あれは中学生になって最初の全国模試、僕は疲労のあまり帰り道に迷子になっていた。
気づけば自分はどこにいるのかさえ分からなくて、スマホなんて持っていない僕はその場で途方に暮れた。傾きかける夕陽を横目に取り合えず分かる道まで歩こうと近くの川に沿って歩き始める。
ただの川沿いに変化が起こったのは一つ目の橋を通り過ぎた辺りだった。
人の背丈より大きなキャンバスを目の前に一人の少女が川辺で筆を振っていたのだ。
無我夢中で作品に向き合っている少女の歳はきっと僕とそう変わらない。
それなのに鬼気迫る雰囲気を持つ彼女は、キャンバス以外目に入っていないようで、長い髪が風に煽られて絵の具が絡まろうが気づかずにただ目の前の作品に没頭していた。

「すごい集中力だな」

彼女の描きあげる絵は遠めから見ても美しく、空に広がる夕焼けと微かに瞬く星を切り取ったようだった。
汗を拭う華奢な背中がふと振り返る。まさか凝視していたのが気づかれた?と警戒していると、少女の体は僕の方向ではなく近くに置いていたペットボトルの方に真っすぐ向かい、暑そうに水を喉に流し込んだ。
次に顔をあげたとき、僕は彼女の不思議な瞳に目を奪われていた。
そして今度は彼女もちゃんと僕を見ていた。
何秒か見つめ合っていたらしい。我に帰った時、彼女は不思議そうにこちらに接近してきた。

「どうした?迷子?」
「迷子……じゃない」
「じゃあどうしてそんなに困った顔してるの?」
「べ、別に……」

実は本当に迷子でした!とも、貴方に見とれてたからです!とも、到底言えない。僕があたふたしながら立ち去ろうとすると、急に強い風が吹いた。後ろにあるキャンバスが風に煽られて不安定に揺れる。

「っぶない!!」

咄嗟に石畳を蹴ってキャンバススタンドを支えた。それとほぼ同時に再び強い風が吹く。よかった、間に合って。ほっと息を吐いていると、青い顔をした少女が駆け寄ってきた。

「ひぇえええ!!あぶな……あ……ほんとに、まにあって、よかった」

肩で呼吸する彼女に僕は気をつけてくださいね、と微笑む。
視界を埋め尽くすキャンバスに愕然とした。間近で見ると、この絵ってこんなに大きかったんだ。使われている色の多さにも驚いた。たった一つの空を描くだけでこんなに沢山の色が使われているなんて知らなかった。
細かい筆遣い一つ一つがまるで本物の画家が描いたようにいきいきとしていて、僕は恍惚と見入っていた。

「……とにありがとう。君がいなかったら私泣き崩れてたよぉ~」
「へ?」
「だからありがとうって!」
「あぁ、いえ。どういたしまして」

いけない、またぼうっとしていて話を聞きそびれていたみたいだ。
ありがとう
貰ったたったの五文字を、受け止めて消化するのにこんなに時間がかかるとは思っていなかった。
ストレートな感謝の言葉を貰うことなんて初めてで気恥ずかしくなった僕は頬をぽりぽりと掻いた。

「その絵、綺麗だね。貴方が描いたの?」
「そうだよー!ふふん、これでも一応美大目指してるからね!」
「びだい?何それ」
「美術大学、知らない?」
「僕、大学はアメリカのしか分かんない。日本の大学は、きっと父さんが許してくれないから……」

頬に暗い影が落ちる。喉の奥が苦くて、語尾が掠れた。やっぱりどこにいたって僕の四肢には親の存在が絡みついているような気がする。新しいことを知るたびに『貴方の進むべき道はこっちじゃない』と囁かれて絡みついたそれが正しいレールに引き戻す。
いつまでも囚われている僕がいけないんだろうか、それとも親が間違っているのだろうか。
戸惑う僕に、君はきっと見て見ぬふりをしてくれたのだと思う。複雑な顔をしたり、苦笑いをしたり、百面相になってからまた初めの明るい笑顔に戻った。

「私ね、画家になりたいんだー!だから褒めてもらえて嬉しい!超絶ハッピーだよ」
「……貴方ならなれると思う」
「わーお、大胆」

きゃーっとじたばたしながら大袈裟に喜ぶ君に僕はどう反応していいのか分からなかった。自分が関わってきた人と君はあまりにも違いすぎて、口を開く度にまるで未知の生命体に会ったかのような衝撃が襲う。
僕が一歩後ずさりすると、彼女は三歩距離を詰める。
彼女が歩く度に油絵具のツンとした香りと、バニラのような甘い香りが混ざって鼻腔を刺激した。
困り顔の情けない少年を反射する大きな瞳。よく観察すると、ブレのないアイライナーが綺麗な目元を更に彩っていた。

「あと貴方じゃ寂しいから、陽彩(ひいろ)、ね。太陽の陽に色彩の彩で陽彩」
「ここまで名前と人間性が一致してる人、初めて見た」
「あははははっ、うれしー!!誉め言葉として受け取るね。それで君の名前は?」
「……とき」

