最後の駅まで乗らずに、二つ手前の寂れた無人駅で下車した。
もちろん、冒険の行先はあの川辺だ。
改札を出ると、川に沿って補装されていない道を走る。
あのノートを書いたのは紛れもない僕だった。陽彩に出会って、斜陽を読んで、変わろうと藻掻いた結晶を僕はどうして忘れていたんだろう。
勉強に、親に、縛られて生きている世界では、どうしてもあの存在を押し殺さないと生きていけなかったのかもしれない。
けど、あれだけは。
あれだけは忘れちゃ駄目だろう。

「は……ぁ……っはっ」

肺がはち切れそうだった。肋骨から避けてしまいそうでこれ以上前には進めないと思った。
それでも僕は今、走っている。
ガソリンもアクセルも何も持っていないけれど、車道を走る車に追いつけそうなほどただ足を必死に押し出し、前へ前へと進んだ。
あの場所に行っても君がいる確証はない。
どちらかと言えばいない確率の方が高いだろう。
それなのに、こんなにも前に進みたいと思わせる原動力はなんだ。そこまで僕を突き上げる衝動はなんだ。
脚に送る酸素が足りないというのに、頭の中で溢れんばかりの問いがぐるぐると渦巻く。
僕はずっと自由になりたかったけれど、一歩踏み出すのが怖かったんだ。
移り変わる景色を横目にそう確信した。
いつか大人しく待っていれば誰かがこの地獄から引き上げてくれると勝手に妄信して、自由という概念に憧れを抱いてはそれを呪って。
自分一人では前に進むことは愚か、腰が抜けて後ろに進むこともできなかった。

『99パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。』

まるで引き際の名残惜しさを残したさざ波のような静かな声が再生される。
それは5年間忘れることができずに心の中のクッキー缶に南京錠を掛けて大切にとっておいた宝物だった。
どれだけ辛くてももう生きていけないと思っても、いつか自分から誰かを迎えに行くまでは死ねないと思わせてくれた言葉だった。
そのお陰で、僕はずっと貴方の横顔を忘れられなかった。
いつか自分が誰かを迎えに行くとき、それは貴方しかいないと思っていたからだ。
川縁の冷えた石畳に腰掛けて、長い昼間の後の一瞬しかない夕陽の影が落ちた貴方の横顔が、僕は堪らなく好きだった。

「うわああああああああああああああ」

思い切り叫ぶ。すれ違った人全員に異質な目を向けられたって平気だった。腹から声を出すのってこんなに気持ちいんだ。喉の奥が振動でびりびりと唸る。叫ぶことの楽しさを知ってしまった僕はもう一度喉に力を込めようと空気を思い切り吸い込んだ。
しかし後は腹筋で息を押し出すだけのところで、俺の口から零れた酸素は情けない声となった。

「……あぁ」

陽炎の向こう側。揺れた視界の先に、小さな背中が見える。色素の薄い髪の先が風に揺れて、見えそうで見えない横顔の頬は白かった。それだけでも僕の胸を高鳴らせるのに、決定的なものが一つあった。
あの日より角が潰れた本。きっと僕に渡してから買いなおして、何度も読み直したのだろう。朝も昼も夜も読んで、日に焼けた表紙の色は褪せている。歪んだタイトルの二文字目は「陽」に見えた。
こんな少女、一人しかいない。
浅い息の僕は自転車を乗り捨てると走り出す。縺れる足を必死に前に出して、息を乱す。
陽炎のヴェールを潜り抜けた先で見た景色を、僕は一生忘れないだろう。

「ひいろ……」

僕の声にびくっと肩を震わせた少女は恐る恐る振り返る。息が苦しいほど鼓動が全身を震わせる。緊張の一瞬とはまさにこのことだろう。斜め三十二度、揺れるまつ毛の下で煌めいた瞳の色は形容し難いほど美しい色で染まっていた。

「……とき?」

覚えてくれていた。
たったそれだけで泣きそうになるほど嬉しい。僕は痙攣する足をゆっくりと進め、彼女の隣に腰掛ける。

「久しぶりだね、びっくりしたよ」
「僕も。まさか覚えていてくれると思ってなかったから」
「うん、ちゃんと覚えていたよ」

五年間という時の流れはこれ程までに照れ臭い距離にさせてしまうのだろうか。いざ会えば話そうと思っていたことの数々が頭から吹き飛んでいき、残ったのは年頃の男女のじれったい空気だけだった。

「冒険したんだ、僕」
「冒険?」
「うん、一生に一度の冒険」

僕が不敵に笑うと、君は驚いたように瞳孔を揺らして、それから嬉しそうに綻んだ。
あの日、前に進めなかった少年は今、自分の足で自分だけの道を歩いてきたよ。
そう言えることが誇らしかった。

