「──117円のお釣りです。ありがとうございました」
「ありがとうございます」
営業スマイルで小銭とレシートを渡してきた店員に精一杯の作り笑いで会釈し、一目散にスーパーを後にした。蒸し暑い風を浴びながら駐輪場へ向かう。
夏休み5日目の、午後6時過ぎ。
普段ならこの時間は冷房の効いたリビングでのんびりと夕食を食べているが、母から無茶振りされたせいで眉間にシワが寄る。
自転車のロックを外していると、雲間から太陽が出てきた。容赦ない日射しにより、むき出しになった両腕がじんわりと熱を持つ。
小難しい単語が並ぶ英文を和訳して、アルファベットだらけの数式から答えを導き出して。解放感と達成感で満たされていたその時、『アイス買うの忘れたから買ってきて』と、まるで塾が終わるタイミングを待っていたかのように電話がかかってきた。
疲れてるからと断ることもできたのだが、『お釣りはあげる』『自分用に1つ買っていい』と言われたため、二つ返事で了承。行きつけのスーパーに来たというわけだ。
自転車を動かし、サドルに跨がった。駐輪場を出て帰路に就く。
お金とアイスにつられて引き受けたけど……これ、全然労力に見合ってないよな。お釣りとアイス、合わせて200円にも満たない。こんなことならお気に入りの氷菓子じゃなくて、少々値が張るアイスクリームを買えばよかった。
西日に顔をしかめつつペダルを漕ぐ。すると突如めまいが襲った。瞬時にブレーキをかけるも、頭にガンガンと痛みが走り、険しい顔のまま自転車を下りる。
あぁくそっ、なんでこういう時に。一刻も早く帰って涼しい部屋でアイスを味わいたいというのに。
おもむろに顔を上げると、50メートルほど先の橋の下に日陰を見つけた。
寄り道するとアイスが溶けるのは目に見えている。だがしかし、この状態での運転は非常に危ない。
自転車を杖代わりにして押し歩き、アスファルトの上から芝生に移動した。自転車を乱雑に立てかけて日陰に飛び込み、寝転んで深呼吸を繰り返す。
蒸し暑さは変わりない。けど、日射しがないだけでも充分だ。
しばらくすると頭痛が収まってきたので、ペットボトルの水で喉を潤した。時間を確認しようとバッグの中のスマホに手を伸ばす。
「えっ……嘘だろ⁉」
指先に触れた感触に慌てて中身を出すと、参考書とペンケースが濡れていた。さらにバッグの底も。
ペットボトルの蓋が閉まりきってなかったのか? と思いきや、アイスに水滴が付いているのを見て、ガクッと肩を落とした。
どうしてそのまま突っ込んだんだ。急いでたからって袋に入れるくらい1分もかからないじゃないか。
はぁ……と後悔混じりの溜め息をつき、浸水していないかを確認していた、その時。
「光広くん……⁉」
参考書のページをめくる手を止めて、声がしたほうに目を向けた。
土手の頂上に白いシャツを着た女の人が1人。一瞬誰だと眉をひそめたが、「おーい!」とぴょんぴょん跳ねて手を振る姿に目を見張った。
「久しぶり〜! 何してるの〜?」
駆け下りて隣にやってきた。
「えっ、勉強? こんな暑い中? 偉いね〜」
「違いますよ。少し休憩してただけです」
ほんのり甘い香りが鼻腔を掠め、胸が高鳴るのを感じた。ぶっきらぼうに答えながら参考書を閉じてバッグの中にしまう。
「真夏先輩こそ、何してたんですか? こんな暑い日に」
「バイトとウィンドウショッピング。光広くんは、塾帰り?」
「はい。今日夏期講習だったので」
「そっかそっか。今年受験生だもんね」
「お疲れさま〜」と満面の笑顔で頭を撫でてきた。わしゃわしゃと撫でるあたりが子ども扱いされているみたいで、なんとも腹立たしい。
「あ、そうだ。来週の金曜、お姉ちゃん借りるね」
「また女子会ですか?」
「うんっ。光広くんは名探偵だねぇ〜」
「いや、探偵もなにも、毎月やってたら予想つきますよ。カフェでしょ、駅チカの」
「いやん、なんで知ってるのっ」
開催場所を付け足して答えたら、「光広くんのえっち」と今度は変態扱いされた。
日向 真夏。姉の友人で、中高時代の先輩。
年上の知り合いの中でも1番付き合いが長いが、私服姿で会ったのは1年ぶりだったため、飛び跳ねるまでピンとこなかった。
「さては、お姉ちゃんのスマホ盗み見したな?」
「そんな悪趣味持ってません。毎回報告してくるからです」