ぶっきらぼうに答えても、嬉しそうに何度も僕の名前を口にする彼女が少し気味悪い。
圧倒的陽の気に僕が圧倒されていると、急に陽彩は真剣な表情で問いかける。

「とき、ね。そいで、ときはどうしてここで困ってたの?」
「……家、勝手に出て来ちゃったから」

今更迷子になったと言うのは恥ずかしいので、適当な嘘をついた。
え、という声が目の前から漏れる。見ると彼女は若干引いたように僕を見つめていた。

「え、なーに?そんなこと気にしてるの?」

逡巡の迷いの後、僕は首を縦に振る。
少女は僕の至極真剣な眼差しにふっと顔の筋肉を弛緩させる。

「いやいや、どんなお嬢様、お坊ちゃまよ。とき、中学生か高校生でしょ?だったらもう多少の自由はいいんじゃない」
「それだと駄目なんだ。僕は親の支配下だから」
「……家族関係、複雑なの?」
「……いいや、単純だよ。ほんとうに」

嘘じゃない。僕は社長の息子で両親の操り人形、結局のところたったそれだけなのだ。
僕には生まれた瞬間から人が持つ当たり前の自由なんてなくて、ただ両親の人生の幸せのために育て上げられ生かされる駒にしかすぎない。チェスの駒が勝手に動かないように、将棋の香車が気づけば金将になってるなんてことないように、僕は僕の意思を持つことを許されていない。
マスメディアを徹底的に遮断しているこの環境下で自分の存在が異常だというのは、12年間気づくことができなかった。
それなのに何故僕は今こうして操り人形だと自負しているのかというと、幼稚舎、小学校、中学校と交友関係が広がるにつれて僕の知っている『当たり前』は他人の『当たり前』とは遠くかけ離れたものだと知ってしまったからだ。

『ときくん、今日も遊びに行けないの?』

『えー、また勉強?』

『がり勉すぎて面白くないー、あたしちょっと無理かも』

『あんな奴、親が金持ちだからつるんでるだけで本当はマジ関わりたくないんだけど』

浴びせられる言葉の数々はたちまち僕の今までの人生を否定した。

「僕はもう戻らなきゃ」

石畳から重い腰を持ち上げてひらひらと手を振る。そうだ、こんな世間話してる暇はない。早く戻らないと大目玉が……。と、突然シャツの袖が引っ張られた。
視線を下に向けると、彼女は不思議そうに問いかける。

「それは、お父さんが悲しむから?」
「そうだよ」
「ふんっ、アホらしい理由~」

初めて嘲笑する陽彩を見て僕の頭は真っ白になった。
信じていたのに、君なら僕を嗤わないって思っていたのに。
結局奴らと同じなのか。
君まで僕を否定するのか。
絶望がゆっくりと侵食する中、しっとりした声音が詩的な言葉をなぞる。

「99パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか」
「……何、それ」
「斜陽。知らない?太宰治の。あ、純文学は読まない派?」

僕は首を横に振った。英才教育の影響と言っていいのかは分からないが、勉強になる本は沢山買い与えられていた側の人間だったのでその本の名は何度も聞いたことがある。

『斜陽』

太宰治作の名作であり、没落貴族となった主人公一家の生きざまを描いた作品だということだけは知っていた。
しかし、僕は正直本がそこまで好きではない。
だからそれこそタイトルだけは知っているが、読んだことのない純文学の方が圧倒的に多かった。
僕は足元の小石を蹴りながら、不機嫌なのを強調して答える。

「けど、本なんてくだらないよ。知らない誰かの思想まみれの文章を読んでさぁ、気取ったところで物語の主人公には誰もなれやしないのに」
「本当にそう思う?本なんてくだらないって」

遠い記憶の君が穏やかな笑みを浮かべる。自分の大切なものをぞんざいに扱われてもなお、彼女の顔には怒りの感情一つもなかった。
淡い色の瞳が、まるで川底の砂利を掬ってふるいにかけるように、僕の奥を震わせ本質を見抜こうとしている。
やがて、静かな声で彼女は言った。

「私、最初はときと同じで本なんてくだらないって思ってたよ。けど、斜陽に出会って『待ってるだけじゃ駄目だ』って気づいて……それで美大に進むことを決めたの」

そんな背景が……、僕が呆然と話を聞いていると、突然手に硬いものが当たる。彼女は無理やり僕にハードカバーの本を持たせると、優しく背中を押した。

「私が今こうやって自分自身の道を見つけて歩めているように、君は君だけの生き方を本の世界から探しに行くんだ」

僕は僕だけの生き方を探す。
シンプルな空色の表紙には、銀で本のタイトルが箔押しされていた。
数分前は好きではなかったそのタイトルは、今では応援の言葉に見えて思わず笑みが零れた。

「待っているだけじゃきっと人生つまらないよ。何か奇跡が起こることをただじっと願うより、本当に欲しいものを藻掻いて苦しんで必然にする方が、あぁ生きてる~って感じしない?」

ふふっと鈴を転がしたような可愛らしい笑い声が聞こえる。
愛おしそうにキャンバスを撫でる彼女の指先にはちゃんと血が通っていて、光に透けた血管から生命力が垣間見えた。
彼女は、僕とは違う。

「開拓者精神で行こう。何事も冒険だよ、とき」

早く、追いつきたい。君と肩を並べられるように、生きたい。
冷え切った心の底に光が灯された。優しい熱はじんわりと広がり、やがて爪の先まで生きたいという欲で満たされた。
浅くなる呼吸をよそに顔をあげると、「ねっ」と笑いかける少女と視線がぶつかる。
僕はきっとこの瞬間、数分前まで名前も知らなかった貴方のことを好きになってしまったのだ。