「……あれから陽彩は元気にしてた?」

これは僕がずっと気になっていたことだった。病気になっていないかな。辛いことがないかな。どうか幸せに暮らしていますように。僕が願い続けていたことの数々は今思い返せば相当気持ち悪いと思う。
けれど、僕をこんなにも気持ち悪い人間にさせたのは君なのだ。少しくらいは幸せになって責任を取ってもらわなければ困る。
彼女はうーんと考えた後、首を縦に振る。

「元気だった、かな。もちろん上手くいかないことも多いけどね」
「それは、絵画のこと?」

口にした瞬間ハッとした。頑張っている人間にその言葉はご法度だろう。気づいた途端、口腔内にレモンの皮を噛んだときのような苦みが広がる。
こんな不躾な質問に対しても律儀に答える君は言葉を選んだ後、自分自身で確かめるように声にする。しかしその瞳は僕を捉えることなく、向こう岸を映していた。

「うん。大学でも頑張ったけど、そうトントン拍子でいってたら皆苦労しないよね。その苦しみはきっと美術をしてる人なら誰でも分かると思う。私だって苦しみまるごと全部背負いこむ覚悟で大学に入ったし、絵を描いてる。けれど、やっぱりどうしても時々無性に逃げたしたくなる」

彼女から放たれる言葉は5年前には聞くことのできなかった弱さがあった。
しかし、それ以上に芯があった。
声から、瞳から、全身から伝わる芯の強さ、貫き通された意思の強さは過去の彼女よりずっとずっと強いものになって、彼女を守る武器となっている。
逸らされた瞳が震えながらももう一度、僕を捉えた。
君は僕が出会ってきた中で一番変な人間だ。
苦しいのに、逃げ出せば楽になれるのに、それを簡単にしようとはしない。きっとここに来るまで紆余曲折も沢山あったのだろう。一人じゃ怖くて、踏み出せないことも沢山沢山経験してきたはずだ。
それなのに、今こんなにも真っすぐな言葉を僕にぶつけられるのは、きっと他でもない彼女自身に誠実に生きたからなんだろう。
どれだけしんどくても絵を描きたいと思った自分と、向き合った証拠なのだろう。
僕の予想通り、彼女はその不思議な色の瞳を細めながら言った。

「でも、完璧じゃなくていいって信じてる」

その言葉を僕はどうやって受け止めればいいのだろう。一歩踏み出したばかりの僕にはまだ分からない。もしかしたら10年経っても。陽彩には追い付けないかもしれない。
僕は「うん」とだけ相槌を打つ。これが今の僕にできる精一杯だった。

「くさいことをいうけれど、人生は人が生きた足跡なんだから。完璧な人生が欲しければロボットにでもAIにでも頼めばいいんだ。それより私は、どれだけ寄り道しても立ち止まっても後ろ向きに歩いても、最後に自分の足跡を見たときにこれが私の生きた証だって胸を張れるように私はこれからも失敗し続けたい」
「……それは、本の言葉?」
「ううん、私の言葉」
「それは、すごいね」
「ありがと」

僕が素直に褒めると君は照れ臭そうに鼻頭を掻く。その仕草一つで僕はまた動悸が激しくなった。
光に透けたまつ毛も、浜辺に落ちてるガラスを敷き詰めた瞳も、細いうなじも全てがまるで絵画のように美しい。僕は今の君を忘れまいと網膜でシャッターを切る。顔が熱くて溶けてしまいそうだ。彼女の覗き込むような視線に目を逸らしてしまいたくて、それでも逸らせられなくて、僕は何度も瞬きをした。それでも、君が少しでも動けば僕は君の好きなところをまた一つ見つけてしまうと思うと我慢できずに、右手で君にばれないようにきゅっとシャツを握りこむ。

「どうしたの、とき」
「なんでも、ない」
「変なのー」

挙動不審な僕を見かねてか、君は首を傾げながら問いかける。僕はこれ以上目を合わせられないと思って流れの穏やかな川に視線を向けた。穏やかな時間だった。鱗雲が遠くの空に広がって淡いオレンジ色に染まっているのがよく見えた。視界に君を入れないようにしているのに時々映り込む君の口元はぱくぱくと動いていた。きっと君は言葉を選んでいる。
あの泣きじゃくるだけの少年がどうして一人でここまで来たのか、聞きたくて言葉にしてはそれを声に出さない。
それが人を傷つけることを嫌う君だからこその行為だと分かっている。
だから僕は待った。こんなにも真剣に考えてくれた人の言葉、どんなことがぶつかってこようと受け止めて消化しなければいけないと思うと緊張が走る。
鱗雲が黒い山に吸い込まれていった時、再び君は喉を震わせた。

