと思います」

 タクミ君はキッパリと言い切った。その言葉を聞いて、ぼくも彼に話してよかったと思えた。

ーー話していないことももちろん、あるんだけど。

「さて、ここからは取引の話だ」

 しんみりした雰囲気を吹き飛ばすよう、できる限りの明るい口調を意識した。

「君の相談を請け負う代わりに、ぼくにアドバイスが欲しい」

「アドバイスですか」

「ああ。ぼくはどうしたらいいだろう」

 なんて漠然とした質問だろうか。ぼくがタクミ君の立場なら、きっと何も言えないだろう。賢しいだけで中身のないぼくなんかじゃ。

「月並みなことしか言えないんすけど」

「それで構わないよ」

「…………自分の好きなようにすればいいんじゃないすかね」

「好きなように?」

 少し悩んだ後に口にされたタクミ君の答えはシンプルで、単純で、本当に月並みなものだった。

「先輩ってまだ実里先輩のこと好きなんすか?」

「………………どう、だろうね」

「少なくとも嫌いじゃないんすよね」

「それは、まあ、そうだね」

 要領を得ないぼくの回答にタクミ君は一度「うーん」と唸った後、話を続けた。

「俺、二年の七ヶ谷(しちがたに)先輩のことが好きなんすよ」

「ああ、彼女か」

 七ヶ谷友樹(ゆうき)。二年三組でぼくとは偶然にも一年の頃から連続して同じクラスだったはずだ。あまり面識はないけれど、ボーイッシュな雰囲気が特徴の子でテニス部なのだとか。

「中学にいた時、委員会が同じで。そん時、俺、あんまり親と上手くいってなかった時期でちょっと荒れてたんすけど、七ヶ谷先輩、よく相談に乗ってくれて」

 それはいい人だ。同じ委員会の人間だからといってみんながみんな仲がいいわけじゃない。まして、後輩の相談に乗ってくれるような先輩は稀だろう。

「んで、俺、この高校来たのも七ヶ谷先輩追ってのことなんすよね」

 気恥ずかしそうにタクミ君が視線を逸らした。

「いいね、青春だ」

「でも、入学してしばらく経ってから七ヶ谷先輩に好きな人がいるかもしれないって話を知りました」

「それはまた……災難だったね」

 タクミ君は悪戯の成功した子供みたいに笑っていた。反対にぼくは居心地の悪さを感じていた。それはそうだろう。〈ダルマ〉で聞いてしまったのだから。

「でも、俺諦める気ないんすよ」

 そう宣言するタクミ君の横顔は先ほどまでの彼とはまた違って見えた。一陣の風が吹いて、髪が揺れた。鬱蒼とした夏の香りが鼻腔をくすぐり、過ぎ去っていく。

「誰が誰を好きとか、俺はそんなもん気にしません。だって、当事者は俺なんで。恋愛って多分、元から自分本位なんすよ。誰かのために諦めるとか、失礼っすけど正直アホらしいなって」

 その言葉は過去のぼくを否定するものだった。けれど、不思議と不快感はない。それは多分、彼もまたぼくと同じ位置に立っているからだ。

「だから先輩も、もっと単純に考えればいいのにって、俺は思いました」

 タクミ君はそう結論付けた後、照れ臭さを隠すように「あと、まあ先輩が実里先輩とくっついてくれればライバル減るんで」と微笑を浮かべた。

「…………君はいい人だね」

「んなことないっす」

 しばらく二人黙って川面を眺めていた。河畔林が風にそよいでいる。タクミ君の言ったことはぼくに適したアドバイスだったろうか。ぼくは自分のことを考えて行動しても許されるだろうか。

