燦々(さんさん)と輝く大海原(おおうなばら)のブルー、吸いこまれてしまいそうな天空のブルーにかこまれて、この世じゃない世界に、ふわりと浮かんでいるような気がしてきた。

 目が、心が、息をのむ美しさに清められていく。

 平衡感覚が失われそうになり、とっさに手前にある柵の白い手すりをつかんだ。
 手すりは強い陽射しにさらされて、ホット缶並みの熱をはらんでいる。

 海面がおだやかにうねるたびに、新しいきらめきが生まれていた。

 その輝きも、青空にむくむくと盛りあがる綿雲も、遠くで立つ白波も、1秒前と同じように見えながら、二度と再現できない一瞬をきざんでいる。

 このいちめんの海のずっとずっと先には違う国があり、日本とは異なる文化の(いとな)みがあって、さらに先にはまた別の国があり、その先にも異国の存在がある。

 そうやってずんずん前進していけば、地球を一周し、やがてはこの海にたどりつくのだ。

 球体の惑星の表面にこうして立っていられることが、ほんとうにふしぎだった。

 地球の強い引力と、自転によって起こる遠心力のおかげだと頭ではわかっているが、そもそも引力はなぜ発生しているのか、いまだに解明されていないのだ。

 21世紀のいまでも答えを導きだせていないなぞは、ほかにもある。

 この世を去ったはずのチヒロがここにいるということも、そのひとつだろう。

 無上の幸福を僕にもたらしてくれる“奇跡”が、いま現実に起きている。

「すごいね……」

 チヒロが風と波音に消されそうなほど、ちいさいボリュームの声で言った。

「うん。すごいね……」

 僕は、オウム返しに(こた)える。

「来てよかった……。ありがとう、ヨシくん。……わたし、この贅沢な景色を、ずっと、ずっと、ずっと……忘れない……」

 うるみを帯びて、真実味のこもった声だった。

 僕の口からも、しぜんと言葉がついて出た。

「こっちこそ、“ありがとう”だよ。チヒロがいたから、俺もここへ来ることができたんだから。
 俺もチヒロとおんなじ考え。ひとりじゃつまらないよ……。こういう絶景を見たらやっぱり、すごいね、きれいだね、感動するねって伝えあいたい。
 その相手はチヒロがいい。って言うか、チヒロじゃなきゃ、ぜったいいやだ。
 これからもずっとそばにいて欲しい。 チヒロはさ、俺の人生になくてはならない人になってるんだ、もう」

 すべてが嘘いつわりのない言葉だった。

 でも、チヒロの反応は微妙だった。

 微笑んでいてもどことなく、ぎこちなさと寂しさが漂っている。

「ありがとう、ヨシくん。でもね……」

「『でも』は、なしだよ」

 僕はからりとした声で、チヒロの言葉をさえぎった。

「チヒロはさ、どうも悲観的になり過ぎる傾向(けいこう)があるんだよなぁ。
 俺たちはずっといっしょだよ。明日も、あさっても、1年後も、10年後も。それはまちがいないから。
 そうだ。写真撮っとこ! 神部たちに見せびらかしてやろぉっと」

 強引に話題を変え、張り切ってリーボックのショルダーポーチからスマホを取りだした。

 大海原の水平線にレンズを向ける。

「写真じゃなくて動画かなー、やっぱ。おお! すべてが絵になるねー。絶景かな絶景かな、なぁんてね」

 ひとり浮かれた声をあげて、スマホを水平線に沿わせてずらしていった。

 移動した先のカメラアングルに、チヒロが入りこむ。

 海を見つめているしっとりした横顔が、ファインダーに映っている。

 でもじっさいに撮影した写真や動画に、チヒロが写ることはない。

 どこへ行ってもそうだった。

 どの記憶媒体(ばいたい)にも、チヒロの姿は残らない。

 僕の目にしか、チヒロは映らないのだ。