「ときはどうだったの?私に会わなかった間。ここに来たってことは何か変化があった?」

逡巡の迷いの後、僕は頷いた。
瞼を閉じれば、過去の君が片手に持っていたボロボロの本が蘇る。何度も捲る親指で擦れ、褪せた印刷が脳に焼き付いているのは一瞬でそれを忘れてはいけないと本能が感じたからだろう。
言葉というものは、文字で構成された絵画だと思う。
響き、色、温度。目に入るだけでわくわくしたり、ゾクゾクしたり、こんなに人を楽しませることのできる図形なんてないんじゃないか。そう錯覚してしまうほど言葉というのは美しく危うい。
しかし同時に言葉というのは呪いにもなる。
目にしただけで何十年も引きずることもある。精神状態によってはもう立ち直れなくさせることもできる。
僕は、あの時見てしまったのだ。彼女の持つ本のとあるページに色のない一つのシミがあったことを。
水滴を落としたように滲む痕に当時の僕は言葉を呑んだ。あぁ、この人でも泣くことはあるんだ。こんなにキラキラしてるように見えて本当は僕と同じくらい陰で苦しんでいるんじゃないか。
考え出したら止まらなかった。
陽彩、君はこの5年間何を経験しましたか?
紙にあったシミの数は増えましたか?
言葉にしたくてもできないのは、今の彼女の深淵に踏み込むことは勇気がいるからだ。きっとその絵画は今の僕たちにはまだ早すぎる。
だから今は、僕の話を聞いてほしい。
五年前、君が僕の恐怖を吹き飛ばしたように
僕が今ここに来れたように
僕がいつか貴方が抱える苦しみに触れることができるように
僕が五年間の思いを言葉にするよ。
空気を吸った。肋骨から悲鳴が聞こえてきそうなほど吸った。吐き出された声は決して大きくなかったけれど、揺れることはなかった。

「なぜ生きていなければならないのか。
その問いに思い悩んで居るうちは、私たち、朝の光を見ることが、出来ません。
そうして、私たちを苦しめて居るのは、ただ、この問いひとつに尽きているようでございます。」
「……しゃよう」
「うん、僕はずっと考えてたよ。父さんに自由を奪われた日も、勉強ばかりでうんざりした日も、段々と感覚が麻痺していって何も感じなくなった日も。陽彩に『斜陽』を教えてもらってからこの言葉が頭から離れなかった」

言葉を紡ぎながら過去の自分に思いを馳せた。
鳥籠の中で生きて、鉄の檻の中だけが世界だと思い込んでいたあの時の自分がもし、
目を開けることすらしんどくて、何も考えたくなくて、逃げ出したいという願いがいつしか消えたいに変わっていたあの時の自分がもし、
陽彩と出会わなければ。

「こんな惨めな思いするなら生きる意味なんてないって何度も思った」

視界がゆっくりと滲んでいく。彼女の陶器のような肌が水面のように揺れて、僕は思わず笑ってしまった。こんなつもりじゃ、なかったのに。とめどなく溢れる涙に悪態を吐きながら、本当は涙が止まってほしくなかった。
ちゃんと泣けるようになった、それだけで嬉しいのだ。
僕は頬を伝うものを拭うことなく言葉をつづけた。

「けど決まってそんな考えを打ち消すのはあの日の陽彩だった」

眩しすぎたんだ、あまりにも。
世界を知らなかった僕にとって、夢を追いかける君は数千年隠されてきた宝箱を見つけたときのような高揚感をくれた。
君の真っすぐな言葉の裏に隠れたひねくれたところとか、輝かせる瞳の奥に落ちた影とか、全部が輝いてみえたのだ。
こんな生き方、僕は知らなかった。
こんな風に自分の幸せに忠実に生きてもいいんだと思えた。
世界のピースが君によって補完された途端、生きる意味なんて考える暇がなくなった。
その途端、僕はまだ僕の知らない世界に思いを馳せることに夢中になった。

「僕は生きる意味は未だによく分からない。きっとそれを語るにはまだ未熟だし、世界を知らなさすぎる。
けど、今はただ呼吸をすることすら楽しいんだ。
ただただ不条理で不平等で行き当たりばったりなこの世界が、堪らなく愛おしいんだ」

君は静かに僕の言葉を聞いていた。そしてそのまま動かなくなってしまった。
放り出されたペットボトルが結露している。どれだけの時間が経ったのだろう。無言を貫く君の言葉をじっと待つ。額に汗が滲んでふと顔を上げると夏なのにもう陽が傾き始めていた。青色のカバーの本がオレンジ色に染まりかけたとき、君は引き締めていた口角を緩めた。