ーーどうだろうか、蓮。

 心の中で小さく呟いた。答えはない。それ自体が答えであるようにも感じられた。「んなもん知るかよ、自分で考えろ」と蓮なら言うだろう。アイツはそういう奴だった。

「ありがとう、十分参考に」

 そこまで言ったところでポケットの中のスマホが音を立てて揺れた。聞き慣れたチャットアプリの通知音だった。

 取り出して確認してみると画面には見慣れた名前が表示されている。

「実里先輩っすか」

「勘がいいね」

 アプリを起動すると画面には「さっきはごめん」と簡素な謝罪の言葉。返信しようとしたところで再びチャットが来た。

『いま、どこにいる』

『河川敷』

『わかった』

 スマホをポケットにしまう。隣に立っていたタクミ君はまだ河川を眺めていた。

「多分、実里が来るね」

「実里先輩、律儀っすからね」

 どうやらタクミ君も実里の性格をちゃんと理解しているらしい。写真部の活動の賜物だろうか。

「じゃあ、俺帰りますよ」

「ああ。長々と付き合わせてごめんね」

「いえ、楽しかったっす」

 「それじゃあ、また」と控えめに言ってタクミ君はぼくを置いて歩き出した。ぼくは後ろから小さく手を振った。

 そういえば、彼は写真部だけど今度の部誌にはどんな写真を提出するのだろう。まさか、彼に限って提出しないなんてことはないだろうけど。

 それが気になったがわざわざ呼び止めるほどのことではないと思い、そのまま見送ることにした。

 さて、実里が来るまで何をしていようか。

 ☆★☆

 高架下、タイルのように舗装されたコンクリートの上に腰を下ろす。さっき見た通り、ちょうど日陰になっていて涼しげだ。

 手にしていたトートを開き、中から一冊の本を取り出した。カバーは外され、表紙は青一色に塗られている。題名は「チャンス 他四篇」で、著者は太宰治。文庫サイズのペーパーバックだ。

 暇つぶしのために始めた読書も今ではそれなりに板についている。特にぼくは太宰が嫌いではなかった。ぼくは彼ほどの破綻者ではないけれど、なんとなく彼の作品には惹かれるところがあった。

 時折、吹き付ける風を肌で感じながら表題の「チャンス」の一ページ目を丁寧に捲った。

 「チャンス」の書き出しはこうだった。

「人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだ。と、したり顔して教える苦労人が多いけれども、私は、そうでないと思う。私は別段、れいの唯物論的弁証法に媚こびるわけではないが、少くとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う」

 恋愛は意志だ、と太宰は断じる。どれほどのチャンスがあろうと、自ずから動かなければ恋は実らないのだと。果たしてこれは真実だろうか。

「自分の好きなようにすればいんじゃないっすかね」

 ふと、タクミ君の言葉を思い出す。彼はやっぱりすごい人だ。一体、人生何周すればぼくも彼のような覚悟を持てるだろうか。

 あの時のぼくは実里の為だとか蓮の為だとか何かと言い訳ばかりして、自分の立っている場所から進むことを恐れ、意志を捨て去って逃避を選んだ。

 結果的にそれは不幸への一本道だった。ぼくは現状の幸せを守ろうとして、ぼくだけではなく幼馴染としての幸せすら逃したのだ。

 またページを手繰る。以降は教科書に載っているような文体で「恋愛とは何か」や太宰自身の体験が記されている。まるで恋愛の指南書を読んでるみたいだ。

 電車での出来事。汽車での出来事。そして、弘前の宴会での出来事。いずれも、それが実体験なのか作り話なのかぼくには判断できない。ただ、一節。ぼくの心を打つものがあった。

「それではもう一つの、何のチャンスも無かったのに、十年間の恋をし続け得た経験とはどんなものであるかと読者にたずねられたならば、私は次のように答えるであろう。それは、片恋というものであって、そうして、片恋というものこそ常に恋の最高の姿である」

 思いがけず実里の顔が浮かんだ。いつだって溌剌で、朗らかで、優しく、それでいて傍若無人な、ぼくとは違って常に前に進んでいる彼女の顔が。

 ぼくはどれほどのあいだ、彼女を待たせたのだろう。そんなぼくを実里はどう思っていただろう。浮かび上がっては消えていく、水泡のような疑問をページを手繰ることで消し去った。

 片恋。片思い。それは最高の姿などではないとぼくは思う。叶わない恋に心を悩ませる時間は煌びやかな青春の様相を呈さない。

 苦しくて、辛くて、切ない時間を後から振り返って「あの時はよかったよね」とぼくも、実里も、おそらく蓮も言えないだろう。

 だからこそ、どこかで区切りをつけるべきなのだろう。そして、それが今だということも理解できた。いや、少し遅すぎたかな。

「まあ、頑張ってみようか」

 誰にともなく呟き、覚悟を決めるように深く息を吸い込もうとしたその時、頬の冷たさに思わず驚きの声を上げてしまった。振り返ると、そこに実里が立っていた。

「何を頑張るって?」

 どうやらぼくの頬に触れたのは買ったばかりのペットボトルのようだ。水滴が肌を伝い、落ちていく。さながら涙のように。

「あまり驚かさないでくれるかな」

「アンタのあんな声、久々に聞いた」

 実里は僕の傍らに腰掛ける。

「何読んでたの」

「太宰治」

「ああ……私にはわかんないや」

 会話はそこで途切れた。二人並んで穏やかな川面を見つめている。何から話すべきか。どうしたら、ぼくの気持ちが伝えられるだろうか。

 頭の中を思考がグルグルと巡っている。明瞭な答えが浮かばないまま、時間だけが経っていく。先に口を開いたのは実里だった。

「ここ、懐かしいね」

「……そうだね。懐かしいよ」

 この河川敷は子供の頃からぼくと実里と蓮のお気に入りの場所だった。河が近くて危ないから、親からはあまり近づくなと言われていたけれど、するなと言われたらやりたくなるのが子供というものだ。