清楚で可憐な先輩と、派手で気が強いギャルの姉。一見噛み合わなさそうな組み合わせだが、この通り、中身はコミュ力高めの陽キャラ。中高時代は毎週のように放課後デートしており、帰宅すると家に遊びに来ていたこともしばしば。
大学生になってからは落ち着いたものの、代わりに、今日はどこどこに行ったと自慢げに報告してくるようになった。とびきり可愛い写真付きで。
先月紫陽花とのツーショットを見せられた時は、思わず『俺も誘えよ』と年甲斐もなく嫉妬したっけ。
「良かったら光広くんも来る?」
「いえ。塾があるので」
参加したい気持ちは山々だが、あいにくその日も夏期講習があったため断った。
まぁ、仮に空いてたとしても、行ったところで長々と愚痴を聞かされて荷物持ちにされるだけだろうし。パシリ役になるくらいなら、多少だる絡みされても先輩と2人のほうがマシだ。
「ありゃ残念。また今度誘うね」
「……」
ムッと口を一文字に結び、ジト目で返す。
「え、どうしたの、怖い顔して」
「……背中で汗が流れたので、気持ち悪いなと」
あなたのせいですよ。とは口が裂けても言えず、汗に罪をかぶせて誤魔化す。
先輩とはスマホを持ち始めた中2の頃からやり取りしている。が、彼女の名前が表示された着信画面や通知はここ数年見ていない。
声をかけてくれるのは非常にありがたいけど……恐らく次回も姉を介して誘ってくるのだろう。
「先輩は暑くないんですか? それ長袖ですよね?」
「暑いに決まってるじゃん。本当は半袖着たいけど、バイト先冷房効いてるからさ。あと日焼けするし」
シャツをパタパタさせる真夏先輩。再び甘い香りが鼻腔に届いて心臓が大きく音を立てる。
会うたびにだる絡みしては不意打ちで触れてくる時点で、苦手ではないはず。なのになんで連絡くれないんだよ。
と、感情任せにぶち撒けると困らせてしまうので、厳しい家庭なんだなと勝手に理由を作って納得させている。前に30分くらい電話した時、親に怒られたと言っていたから。
「それなら上着を羽織ればいいじゃないですか」
「やだよぉ。そっちのほうが暑いし、洗濯物増えるじゃん」
「じゃあ日焼け止めを塗れば」
「ええー、めんどいなぁ。塗る暇があるならその分寝てたい」
そうだった、この人は自他共に認める面倒くさがり屋だった。
「ならもう少し短いの着たらどうです?」
「うーん……でもなぁ……」
今度は苦笑いを浮かべて腕を擦り始めた。どうやら最近太ったらしくダイエット中とのこと。
その片手ですっぽり掴めそうな手首を見る限り、昔とさほど変わってないように思えるが……下手に突っ込むと長話が始まるのでスルーする。
「別にノースリーブ着ろとは言ってないですよ。七分袖とか五分袖の服は持ってないんですか?」
「あるにはあるけど、仕事用にはちょっと派手だから……」
すると、どこからかブーッブーッと振動音が聞こえてきた。
「あ、私だ。ちょっと出てくるね」
「はい、もしもし」と電話に出ながら立ち上がり水辺に向かった彼女。通話している間に自分も時間を確認する。
「今? 外。……ううん、1人だよ」
スマホの電源ボタンを押した直後、目を見開いて顔を上げる。
「バイト帰り。今日早番だったから。……本当だって。今、日陰で休憩してるの」
視線に気づいた彼女が唇に人差し指を当てた。口にチャックをし、コクコクと頷く。
存在を隠すということは、相当噂好きか、嫉妬深いか。後ろを向いてしまったから表情は見えないけど、口調からして同年代っぽい。
「はいはいじゃあね」
気になってソワソワしていたら、通話が終了した。
「ごめん、私そろそろ行くね」
「あっ、じゃあ僕も」
急いで荷物をまとめて立ち上がった。熱を帯びた自転車のハンドルグリップを握って彼女の後を追う。
「あ、あの」
「ん?」
「来月は、お盆の後なら空いてます。ので……空いてる日あったら、教えてください」
土手を登りきったところで途切れ途切れに言葉を紡いだ。生温い風が、太陽に照らされたココアブラウンの髪をふわりと揺らし、本日3回目の胸の高鳴りが起こる。
「わかった。シフト確認したら電話するね」
いたずらっ子みたいな笑顔で手を振り、小走りで去っていった。徐々に小さくなっていく後ろ姿を眺めながら喜びを噛みしめる。
帰宅すると、案の定アイスは溶けており、個装の氷菓子は四分の一ほど液体化していた。
