夏風に吹かれて、ひらりと本のページがめくられた。
 その拍子に川の中から魚が跳ねて、水しぶきの音に僕──上崎涼吾(うえさきりょうご)はふと顔を上げる。
 目の前には、東京湾へと続く一級河川。穏やかな流れを保ちつつも、夏の陽射しを受けて強い光を反射していた。
 その眩しさから逃げるように、僕の視線はすぐに本へと戻された。
 少し離れた鉄橋を電車が走る度に鉄の車輪がレールを叩く低い轟音が響き、川のせせらぎを遮る。そういった環境音が時折僕を本の世界から現実に引き戻すけれど、次第にそれさえも心地よい背景音の一部として溶け込んでいった。
 夏休みが始まって早々、真夏の屋外でひとり何をやっているんだと自分でも思う。でも、これはこれで悪くない。いや、クーラーが壊れて灼熱地獄と化している僕の部屋よりは随分と過ごしやすい場所だった。
 本を読むだけならリビングでも読める。だが、そこには親の目があって、どうにも集中ができない。
 やれ受験だ、やれ進路だ、やれ成績だ、と事あるごとに口煩く言われては、物語への没入感などあったものではない。ひとりで落ち着いて本を読める場所が、僕には必要だった。
 そうして辿り着いた場所が、この河川敷の道路橋の下。
 今月の初めくらいだろうか。テスト明けの気晴らしにサイクリングしていた時、偶然この道路橋が目に入り、それ以来ここがお気に入りの場所になった。この場所はほとんど人通りがなく、ひとりになりたいという僕の需要をしっかりと満たしていたのだ。
 それから、よくこの道路橋の下で本を読むようになった。今日もそんな、僕の惰性に満ちた夏休みの序章の一ページ。本の中の物語のように、なかなか奇想天外なことは起こってはくれない。
 ちょうど今朝買った本の一章あたりまで読んでから、僕は大きく息を吐いた。
 想像していたよりも重たい物語で、読むのが大変だ。まさか幼馴染がいきなり死ぬだなんて、想像もしていなかった。
 それにしても、()()はどうしてこの本を薦めたのだろう──? 
 僕は手元の本を見下ろし、怪訝に眉を顰める。
 手元にある本は所謂ライト文芸と呼ばれるジャンルの作品で、普段僕が読む類のものではなかった。実際、僕はこの本についてその存在さえも知らなかったのだ。それなのに、今朝偶然本屋で見掛けたこの本を手に取り、レジに向かっていた。
 そう。僕はこのジャンルの本も読まないし、この新刊の情報も、存在も知らなかった。もちろん調べた覚えもない。
 でも、僕は今朝の時点で、この本のタイトルを()()()()()
 それは……昨夜見た夢の中で、()()がおすすめしてくれたからだ。まさか夢の中に出てきた本のタイトルが実際にあるとは思わず、本屋で見掛けて思わず買ってしまった。
 これまでも夢の中の()()から本をおすすめされたことはあったが、どれも僕が知っているタイトルだったのだ。
 実に不思議な感覚。どこかでこの本のことを見ていて、それで夢に出てきたのだろうか?
 まあ、そんなことはどうでもいい。普段読むジャンルとは違う本と出会えたのは嬉しいし、実際にこの本はとても面白い。また夢の中で()()と会った時の会話のネタにでもすればいい。
 そう思って、現実の()()が到底読みそうにないこの本に視線を落とそうとした時──ふわりと甘い香りがした。そして、隣からこんな声が聞こえてきたのだ。

「やほ、上崎くん」

 ()()()()()()()()()()()()その声に驚いて反射的に顔を上げた時には、僕の喉からはひゅっと情けない音が漏れていた。
 それもそのはず。クラスメイトの花村(はなむら)六花(りっか)──僕が密かに憧れている女の子だ──がちょこんと僕の隣に腰掛けていたのだ。

