「善巳はどうなの? ハンバーグ断ち……まだつづけるの」

「あぁー」

 うめくような声を漏らしただけで、あとの言葉がつづかなかった。

 チヒロが生き返りますように。事故に()う前の時間にもどりますように。

 ファンタジー的な奇跡を願ってはじめた、物断ちだ。

 チヒロはまったく姿を見せなくなったけど、やっぱりまだあきらめたくない。

 この世のどこかにチヒロがいるという望みを捨てたくない。

 捨てちゃだめだ、と強い思いが、身体の奥底からわきあがってきた。

「つづけるよ」

「そう。わかったわ。でも気になるなぁ。善巳がなにを願って、大好きなハンバーグを断ってるのか。
 ……あれっ。ねえ! 宮古島のことやってるわよ。飼い犬がさらわれて、ボートで海に流されたとか。
 善巳が遭遇した状況と似てるんじゃない?」

「えっ」

 急いでテレビの前に行った。

 青い空、澄んだ海、白い砂浜。

 記憶に新しい景色を背に、マイクを持った女性レポーターが事件のあらましを伝えている。

 宮古島ではここ数週間、庭や畑などで外飼いされていた犬がとつぜんいなくなる事件が頻発していたという。

 犬たちはおもに島の南側の海の沖に、ビーチボートに乗せられて流されていた。

 自力で泳いで助かった犬や、海に漂っているところを人に救われた犬もいたが、まだ行方がわからない犬もいるらしい。

 窃盗(せっとう)と動物愛護法違反で逮捕された犯人は、東京からアルバイトで来ていた20歳の青年2人だった。

『うっぷんが溜まっていたのでやった』

『流されている犬が悲しそうにキュンキュン鳴いたり、必死に遠吠えしている姿がおもしろくて、見ていると気分がスカッとした』

 犯行の動機をそう供述したという。

「ひっどいわ」

 母さんは、痛ましそうに顔をしかめた。

「どうしてそんな心ないことができるのかしら。ワンちゃんたちにはなんの罪もないのに。かわいそう……」

 僕の耳に、夜の海できいた、あの薄茶色の犬の吠え声がよみがえった。

 オンッ、オンッ、ウォンッ!

 切迫(せっぱく)さを感じる鳴き声だった。

 僕が近づいていくと甘えた感じの鳴き声に変わり、すり寄って匂いを嗅いできた。

 まるくて黒くて、かわいい目をしていた。

 人懐(ひとなつ)っこく、ぶんぶん尻尾を振っていた姿が、脳裏に思い起こされる。

 首輪をしていたのなら、あの犬にもちゃんと飼い主がいるのだろう。大好きな人のもとへ、もうもどれただろうか。

 テレビ画面に映る透き通った海の映像が、僕をふたたび思い出の世界に引きこんでいった。

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 コーヒーカップを持って、二階へあがった。

 部屋のドアを開け──、じぶんの目を疑い、あやうくカップを落としそうになった。

 チヒロ──。

 窓の前にチヒロがたたずみ、こっちをふり返ったから。

 生気(せいき)のない顔をしていた。

 そして姿が──背景がうっすら透けて見えるほど、薄くなっていた。

 駆け寄りたい気持ちをこらえて、僕はカップをそっとテーブルに置いた。

 大きな声を出したり物音を立てたりしたら、チヒロがかき消えてしまう。そんな気がしたから。

「心配したよ。……いままでどこにいたの」

 冷静さを失わないように気をつけ、しずかにきいた。

 チヒロはものうげな表情で、淡い目の焦点を僕に合わせた。

「ごめんなさい……」

 そうぽつりと言い、

「心配かけて……」

 ささやくように言い足した。

 僕はゆっくり首をふった。

「謝って欲しくてきいたんじゃないよ。もどって来てくれてありがとう。チヒロとまた会えて、ほんとうにうれしい。
 俺さ、いま泣きそうなぐらいほっとしてるんだけど、必死に涙をこらえてるんだ」

 重い口調にならないように笑い混じりに言うと、チヒロは口もとだけを、ふっとほころばせた。

 瞳に深い影が落ちている。

 悲しみ……。あきらめ……。やるせなさ……。

 瞳の奥にそれらの感情が沈みこんでいるのが見えて、胸が苦しくなってきた。

 チヒロは感じているのだ。

 じぶんがこの世からまもなく、消え入ろうとしているのを。

 そしてそれを、僕も漠然と感じている。

 ヨシくん──とチヒロがやさしく呼びかけた。

「ヨシくんが海で溺れたとき、海中でふしぎなものを見たの。女の人が赤ちゃんを出産しているところ。それが目の前に投影されたの」

「えっ。チヒロにも見えてたの?」

「やっぱり……。ヨシくんにも見えてたのね。生まれてきた、あのすごくすごくちいさい赤ちゃんは……もしかしてヨシくん?」