「ありがとうございます」
営業スマイルで小銭とレシートを渡してきた店員に精一杯の作り笑いで会釈し、一目散にスーパーを後にした。蒸し暑い風を浴びながら駐輪場へ向かう。
夏休み5日目の、午後6時過ぎ。
普段ならこの時間は冷房の効いたリビングでのんびりと夕食を食べているが、母から無茶振りされたせいで眉間にシワが寄る。
自転車のロックを外していると、雲間から太陽が出てきた。容赦ない日射しにより、むき出しになった両腕がじんわりと熱を持つ。
小難しい単語が並ぶ英文を和訳して、アルファベットだらけの数式から答えを導き出して。解放感と達成感で満たされていたその時、『アイス買うの忘れたから買ってきて』と、まるで塾が終わるタイミングを待っていたかのように電話がかかってきた。
疲れてるからと断ることもできたのだが、『お釣りはあげる』『自分用に1つ買っていい』と言われたため、二つ返事で了承。行きつけのスーパーに来たというわけだ。
自転車を動かし、サドルに跨がった。駐輪場を出て帰路に就く。
お金とアイスにつられて引き受けたけど……これ、全然労力に見合ってないよな。お釣りとアイス、合わせて200円にも満たない。こんなことならお気に入りの氷菓子じゃなくて、少々値が張るアイスクリームを買えばよかった。
西日に顔をしかめつつペダルを漕ぐ。すると突如めまいが襲った。瞬時にブレーキをかけるも、頭にガンガンと痛みが走り、険しい顔のまま自転車を下りる。
あぁくそっ、なんでこういう時に。一刻も早く帰って涼しい部屋でアイスを味わいたいというのに。
おもむろに顔を上げると、50メートルほど先の橋の下に日陰を見つけた。
寄り道するとアイスが溶けるのは目に見えている。だがしかし、この状態での運転は非常に危ない。
自転車を杖代わりにして押し歩き、アスファルトの上から芝生に移動した。自転車を乱雑に立てかけて日陰に飛び込み、寝転んで深呼吸を繰り返す。
蒸し暑さは変わりない。けど、日射しがないだけでも充分だ。
しばらくすると頭痛が収まってきたので、ペットボトルの水で喉を潤した。時間を確認しようとバッグの中のスマホに手を伸ばす。
「えっ……嘘だろ⁉」
指先に触れた感触に慌てて中身を出すと、参考書とペンケースが濡れていた。さらにバッグの底も。
ペットボトルの蓋が閉まりきってなかったのか? と思いきや、アイスに水滴が付いているのを見て、ガクッと肩を落とした。
どうしてそのまま突っ込んだんだ。急いでたからって袋に入れるくらい1分もかからないじゃないか。
はぁ……と後悔混じりの溜め息をつき、浸水していないかを確認していた、その時。
「光広くん……⁉」
参考書のページをめくる手を止めて、声がしたほうに目を向けた。
土手の頂上に白いシャツを着た女の人が1人。一瞬誰だと眉をひそめたが、「おーい!」とぴょんぴょん跳ねて手を振る姿に目を見張った。
「久しぶり〜! 何してるの〜?」
駆け下りて隣にやってきた。
「えっ、勉強? こんな暑い中? 偉いね〜」
「違いますよ。少し休憩してただけです」
ほんのり甘い香りが鼻腔を掠め、胸が高鳴るのを感じた。ぶっきらぼうに答えながら参考書を閉じてバッグの中にしまう。
「真夏先輩こそ、何してたんですか? こんな暑い日に」
「バイトとウィンドウショッピング。光広くんは、塾帰り?」
「はい。今日夏期講習だったので」
「そっかそっか。今年受験生だもんね」
「お疲れさま〜」と満面の笑顔で頭を撫でてきた。わしゃわしゃと撫でるあたりが子ども扱いされているみたいで、なんとも腹立たしい。
「あ、そうだ。来週の金曜、お姉ちゃん借りるね」
「また女子会ですか?」
「うんっ。光広くんは名探偵だねぇ〜」
「いや、探偵もなにも、毎月やってたら予想つきますよ。カフェでしょ、駅チカの」
「いやん、なんで知ってるのっ」
開催場所を付け足して答えたら、「光広くんのえっち」と今度は変態扱いされた。
日向 真夏。姉の友人で、中高時代の先輩。
年上の知り合いの中でも1番付き合いが長いが、私服姿で会ったのは1年ぶりだったため、飛び跳ねるまでピンとこなかった。
「さては、お姉ちゃんのスマホ盗み見したな?」
「そんな悪趣味持ってません。毎回報告してくるからです」
