「そうだよ。801グラムの超低出生体重児で生まれたんだ、俺」

「危ない状態だったのね。生まれたとき」

 チヒロは感慨のこもった声で、かすかに息を漏らした。

「あれは……ヨシくんの記憶のなかにある光景なの?」

「わからない。生まれたときのことを俺が覚えてるわけないから、ものごころつくころにじいちゃんやばあちゃん、親戚の人から聞かされてきた話を、俺がイメージしてつくりだしたのかも。それか、じっさいのシーンがなぜか再現されたか……」

「ふしぎね……。ヨシくんのご両親、おじいさん、おばあさん、みんなが一生懸命祈ってたね。ヨシくんの心の声も聞こえたのよ。
 もう終わってもいいと思ってる、とか、お母さんお父さんおじいちゃんおばあちゃんよりチヒロといたい、とか」

「……ほんとに?」

 あのときの気持ちに、うそはまったくない。

 だけどいまチヒロの口からくり返されると、恥ずかしさや後ろめたさで額に汗が吹き出てくる。

「ほんとうよ。聞こえたの。だから……ひとりで東京にもどってきたの。ヨシくんの命が助かったのがわかって。
 わたしはもうヨシくんのそばにいちゃいけない、離れたほうがいい……そう思ったから」

「そんなこと……。ぜんぶ俺が悪いのに。でも……東京のどこにいたの」

「じぶんの家。ヨシくんのご家族を海のなかで見てたら、母のことが気になって。……行ってびっくりしちゃった。
 だってわたしの部屋の荷物が……前に話したでしょ。ほとんど片づけられてたわたしのものが、もとにもどってたから」

 チヒロはもの問いたげな目をして、ちいさく肩をすくめた。

「お母さん、どうしてってきいても、わたしの声はやっぱり届かない。わたしのうちの和室にね、いままでなかった仏壇が置いてあったの。
 そのなかにはわたしのお位牌(いはい)があって、……朝、母がお水とごはんを供えてくれてたの。
 夜も……わたしの分をこしらえて。でも母はほんのすこししか口をつけてなかった。
 毎日そんな食事の量だったのか、お母さん、すごく痩せちゃって……」

 チヒロが声を詰まらせた。

 チヒロの顔のすみずみまで、深い悲しみの色に染まっていく。

「お母さん、仏壇の前で謝ってたの。わたしに。いいお母さんでなくてごめんね、やりたいことをさせてあげなくてごめんねって。
 わたし、お母さんっ、て何度も呼んだの。お母さんお母さん、わたしここにいるよ。もう謝らないで。そんなにじぶんを責めないで、って。
 でも……お母さんには……聞こえなくて……」

 チヒロの頬を涙がつたった。

 ひとすじ、ふたすじ。

 すべり落ちた涙は床にたどり着く前に、かたちを失い、消えていった。

「ヨシくん……お願い」

 すがりつくように、せつなげな声だった。

「わたしの思いを、母に伝えて欲しいの。信じてくれないかもしれないけど……ううん、ぜったい信じないだろうけど、それでも届けて欲しいの。
 わたしはお母さんに感謝してる。ここまで育ててくれてありがとう。チヒロは幸せでしたって」

 目に涙を張り、チヒロは気丈に微笑んだ。

 心ぼそさも、無念さも、執着も手放して、この世に生まれ落ちるずっと前の状態──無に帰っていくことを受け入れている。

 チヒロはそんなまなざしをしていた。

 僕はチヒロの前に立ち、その身体の淡いふちどりをくるむように、ふんわり腕をまわした。

 涙をぐっとこらえて言う。

「チヒロの思いはよくわかったよ。かならずお母さんに伝える。
 ……ごめんね。俺、あんまりいい彼氏じゃなくて」

「そんなことないってば」

 チヒロは強くかぶりを振った。僕の胸に耳をくっつけるようにもたれてくる。

「ヨシくんは最高の彼氏よ。2か月ちょっとの短いあいだだったけど、いっしょにいられて幸せだった。
 たくさんたくさん楽しませてくれて、ほんとうにありがとう。宮古島の海……とってきれいだったね。ふたりで見あげた満天の星空も……ぜんぶ目に焼きついてる。
 まぶたを閉じるとね、あのときの感動がよみがえってくるの。
 ねえ、ヨシくん。この世に生きているってすばらしいことよ。わたし……死んでみて、それが痛いほどわかったの。
 いまがとっても苦しい状況だとしても、自分しだいでこれからの日々をどうにでも変えていけるんだもの。完全にひとりぼっちではないんだもの。
 人生は一度きり。死んでしまったらやり直しはきかない。だから、いまを生きている……生かされている幸運を忘れずにいてね。
 わたしがいなくなっても……毎日ちゃんと過ごして。ご飯をしっかり食べて、学校へ行って授業を受けて、将来のことも考えて……」

 チヒロは僕にもたれるようにしたまま、上目づかいで僕を見やった。