一生に一度の冒険がしたい

ふとそう思ったのは生ぬるい夏の夜明け前だった。八月初旬の日の出というものは早いもので、数学のワークを解いていたときはまだ淡く星が光っていたのに数十分経った今、部屋のガラス越しに見えるのは薄紫色に染まった雲だ。手元には古びたリングノート。人差し指にこびりついた埃はかび臭かった。
受験生だから冒険なんてしている場合じゃない。そんなこと分かっている、けれど溢れ出す衝動を抑えきれずに今すぐに家を飛び出そうと体が動くのは他でもない、このリングノートのせいだろう。

時は一時間前に遡る。

俺は日が回っても数学の勉強に明け暮れていた。この課題を進めなくては明日の塾で怒られてしまう。夏休みだからといって一日休める日なんてなかった。朝ろくに休めてない体をベットから引きはがして、朦朧とする意識の中歯ブラシを口に突っ込んで、自転車を漕いで15分掛けて塾に向かう。塾に着けば10時間は外に出ない。これは親が勝手に決めたノルマだが、今ではもう体に染みついてしまって何とも感じなくなった。

「あぁ……ぐ、眠い……でも、やらなきゃ」

カフェインでも消しきれない眠気で目の前の文字が歪む。脳が数式を認識せず、ただの図に見える。
それでも僕はペンを動かした。
失敗は許されない、常に成功を掴み続けなさい。
それはこの家に生まれたからには耳にタコができるほど聞かされてきた言葉だった。というのも我が家「貴根家」は父親一代で今や全国に名を馳せた社長なのである。
生まれて数か月で言葉を喋り始めた父親はそのまま当たり前のように日本で一番頭の良い小学校に行き、中学高校も首席で卒業。大学は海外の某有名大学に進学したらしい。そのとんでもない父親の子供の俺は優秀な遺伝子を引き継ぎ当然の如く文武両道、才色兼備……になるはずだった。

「僕は……なんでこんなにも出来が悪いんだか」

ぐしゃぐしゃに丸められた模試の結果が脳裏でちらつく。
全国模試、偏差値50。手抜きは一切していない。
それだというのに、日本にいる高校生の真ん中なんだ。
人一倍頑張ったところで僕は結局人並以上にはなれないんだ。
受け止めきれない現実がそこにはあった。

「あんな結果……引き裂いてやればいいんだ」

おもむろに椅子から立ち上がり、クローゼットを漁る。小学生からファイリングされた模試の結果はハリー・ポッターにも負けないほど分厚い。暗所で何も見えない中、その束を手探りで探す。しばらくゴソゴソと手を動かしていると不意に硬いものが手に触れた。

「ん、これか?」

重たいそれを手繰り寄せる。蛍光灯の下でようやく正体を露わにしたものは、分厚いファイルではなかった。

「宝箱……だ」

油臭い匂いが鼻を通り抜けていく。
セロテープで空き缶に雑に張り付けてある粗い手触りの紙と、クレヨンの潰れた下手くそな文字。
そこには「ときのたからばこ」とだけ記されていた。
目に文字が飛び込んできた瞬間、幼い頃の記憶が急速に取り戻される。
幼稚園年中くらいだっただろう。小さい子特有の遊びで、泥団子作りやおままごと遊びが流行るなんてことがあるが、僕たちの幼稚園では宝箱作りが流行していた。各々が好きなシールや石ころ、時にはダンゴムシなんかをぎゅうぎゅうに詰め込んで互いに自慢し合う。
宝箱と言っても精々四方7センチ程度の小さな空き缶だった。
けれど、当時の僕らにとってそれは希望そのものだった。

「僕の予想が正しければこの中にはきっと……」

缶の上部分を優しく揺らす。意外にも簡単に開いてしまった宝箱の中には、小さなクマのソフビ、どこかで拾った艶々の石、ラムネから必死になって取り出したビー玉。ありきたりで、くだらないものが所狭しと埋め尽くされていた。

「懐かしいなぁ」

一つ一つ宝箱から取り出し、手にするたびに僕は懐古した。
きっとあの頃の僕にとっては何一つくだらないものはなくて、今箱の中にあるものが僕の世界全部だったんだろう。
けれど、年を重ねるにつれて、大人になるにつれて、宝物だったものが一つ、また一つと、僕の世界から排除されていってしまった。
じゃあ、今の自分には一体何が残されているんだ。
自問自答しても答えが出ないのは、もう空っぽなんだって自覚しているからだろう。

「あ、これ……っ」

缶の底に薄い冊子を見つける。ぺらぺらとページを捲ると、ふと缶のラベルよりは大人びた文字で「ときのやりたいことリスト」と書かれているページが目に留まった。

「ときのやりたいことリスト。その1、一日中フカフカのベッドで寝てみたい。その2、ライオンに餌やりをしてみたい……ってなんだこれ?僕こんなの書いたっけ?」

自分でも身に覚えのない文章が書かれた見開き一ページのリングノートには、過去の僕の「したいこと」がぎっしりと埋め尽くされていた。今の僕なら頑張れば叶いそうなものから、絶対に叶わなさそうなものまで、振れ幅は大きいもののどれも今の僕には眩しかった。
最後まで目を通したあと、もう一ページ捲ると一番上の行だけ使われている。
僕は無意識のうちにその一文を声にして読んでいた。

「一生に一度の冒険がしたい」

なんて、馬鹿らしい願いなのだろう。
中二病くさいにも程がある。一生に一度の冒険?そんなもの、受験生の僕にできるはずがない。
第一、僕はいい子でいなくちゃいけないんだ。父さんの顔に泥を塗るような冒険だなんて、許されるはずがない。
それなのに、なんで僕は靴下を履いてしまったのだろう。
早まる心臓を静めようと深呼吸をするたびに、脊髄が沸騰したように熱くなる。目に飛び込んできた時計の針は午前4時16分。僕はショルダーバッグ一つで外へと飛び出した。