 この高架下もまた、ぼくらの秘密基地だった。だから、ぼくは今日この場所を選んだ。

「実里」

 何をいうべきか。それはまだまとまっていなかったけれど、とりあえずと思い口を開く。しかし、その呼びかけは実里の言葉にかき消された。

「さっきは、ごめん」

「えっ」

「アンタがああいう話、嫌いなことぐらいわかってたはずなのに」

 実里はこちらに目を向けることなく話を続ける。ああいう話とは恋愛関連の話のことだろう。

「別にいいよ。むしろ、ぼくの方こそ悪かったね」

 実際、雰囲気を悪くしたのはぼくだったし、実里が謝る道理はないはずだ。けれど、それで納得するほど実里は物分かりのいい人間じゃない。

「ううん、ちょっと強引すぎた。アンタのこと、もっと考えるべきだった」

 申し訳なさそうに謝る実里を見て、心苦しくなる。それは〈ダルマ〉でも感じたことで、そうしてぼくが昔からずっと感じていたことでもある。

「……実里」

 改めて、口を開く。単に名前を呼ぶだけのはずのその行為が、今のぼくにはどうにも重労働だ。

「………………」

 実里は応えず、ただじっとこちらを見つめていた。何かを期待するような、あるいはぼくと同じような小さな恐怖の色が瞳に浮かんでいる。

「……実里はぼくを賢い人間だと評価することが多いけれど、どうもぼくは恋愛方面に関しては全く聡くないみたいなんだ。さっき、実里が来る前にタクミ君と話していたんだけど、改めて実感したよ」

 なんでタクミ君とぼくが話していたのか。そんな疑問もあるだろうに、実里はやはり口を閉ざしたまま視線だけで続きを促した。

「ぼくは随分と遠回りをしていたね。しかも、最悪なことにはその遠回りに何かとそれらしい理由を付けて、さもそれが正解であるかのように振る舞っていた。それだけならまだしも、その遠回りはぼくが望んだことですらないときた」

 話したいことが全くまとまらない。けれど、それは当たり前のことだ。言葉にできることならとっくに済ませている。今、この場においては話すことに意義がある。そう自分を納得させ、ツギハギだらけの言葉を紡ぐ。

「……きっと、全て時間が解決してくれると思っていたんだ。時間は特効薬だから。だけど、それじゃダメだということを学んだよ。これはぼくの問題で、ぼくがケリを付けるべきことなんだって」

 そこまで言って、ふと実里の方に目を向けた。実里はいつもの勝ち気で快活な笑顔ではなく、慈愛に満ちた微笑でもってぼくを見つめていた。恥ずかしいな。きっと、今のぼくは頼りなさげな顔をしていると思うから。

「改めて、実里に言いたいことがある。数年来の返事で、ぼくが今まで押し隠してきたものでもある。聞いて、くれるかな?」

「……いいよ、言ってみて」

 先を促されるが、言葉に詰まる。言いたいことはあるし、言う覚悟もしたはずだ。それでも、やはり喉につかえる。けれど、これを乗り越えるからこそ言葉は意志に変容する。薄っぺらい甘言ではなく、決意に変わる。

 一度、深く息を吸い込み心を落ち着かせる。周りの音がやけに大きく聞こえた。蝉の声、河のせせらぎ、開いたままだった手元のページが風にそよぐ音、そして実里の息遣い。それら全てが鮮明だ。

 再び実里を見据える。覚悟は決めた。口を開く。

「一度は自分勝手な理由で断った告白の返事を今させて欲しい……ぼくは君が好きだ。ずっと昔から。身勝手だと思ってくれて構わない。だけど、これがぼくの本心だ」

 顔も身体も熱く火照るのを感じる。心臓の鼓動が早い。今更になって過去の実里に尊敬の念が絶えない。こんなこと、人生で一回すれば十分だ。目線は下げず、実里を見つめ続ける。やがて、実里も口を開いた。