清楚で可憐な先輩と、派手で気が強いギャルの姉。一見噛み合わなさそうな組み合わせだが、この通り、中身はコミュ力高めの陽キャラ。中高時代は毎週のように放課後デートしており、帰宅すると家に遊びに来ていたこともしばしば。
大学生になってからは落ち着いたものの、代わりに、今日はどこどこに行ったと自慢げに報告してくるようになった。とびきり可愛い写真付きで。
先月紫陽花とのツーショットを見せられた時は、思わず『俺も誘えよ』と年甲斐もなく嫉妬したっけ。
「良かったら光広くんも来る?」
「いえ。塾があるので」
参加したい気持ちは山々だが、あいにくその日も夏期講習があったため断った。
まぁ、仮に空いてたとしても、行ったところで長々と愚痴を聞かされて荷物持ちにされるだけだろうし。パシリ役になるくらいなら、多少だる絡みされても先輩と2人のほうがマシだ。
「ありゃ残念。また今度誘うね」
「……」
ムッと口を一文字に結び、ジト目で返す。
「え、どうしたの、怖い顔して」
「……背中で汗が流れたので、気持ち悪いなと」
あなたのせいですよ。とは口が裂けても言えず、汗に罪をかぶせて誤魔化す。
先輩とはスマホを持ち始めた中2の頃からやり取りしている。が、彼女の名前が表示された着信画面や通知はここ数年見ていない。
声をかけてくれるのは非常にありがたいけど……恐らく次回も姉を介して誘ってくるのだろう。
「先輩は暑くないんですか? それ長袖ですよね?」
「暑いに決まってるじゃん。本当は半袖着たいけど、バイト先冷房効いてるからさ。あと日焼けするし」
シャツをパタパタさせる真夏先輩。再び甘い香りが鼻腔に届いて心臓が大きく音を立てる。
会うたびにだる絡みしては不意打ちで触れてくる時点で、苦手ではないはず。なのになんで連絡くれないんだよ。
と、感情任せにぶち撒けると困らせてしまうので、厳しい家庭なんだなと勝手に理由を作って納得させている。前に30分くらい電話した時、親に怒られたと言っていたから。
「それなら上着を羽織ればいいじゃないですか」
「やだよぉ。そっちのほうが暑いし、洗濯物増えるじゃん」
「じゃあ日焼け止めを塗れば」
「ええー、めんどいなぁ。塗る暇があるならその分寝てたい」
そうだった、この人は自他共に認める面倒くさがり屋だった。
「ならもう少し短いの着たらどうです?」
「うーん……でもなぁ……」
今度は苦笑いを浮かべて腕を擦り始めた。どうやら最近太ったらしくダイエット中とのこと。
その片手ですっぽり掴めそうな手首を見る限り、昔とさほど変わってないように思えるが……下手に突っ込むと長話が始まるのでスルーする。
「別にノースリーブ着ろとは言ってないですよ。七分袖とか五分袖の服は持ってないんですか?」
「あるにはあるけど、仕事用にはちょっと派手だから……」
すると、どこからかブーッブーッと振動音が聞こえてきた。
「あ、私だ。ちょっと出てくるね」
「はい、もしもし」と電話に出ながら立ち上がり水辺に向かった彼女。通話している間に自分も時間を確認する。
「今? 外。……ううん、1人だよ」
スマホの電源ボタンを押した直後、目を見開いて顔を上げる。
「バイト帰り。今日早番だったから。……本当だって。今、日陰で休憩してるの」
視線に気づいた彼女が唇に人差し指を当てた。口にチャックをし、コクコクと頷く。
存在を隠すということは、相当噂好きか、嫉妬深いか。後ろを向いてしまったから表情は見えないけど、口調からして同年代っぽい。
「はいはいじゃあね」
気になってソワソワしていたら、通話が終了した。
「ごめん、私そろそろ行くね」
「あっ、じゃあ僕も」
急いで荷物をまとめて立ち上がった。熱を帯びた自転車のハンドルグリップを握って彼女の後を追う。
「あ、あの」
「ん?」
「来月は、お盆の後なら空いてます。ので……空いてる日あったら、教えてください」
土手を登りきったところで途切れ途切れに言葉を紡いだ。生温い風が、太陽に照らされたココアブラウンの髪をふわりと揺らし、本日3回目の胸の高鳴りが起こる。
「わかった。シフト確認したら電話するね」
いたずらっ子みたいな笑顔で手を振り、小走りで去っていった。徐々に小さくなっていく後ろ姿を眺めながら喜びを噛みしめる。
帰宅すると、案の定アイスは溶けており、個装の氷菓子は四分の一ほど液体化していた。