「あーあ、また明日から頑張らなきゃなぁ」

待たせた割には随分と淡白な言葉だった。僕はその言葉に思わず吹き出すと、君は不服そうに頬を膨らませる。

「何よ、文句ある?」
「いやっ……ふふ、何か立派な感想を考えてるのかと思ったら出てきた言葉が決意表明だったから」
「えぇ⁈おかしい⁈」
「おかしくないけど……っ」
「世間知らずな坊ちゃんに馬鹿にされたくないんですけどー!」

本当にブレないなぁ。僕は昔と重なる彼女の姿に頰が緩む。馬鹿にされてると思ったのか顔を真っ赤にした陽彩はそんな僕を叩いた。

「馬鹿にしてるわけじゃないって!むしろ褒めてるまである」
「その態度のどこがよ!」
「全部全部!……ふふっ」
「ほらー!!笑うなー!!」

君が何かを言う度に笑いが止まらなくてのたうち回る。君は最初こそ僕の背中をぽかぽかと叩いていたが、抱腹絶倒する僕の姿がそんなにおかしかったのか終いには二人で大笑いして石畳に倒れこんだ。
ひんやりとした地面が頬に張り付く。瞼をもう一度開ければ、夕陽が溶け込んだ川と目尻に涙を滲ませる貴方がいた。
あぁ、息できないくらい僕、陽彩のことが好きだな。
ふと頭に浮かんだのはそんな月並みの言葉だった。胸が焼けこげる気持ちでいっぱいで、もうこれ以上体に空気を入れる隙間がないほどに愛おしい。五年前よりも煌めく川辺はきっと幻覚なんかじゃない。

「待っているだけじゃ駄目だと思った」

意識せずに零れ落ちた言葉は予想外のもので、言った自分も言われた彼女も思わず目を見開く。

『99パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。』

彼女が言った言葉がまた蘇る。僕は小説のこの言葉にずっと反抗したかったんだ。
待っているだけの自分は嫌だから。
ずっと親につけられた首輪と枷を理由に飛び込まないのは逃げだって分かっていたから。
気づいた瞬間、どこかでつっかかっていたものがすっと消えたような気がした。
寝そべって深いシワのついたシャツを更に握りこんだ。手汗と首筋に汗が滲む。僕は残り僅かなスペースがはち切れそうなほど空気を詰め込むと君の真っ白な手を引いた。

「また、迎えに行く。今度は水族館にでも行こう」
「えぇ~まさかデートのお誘いですか~?」
「そのつもりだけど」
「え、」

言葉を失う彼女。まだまだ初心な僕は目を合わせることができず、顔を逸らしたまま繋がれた手に力を込める。何も言わずに立ち上がり、そこでようやく振り向くことができた。

「帰ろう」
「え……っ、でもせっかく家から抜け出せたんじゃ」
「いいんだ」

有無を言わさない笑みを浮かべる僕に彼女は「そっか」とだけ言って立ち上がる。
家の問題はそんなに簡単に解決はしないだろう。何故ならこれはおとぎ話でもなければ、少女漫画でもない、現実だからだ。逆に都合よくいく方が不気味だろう。
僕はこれから家に帰って今日の件で沢山親とぶつかるはずだ。
さぁ、最初に出る言葉は言い訳か、はたまた正直な自分の思いか。
先のことを取り留めなく考えて、忘れた。
いいや今は。
今だけは未来への不安も現実への怒りも何もかも忘れてしまおう。
立ち上がる時に消えてしまった右手のぬくもりに寂しさを覚えつつ、影の落ちたコンクリートの上を二つの影が前進する。
ヘッドライトのない自転車。傾きかけた日はきっとすぐに沈んでしまうだろう。僕らは互いを見失わないように再び自然と小指を絡ませた。
四つ目の曲道の先、君の小指がいつの間にか無くなっていることに気づいた。きっとどこかで家の方向へ進んでいったのだろう。
解けてしまった小指は行き場を失ったように、彼女とつないでいたときのままの形で肩の動きに合わせて揺れていた。僕は一瞬、立ち止まったけれど五秒もしないうちにまた歩き出す。
挨拶もなしに消えていく少女は他からみれば自己中で淡白な人間に見えるだろう。
けれど、僕はそんな自由な貴方に何度も救われた。
自分に正直に生きることを教えてもらった。
僕は君の生き方が好きだ。誰がなんと言おうが、僕にとって君に生えた自由の翼はどれだけ時間が経とうが憧れなのだ。

「……この気持ちを伝えられるようになるのは一体いつになることやら」

夕陽が地平線に落ちきる寸前、遠くの道に見えた貴方の背中は茜色に染まっていた。
家に帰ったって、もう僕は僕の道を見つけてしまったのだ。
冒険は終わらない。
一生に一度の冒険は、この先一生続くのだから。