「……私も昔から、ずっと前からアンタが……ううん、あなたが好きでした」

 その言葉を聞いた瞬間、脱力したのがわかった。緊張から解き放たれたのだから当たり前だ。

「ほんと、遅いんだから。でも、結構……かっこよかった」

「それは……ありがたいね」

 実里の言葉につい顔が綻ぶ。見れば、実里の顔は真っ赤に染まっていた。きっと、ぼくの顔も同じようになっているだろう。

「緊張した?」

 頬杖をついた実里が悪戯がちな様子で訊いてくる。

「したね。それから、実里を尊敬もした」

「あの時は私も今とおんなじくらい緊張したなあ。まー、呆気なくフラれたんだけどさ」

 冗談混じりの実里の言葉に咄嗟に「いや、それは」と反論の言葉が口をついたがすぐに飲み込んだ。よく考えれば、ぼくはまだあの時のことを謝っていないからだ。

「……あの時はごめんね」

「別にいいよ。アンタの気持ちもわかってるから。そういう、優しいところも、その、まあ、好きなところだったし」

 ぼくらしからぬ殊勝な謝罪に実里は愛情でもって返してくれた。最後の方は声が小さくて若干聞き取りづらかったけれど、そんなところも愛おしいと思う。

「でも、なんか改めて、こ、恋人ってなると現実感がないっていうか、なんか不思議な気分かも」

「ぼくもだよ。そういう話は意識的に避けてきたからね」

「……恋人って、どんなことすると思う?」

 その不明を訊くようなそぶりの中には、確かな好奇心と期待感が入り混じっているように感じられた。すなわち「お前は恋人相手に何をしてくれるんだ」という問いだ。

「………………」

 数瞬、頭を悩ませてみる。恋人になったその日のうちにすべきこと。恋人同士の行いについて知識がないわけではない。キスやハグ、その他諸々。ただ、勇気がでない。結局、初歩の初歩に甘んじることにした。

「…………」

「……えー、これだけ?」

 実里が不満の声を漏らす。手を繋ぐだけではダメだったらしいが、今のぼくにはこれで精一杯だった。

「これ以上はいずれでお願いします」

 弱々しいぼくの言葉を実里は「仕方ないなあ」と笑って許してくれた。

 ☆★☆

 しばらくの時間を高架下で過ごした後、実里の「帰ろっか」という一言で今日は帰宅することになった。その間も手は繋がれたままだった。

「そういえばアンタ、部誌に出す写真は決まった?」

 先に立ち上がった実里が服をパタパタと払いながら、疑問を口にした。

「いや、まだだね」

 実里に追従して立ち上がりながら答える。実際、まだ何も考えていなかった。

「……ならさ、ちょっといいこと思いついたんだけど」

「どんなこと?」

 聞き返すや否や、実里は再び手を繋ぐとポケットからスマートフォン取り出した。

「ほんとはカメラの方がいいんだけど、今は持って来てないし、そもそも二人じゃ上手く撮れないと思うから」

 そう言いながら、内カメに設定したスマホをいわゆる自撮りのように構える。

「思いついたことってこれ?」

「うん」

「こんなの部誌の写真に使っていいものなの?」

 あまりにプライベートな内容すぎないだろうか、というぼくの問いに実里は首を振る。

「どうせ部員だけしか見ない内々のものだし、顔は映らないようにする。それに今月のテーマ覚えてる?」

「えーっと、確か、青春……ならぬ、青夏だったかな」

「そ。恋愛なんて正にアオナツでしょ。あと、記録に残して起きたいし…………報告のためにも」

 あぁ、なるほど。その一言で実里の意図が理解できた。それは確かに、なしじゃない。

「いいよ、撮ろうか」

「うん、じゃあもう少し手、前に出して」

 実里の言葉に従い、繋いだままの手を映りやすい位置に調整する。画角にあくせくする実里を見て、思わず笑みが溢れた。

 やっぱりまだ、写真を撮ることには慣れていなさそうだ。もともと、撮られる側の人間だったのだから当たり前のことか。

 蓮ならもっと手際よく撮るだろうか。きっと、そうだろう。あいつのカメラ趣味は筋金入りだったし。実里が写真部に入部すると聞いた時は驚いたが、蓮の影響なら納得だった。

「じゃあいくよ」

「いつでも」

 了承の声にカシャリというシャッター音が重なった。さらに一枚、二枚と画面に時間が切り取られていく。そのいずれもがぼくたちの親密さを、新たな関係を示す一つの証だった。

「いい感じじゃん」

 撮ったばかりの写真を眺め、実里が笑う。横から覗き込むと確かによく撮れていた。

「あとは部誌に掲載する時のタイトルだけど……」

 そこまで言って、実里はこちらへ視線を向けた。目線だけで「何にする?」と問うているようだった。

 さて、どうしたものかと頭を悩ませながらもう一度、写真に目を落とす。顔は映っていないものの、いわゆる恋人繋ぎで繋がれた手からは二人の睦まじさが感じられた。けれど、これは単なる男女交際によるものではない。

 遠回りして一度は諦めかけた関係を再び踏み出すことで得たかけがえのない結果であり、結晶であり、結実だ。故にタイトルは既に決まっている気がした。

「そうだね、なら」

 一度言葉を区切る。そして、深く息を吸い込み、続きを口にした。

「リスタート、にしよう」

 その答えに実里も納得した様子で笑みを浮かべていた。