「は、花村さん!? どうして……」
「さあ、どうしてでしょう~?」

 彼女は悪戯っぽく笑って、自らの手に顎を乗せた。
 ()()()と同様のその無邪気な笑みに、胸がきりきりと痛む。
 ああ、やめてくれ。そんな風に、その笑顔で僕を見つめないでくれ。
 ()()()の君と話すだけで、僕は満足してるんだ。()()()の君と話すのは慣れてない。いや……それよりも、()()()()()期待してしまうのが、嫌なんだ。
 僕らは、本来交わらない人間なのだから。
「それで、上崎くんは何読んでるの?」

 僕の気持ちなど気にも留めず、花村さんはその翠色の瞳で興味深そうにこちらを覗き込み、小首を傾げた。

「……本、かな」

 僕は気まずさを隠しつつそう答え、鞄を手繰り寄せてそっと本を仕舞う。

「わかってるよー。だから、『何読んでるの?』って訊いてるんじゃん」

 彼女はころころと楽しそうに笑い、その整った顔に喜色を広めた。
 まるで向日葵みたいに明るいその笑顔。僕の鼓動は壊れたメトロノームみたいに、どんどん速まっていく。

「べ、別に……僕が何読んでたっていいでしょ」

 ぶっきらぼうに返して、僕は自然と視線を正面の川の方へと逸らした。そして、自らの心臓にさっさと静まれと心中で怒鳴りつける。
 せっかく花村さんから話し掛けてくれたのに、気の利いた言葉の一つも返せない自分が憎らしかった。
 というより、正直に言うと、僕は今この状況にかなり戸惑っていた。
 ()()()側で花村さんから話し掛けられたのは初めてであったし、彼女の方から話し掛けてくるなんて、()()()()()()()()()
 そう……僕がこうして緊張してやや気まずい雰囲気を出してしまっているのは、ただ気になっていた女の子から唐突に話し掛けられたから、ということが理由ではなかった。
 彼女──花村六花こそが、僕がここ最近()()()()会って話していた女の子だったからだ。
 ちょうど今月に入ったくらいからだろうか。どうしてか、彼女が僕の夢に登場するようになった。でも、僕達はリアルでの関係値はほぼ無いに等しい。辛うじて同じクラス、という接点があるだけだった。
 僕が一方的に想いを募らせているうちに、花村さんが夢の中に出てくるようになったのだろう。何となく、僕は自分の夢に対してそんな解釈をしていた。
 現実では決して手の届かない高嶺の花村さんと、話したい。親しくなりたい。そんな願望が夢になって現れているのだ、と。
 そして、その願望通り僕は夢の中で勝手に花村さんと仲良くなって、色々()()()。正直、こうして言葉にしてみると自分でも気持ち悪いと感じる。
 でも、僕は夢の中で彼女と話すのが好きだった。それはきっと、現実では叶うことがないと自分自身が理解していたからだろう。
「まあ、確かにね」

 花村さんは困ったように眉を下げると、僕の視線を追って、川の向こう岸へと顔を向けた。
 僕らの間にある気まずい沈黙を、鉄橋を走る電車の音が掻き消していく。鉄の車輪がレールを叩くたびに低い轟音が響き、居心地の悪さを一層際立てていた。
 電車が走り去ると、残るのは沈黙と蒸し暑さ。
 先程まで心地よさを感じていた川のせせらぎも、鉄橋の下を吹き抜けていく夏風も、今の僕にとってはいずれも不快感を齎すものでしかなかった。気まずさも相まって、じわりと汗が顎を伝って落ちていく。
 はあ……やっぱり、僕はダメだな。
 夢の中ならあれだけ饒舌に彼女と話せるのに、待望の()()()()()()との会話では、全然言葉が出てこない。
 でも、こっそり彼女の横顔を覗き見て、そこに少しの違和感があることに気付く。
 僕の塩対応に、本来なら花村さんはもっと退屈そうな顔をしていたり、不快そうにしていたりしてもおかしくない。でも、川の対岸を眺める彼女は、目を細めて僅かに微笑んでいるように思えたのだ。